リュディの身体
今、何が起きてるんだ……?
ずいぶん長く時間が止まったような気がするが、客観的にみればきっと一分にも満たないだろう。
しばらくリュディと見詰め合っていたライトスは、ふと正気に戻った。
意識して少し深い呼吸をしてから、一度ゆっくりと目を閉じてまた開く。
幻かと思ったりもしたが、リュディの姿は消えることなくライトスの部屋の中に存在していた。
未練がましく彼女のことを考えているから幻覚が見えている……のなら、少し不安そうな表情でライトスを見上げたりはしないだろう。妄想なら、都合良く笑顔を向けてくれるはずだ。
「リュディ、もしかして……俺について来たの?」
ライトスの質問に小さな頭が頷き、肩まで伸びたくせのない黒髪が揺れる。
恐らく、ライトスが扉を開けた時にリュディは彼の真後ろに駆け寄って来て、一緒に扉を通り抜けたのだ。
部屋に戻ったライトスは気付かないまま、それまでリュディがいた方を向いたため、すり抜けたリュディ自身はライトスの後ろに立つ状態になった。
道理で振り返っても、リュディがどこにもいないはずだ。俺の真後ろに来てたんだから。
そして、ライトスが扉を閉めてこちらを向いたらリュディがそこに立っている、という状況に。
俺が父さんの後ろについて、妖精界へ潜り込んだ時みたいだ。それの逆パターンをされたってことか。
まさか子どもの時の自分と同じ行動を、それも妖精のリュディがするなんて想像もしなかった。
そもそも、なぜ彼女は人間界へ来たのか。
妖精が人間界へ来る点については、別にこれという問題がある訳ではない。魔法使いが呼び出せば妖精は人間界へ来るし、呼び出されなくても自分の意志でいくらでも来ることはできるのだから。
でも、パーティの扉を通って、というのは聞いたことがない。それとも、ライトスが知らないだけで、実はこんなことは普通にあったりするのだろうか。
いきなりの状況にうろたえていたライトスだったが、時間が経つにつれて次第に落ち着きを取り戻した。
相手は得体の知れない魔物や、害をなそうとする獣の類ではない。むしろ、少しの時間でいいから一緒にいたいと願っていた少女だ。
……が、その願いがこういう形でかなったのはいいのか、悪いのか。
妖精界でもしていたように、ライトスはリュディと視線を合わせるようにその場にしゃがんだ。
「リュディ、もしかして人間界へ来たかったのかい?」
「……」
少女は何も答えず、じっとライトスを見詰める。妖精界にいた時よりも至近距離だ。手を伸ばせばすぐに触れられる位置に、リュディは立っている。
緑の瞳に見詰められるとどきっとするが、今はそれどころじゃない。
一言で表すなら、とにかく困った。どうしたものなのだろう。
魔法使いが妖精の力を借りたい時は、呼び出すための呪文を唱える。用件が済めば手伝ってもらった礼を言い、妖精は「自分で」帰って行く。それが通常。
しかし、妖精の方からこうしてやって来た場合、どう対処すればいいのか。人間の子どものような妖精が家にひとりいたところで特に生活が困ることはないものの、どのように対応すればいいのだろう。
妖精界へ行く時、ライトスはリュディがいれば話をしたい、と思っていた。それがじっくりできなかったから、こうしてまた話をする時間ができたのは嬉しい。まだまともな会話になっていないが、それはいいとして。
場所がどこであれ、リュディと一緒にいられるのはライトスにとって最高の状態と言える。
ただ、妖精界への扉が消えた今、彼女は自力で戻れるのだろうか。もしくは、ライトスに戻せるのだろうか。
「ここ、どこ?」
何からどう切り出せばいいだろうと思っていた矢先、リュディの方から口を開いた。
「え? えっと、ここは人間界だよ。俺の住む世界で……」
さっきもそうだったが、リュディの質問がざっくりすぎるので、ライトスとしてはどこまで答えればいいのか悩む。
とりあえず、現在位置を言ってみた。
「ルットって名前の街だよ。その中に俺の家があって、ここは俺の部屋。別の部屋に、俺の父さんと母さんがいるんだ。父さんも魔法使いだよ」
ここまで言えば、リュディにもおおよそわかるだろう。ルットの街が人間界のどの辺りにあるか、とまではリュディもきっと突っ込んでは来ないはず。
だいたい、ライトスもそんな質問をされたら答えに窮する。地図を出して、彼女が読めるかどうか。
「ルット……わかんない」
困ったような表情で、リュディは首を傾げた。そんな場合ではないが、こういう顔もかわいい。人間でも妖精でも、かわいいというのは得だ。
「うん、人間界に来たことがあまりなければ、そうだろうね。人間界にはたくさんの街や村があって、ここはそのうちの一つだよ」
人間界慣れしている妖精なら「あーあ、ここがそうなの」なんて反応もありそうだが、さすがにリュディからそんな言葉は出ない。
「ライトス、にんげんはあっちに行っちゃ、いけないの?」
「あっち? 妖精界へってこと?」
リュディは頷かなかったが、たぶんそうだろう。この会話の中で、他に思い当たる場所がない。
「妖精界へ行けるのは、人間の中でも魔法使いだけだよ。だけど、それも全員じゃないんだ。妖精から来てもいいよっていう許可証みたいなものを受け取った魔法使いだけが、少しの時間だけあの世界にいられるんだよ」
説明したものの、リュディは何をどこまで理解しているのだろう。
ライトスはリュディと話をしたいと思っていたが、こうして面と向かうと何を話していいのか悩む。会話のテンポや中身がまだうまく掴めない。
「リュディ、こっちへ来るのは構わないけど、ひとりで帰れる?」
ライトスが尋ねると、リュディは大きく首を横に振る。今までで一番はっきりした動きだ。
ただ、はっきり答えてもらえたのはいいが、これはこれでライトスも頭を悩ませる。
「んー、さっきの扉はもう一年後まで現れないしなぁ。それだって、確約じゃないし。父さんに相談しないと」
自分では帰れない。だとしたら、他の妖精を呼び出してリュディを連れ帰ってもらうくらいしか、たぶん戻れる方法はないだろう。
もしくは、ライトスが知らないだけで実はちゃんとした方法がある、とかだったりするのか。
とにかく、ライトスだけではどうするべきかの判断ができない。
「父さんは少し具合が悪いんだ。もうほとんど治ってるみたいだけど、今は眠ってるんじゃないかな。だから、リュディがどうすれば帰れるかを聞くのは、明日にするよ。今日はもう時間も遅いからね。ぼくのベッドでよければ、ここで寝るといいよ」
妖精は寝る時、どこで寝るのだろう。絵本の中だと、花の妖精は花の中に、水の妖精は貝や水草の中に、なんてことになっているのだが……現実はどうなのか。
魔法使いになったとは言っても、ライトスは妖精が眠る場面に遭遇したことがなかった。だから、いざ現実には、となるとわからない。
リュディの見た目や大きさは人間の子どもだし、今は他に休める適当な場所もこれといって思いつかなかった。
リュディはライトスがベッドの方を差すのを見て、小さく頷いた。ライトスはそれを見てほっとする。ひとまず、今夜は何とかなりそうだ。自分は下の部屋へ行って、ソファで眠ればいいと考えて。
「ほら、おいで」
ライトスはリュディを促し、ベッドの方へと向かわせる。リュディは素直にそちらへ歩き出した。
だが、何歩も進まないうちに突然リュディがしゃがみ込む。
「んー……」
「え……リュディ……リュディ? どうしたんだ?」
妖精にも病気というものはあるのだろうか。持病の発作などというものが。
ライトスがそんなことを考える程、リュディはいきなり顔を歪めて座り込んでしまったのだ。どこか痛むのか、自分で自分の身体を抱き締めて。
もう具合がどうとか言っていられない。バートルを呼んで何とかしなければ。
そう考えたライトスは、自分の目を疑った。座り込んだリュディの身体が、急に大きくなり始めたのだ。
「え……」
自分の身体を抱き締めていたその腕が長くなり、うつむくリュディの顔を隠すように髪も長く伸びてゆく。小人が人間のサイズに大きくなる、というのではなく、その変化は子どもが大人になるというものだった。
今までリュディ自身にばかり意識が向いていたので気にしていなかったが、彼女が着ているものは人間が着る服と変わらない。服と言うより、寝間着に近かった。シンプルすぎるデザインで、裾がくるぶしまである生成りのワンピースみたいだ。
それらはリュディの身体が急激な成長を始めたことについてゆけず、音をたてて破れていく。ライトスはそのなりゆきを、ただ呆然と見ているばかりだ。
やがて変化が止まったリュディは、ライトスとそう変わらない年代の少女に成長していた。十四、五歳と言っても十分通じる、人間の少女の姿に。
「え、何で……」
まさか、呪い? 呪いで子どもにされていたとか。それとも、逆に人間並みに成長する呪いみたいなものをかけられてる? 成長するのが呪いっていうのも変かな。人間界へ来たことで、とんでもない影響がリュディに与えたんじゃ……。
一瞬のうちに色々なことを考える。いや、今は驚いている場合じゃない。
今のリュディはほとんど裸に近かった。それまで着ていた服は、もう端切れだ。今は伸びた黒髪が胸元を隠し、座り込んでいるから全身は見えないが、彼女が立ち上がればとんでもないことになる。
ライトスは部屋を見回し、慌てて壁にかけてあったハンガーから上着をひったくるように取ると、リュディの背にかける。だが、そんなに丈のある上着ではないから、上はよくても下がマズい。
もう暖かい季節なので、丈の長いコートなどはクローゼットの奥へしまわれている。すぐにはちょうどいい物がなく、ライトスはシーツをベッドから引っぱがした。
それを上着をはおらせたリュディのさらに上へかける。これで何とか一時しのぎにはなるだろう。
一旦はほっとしたライトスだったが、落ち着いてばかりもいられない。
これでは、誰が見ても自分の部屋へ女の子を連れ込んだ図である。しかも、服なし。
バートルに相談しようにも、まずは誤解を解くことから始めなければならなくなりそうだ。
一方、身体の変化が落ち着いたリュディは、ライトスにかけられたシーツの下から自分の腕を伸ばし、不思議そうに見ている。何か珍しい物があるかのように、きょとんとした顔だ。その表情を見ている限り、もう痛みなどはないらしい。
「あの……リュディ? きみ達って、いきなりそんなに大きくなるもの?」
たぶん、普通は絶対にこうじゃないよな、と思いながらも、ライトスはそう聞かずにいられない。
ただ、こんな時でもどこか冷静な部分の自分がいて、成長したリュディもかわいい、なんてことを思ってしまっていた。
尋ねられたリュディの方は、不思議そうに首を傾げる。
「わかんない。ライトスはこんな風に大きくなったんじゃないの?」
見た目は十代半ばの少女だが、さっきまでここにいた四、五歳の女の子みたいな口調のままだ。
「俺達はそんな急に大きくなったりしないよ。だけど、いくら何でもこの成長の仕方は普通じゃないよな、やっぱり」
妖精がどんな成長の仕方をするにしろ、こんな一気にではない……と思う。それとも、ライトスにとっての未知な世界が、ここからまだまだ広がってゆくのか。
「ライトス、おなかすいた」
現状を理解しているのか、いないのか。リュディはのんきにそんなことを言い出す。
「え? あ、えっと……リュディは何が食べたい?」
花の蜜、なんて言われたら困るが、とりあえず食べられそうな物を言ってもらわないと、ライトスとしても何を持って来たらいいのかわからない。これまで妖精に食事を提供したことなどないから。
「チョコクッキー」
「へ?」
あまりにも普通の食べ物を言われ、ライトスは目を丸くする。ハチミツくらいならわかるような気もするが、チョコクッキーをほしがる妖精なんているのか、と意外な気持ちでリュディを見る。
「ミルクもほしい」
「わ、わかった」
人間にはすぐ用意できない食事をリクエストされるよりはいいが、これでは完全に人間の子どもが喜ぶおやつだ。
「ミルクはともかく、チョコクッキーなんてあったかな」
部屋で待つように言って、ライトスは部屋を出た。
残されたリュディは、ライトスの部屋を見回す。
近くにあった本棚を覗くが、面白そうな物がないのか、すぐに他へ視線を移した。
視線の高さに少し戸惑いつつ、ライトスにかぶせられたシーツを引きずりながらうろうろと歩き出す。
そのうち、リュディはライトスの机へ近付いた。何冊かの本が平積みされ、少し奥に瓶が置かれている。
その中に赤い粒が入っていた。さくらんぼくらいの大きさで、色もきれいな明るい赤。これという色彩に乏しい部屋で、その赤はとても目を引く。
リュディはその瓶に手を伸ばした。コルクでふたされた瓶を手にし、顔に近付ける。瓶の中身は十粒前後といったところで、細い瓶の肩辺りまで入っていた。
コルクを引っ張ると、案外簡単に抜ける。そのコルクは机の上に放り、リュディは指を突っ込んで中身を取ろうとした。
だが、瓶の口が細いので、指二本を入れると中身をつまんで取り出すことはできない。すぐに指を瓶から抜くと、手の平に瓶を傾けて中身を転がした。
べたつくこともない赤の粒を、リュディはそのまま口へ放り込む。キャンディのような粒は、ちっとも甘くなかった。
一方、部屋を出たライトスは、キッチンへと向かう。ミルクはあるが、棚の中などを見てもやはりチョコクッキーは見当たらない。
だが、ビスケットが数枚あった。クッキーは明日の朝に……時計を見てないのでもう日付は変わっているかも知れないが、とにかく夜が明けてから買うしかない。
ひとまず、それらを持ってライトスは自室へ戻る。
驚かすといけないと思い、自分の部屋なのにノックをして入った。
「リュディ……?」
呼んでみたが、妖精界から来た少女の姿がない。床には、さっき彼女にかけたシーツが広がっている。一部が少しふくれているのは、シーツをかける前にリュディにかけた上着があるからだろう。
部屋の扉が開いた音はしなかったはずだし、まさかあの怪しい格好で家の中をうろついてるんじゃないよな。ってか、シーツはここに広がってるんだし、それはないか。
じゃあ、俺がいない間に妖精界へ戻ったとか? 窓は開いてないから、そこから抜け出したって訳じゃないみたいだな。自分じゃ戻れないって首を振ってたけど、どうやったんだろう。無事に妖精界へ戻れているのならいいんだけど。
さっきの様子だと、妖精の魔法もまともに使えるか怪しい。だが、生まれついての本能で使いこなせる、ということもある。
どちらにしろ、彼女はいなくなってしまった。それなら、リュディが無事に妖精界へ戻ってくれていることを、ライトスとしては祈るばかりだ。
いきなり部屋に現れてあたふたしてしまったが、いなくなるとやっぱり淋しいし、残念だ。さっき妖精界で話していた時間も短かったが、この部屋で一緒にいた時間も短かった。
会話の時間より、色んな出来事に驚いている方が長かったような……。どんな話題がいいかまるで思い付かなかったが、もう少し言葉を交わしたかった。いたらいたであたふたし、いなくなったら後悔しきりである。
とにかく、朝になったらバートルに事の顛末を話しておいた方がいいだろう。
もっとも、小さかった女の子がいきなり成長した、なんて話して信じてもらえるかどうか。魔法使いになったのに、また妖精界の魔力に中ったのか、なんて笑いながら言われそうな気もする。妖精界へ行った後の出来事だから、なおさらだ。
そう考えると、別に話さなくてもいいかな、なんてことも考えたりして。
この点については明日になってから決めることにした。
床に広がったシーツを片付けようにも、手はミルクを入れたコップとビスケットを入れた皿でふさがっている。
「あれ?」
それらを机の上に置こうとして、ライトスは赤い粒の入った瓶のふたがあいていることに気付いた。記憶違いでなければ、中身が減っている。
そのことに気付いた途端、ライトスは蒼白になった。
「まさか……リュディ!」
改めて、床に広がるシーツに視線を移す。その一部が、ごそごそと動いているのを見付けた。
「嘘、だよな……」
ネズミか何かであってほしい。ライトスのつぶやきは、完全に希望のみだ。
ライトスがそっとシーツを持ち上げると、いなくなったと思ったリュディがそこから顔を覗かせる。だが、さっきまでの彼女ではない。
「こんなの……ありか……」
呆気にとられながら、ライトスは力なくつぶやき、がくりと膝を折る。
人間と変わらない大きさだったリュディは、ライトスが部屋を出ていたわずかな時間に、他の妖精達と大差ない大きさに縮んでいたのだった。