十年振りの妖精界
夕食が終わると、ライトスは自分の部屋へ戻った。
日付までは覚えていない。でも、今日と同じように、よく晴れていたことは覚えている。昼間は暖かな日差しが部屋へ差し込んでいた。
そんな春のある日。
十年前に白い小鳥が招待状を届けた日の夜、父は自室の扉を開けて妖精界へと入った。
使う扉は、自分が通れる大きさならどこでもいい。極端な話、鍵穴さえあればそれがタンスの扉であっても、自分の身体が通り抜けられるならそれでもいいらしい。
だいたいの魔法使いは自室の扉、もしくは玄関の扉を使うことが多いようだ。
こっそり忍び込んだあの日以降ずっと、ライトスはバートルが妖精界へ行くところを見ていない。招待状がちゃんと来ていたのを知っているし、父も毎年行っているはずだ。
単にライトスがその様子を見ないようにしていただけである。もし見たら、またバートルの目を盗んで自分も妖精界へ行きたくなりそうだったからだ。
十年前のあの夜は、扉が開くまでの時間がひどく長いように感じた。今もいつもの倍以上に時間がゆっくり流れているような、下手したら止まりかけているんじゃないかという気がする。
あの夜は、バートルに連れ戻されてからこっぴどく叱られた。普段は温厚な父がまるで別人のように叱りつけるので、ライトスは本当に悪いことをしてしまったのだと感じたのだが……途中から記憶がなくなっている。
急に熱を出して倒れたのだ。それも、叱られている最中に。
ようやく熱が下がってからライトスが聞いたのは、自分達の住む人間界と妖精界では、漂う気が違うということ。目では見えないし、吸っても毒になるというのではないが、普通の人間には強すぎる魔力が漂っているのだということらしい。
魔法使いなら魔法を使うので順応できる。だが、一般人で子どものライトスはそれに中ってしまい、身体が過剰に反応して熱を出したのだろう、と推測された。病気ではないし、医者にも診断のしようがなくてそう言われたのだ。
今回の招待をバートルが辞退したのは、調子のよくない身体でそんな魔力の強い世界へ赴けば、帰ってからさらに具合が悪くなってしまう、ということにもなりかねないからである。
とにかく、父が「妖精界へ行きたければ魔法使いになれ」と言っていた意味を、ライトスは強制的に身体で理解させられたのだ。
それまでは、魔法使いになろうと本気で考えていた訳ではなかったが、そのことがあってからライトスは真剣に魔法の勉強を始めた。
こそこそ隠れて潜り込み、あげくに帰ってから熱を出して寝込む、なんて体たらくはもうごめんだ。子どもながら情けなかった。次は堂々と自分で扉を開いて入りたい。
そういう気持ちがあったのは本当だが……魔法使いになりたい理由は他にある。
妖精界へ行って、もう一度リュディと会いたい。
それがライトスの本音だ。自分より少し年下に見えるあの妖精の少女に会いたい、という強い望みがライトスの中にあった。
そのためには、魔法使いになることが必要最低条件だ。
バートルが妖精界へ行くのをライトスが見ないようにしていたのは、リュディに理由がある。あの時のようにこっそり潜り込み、リュディに会いに行こうとしないように、だ。自分で自分が抑えられなかったらどうしよう、と不安だったからである。
そうでなければ、魔法使いが妖精界へ行くのを見送ることは禁止されていないから、それまで父と一緒にいたって構わない。バートルだって、ライトスがまたついて来たりしなければ何も言わないだろう。
十年前のあの日。バートルがライトスを見付けていなければ、リュディともう少し話ができただろうか。
別にこれと言って話したい内容があるという訳でもないのだが、彼女と話したかった。何でもいいから、言葉を交わしたかったのだ。できれば、もう少し彼女に近付きたかった、とも思う。
あの時、バートルはリュディの姿を見ただろうか。
帰ってから、ライトスはリュディの話をしていない。父が何も言わないところをみると、いつの間にかライトスが妖精界にいる、という驚きばかりが心を占め、周囲をよく見ていなかったのだろう。
見ていたところで、父からリュディの情報が得られるとも思えなかった。もしバートルがリュディを知っていたら、そう言えばあそこにいたな、という話になるはずだ。リュディだって、バートルの姿を見て逃げることはなかっただろう。
妖精は歳を取らない。年齢を重ねても、そのままの姿なのだ。もし今夜会えたとしても、きっとリュディの姿は変わっていないだろう。こちらでは十年経っているが、人間界とは時間の流れ方が違うらしく、妖精界ではどれくらいの時間が流れたことになっているのか。
もし会えたとして、リュディはライトスのことを覚えてくれているだろうか。覚えてくれていたとして、成長したライトスがわかるだろうか。妖精なら相手の気配などで察してくれるのでは……というのは期待しすぎかも知れない。
どうして魔法使いになろうとする原動力がリュディなのだろう。
ライトスは自分でも不思議に思っていたが、ある日、ふと自覚した。
自分の初恋の相手がリュディであり、一目惚れだったのだ、と。
自分でもガキのくせに、なんて思う。でも、誰かを好きになるのに、年齢なんて関係ない、とも思う。
初恋は実らない、とよく聞くが、それならライトスの失恋は確実だ。高嶺の花なんて言われる女性がいても、それはあくまでも人間の話。ライトスの場合、存在そのものが違う。生きる時間も世界もまるで違うのだから、実るはずがない。
それでも会いたいと思うのは……恋は盲目だから、ということだろうか。
何にしても、下心ありきで魔法使いになったみたいだ。人が聞いたら、それは間違いなく下心じゃないか、と言われそうで、バートルにはとても彼女のことは話せない。
ただ、時間が流れるにつれ、ライトスには少し気になることがあった。
あの時の様子から察するに、リュディはどちらかと言えば社交的ではない妖精だと思われる。それなら、なぜ彼女はあそこにいたのだろう。
以前、バートルから聞いたおおよその話では、魔法使いが招かれて足を踏み入れる場所は妖精界のいわば入口。その奥(どこが奥になるのか人間には不明だが)にはもっと多くの妖精と、入口の方へはあまり出て来ない竜や魔獣などもいるという話だ。
これは根掘り葉掘り聞いたのではなく、あくまでも雑談の中で妖精が話してくれたことをバートルが教えてくれたもの。なので、全容はわからない。
とにかく、あの日のあの辺りには招待状を受け取った魔法使いが現れる、とわかっているはず。顔を合わせるのがいやなら、パーティのある時間だけでも奥へいればいいだけだ。
それなのに、リュディはあそこにいた。社交的ではないが、人間の魔法使いというものがどんなものか、多少の興味があったのだろうか。
しかし、幼かったライトスの見る目や記憶がおかしくなければ、あの時のリュディはどことなく怯えていたように感じた。彼女の表情を思い出す限り、人間に見付かる恐怖よりも人間に対する興味の方が強かった……とはとても思えないのだが。
そんな質問をリュディにぶつけ、ちゃんとした答えが返ってくるとは思えないが、尋ねていいなら尋ねてみたい、とライトスは思っている。
その前に、リュディに会えるかどうかが問題なのだが……。それに、本当に会えたところで、そんな質問ができるような余裕が自分に残っているかもはなはだ疑問である。
また会えた、やった。
そんなことを思って興奮しているうちに時間が過ぎ、自室に戻れば何を話したか覚えてない。
結果はそんなもの、で終わるような気もする。
そんなことをあれこれ考えていると、手の中にある竜のうろこが淡く光り始めた。時間が来たのだ。あえて明かりをつけなかった部屋が、そのうろこが発する光でぼんやりと明るくなる。
ライトスは白く光るうろこを持って、部屋の扉へ近付く。鍵穴の前にそのうろこをかざすと、ライトスの手から離れて小さな鍵穴の中へと吸い込まれた。
かちりと音が聞こえた気がする。部屋の鍵はかけていないが、鍵が外れたような音。十年前に父の部屋で見た時と同じ状況だ。
この扉を開いたら……。
ライトスは、これまでかいたことのない量の手汗をシャツで拭くと、ノブを握る。どんな場所かを知っていても、それはそれ。緊張感がとんでもない。
そうして、ゆっくりと扉を開いた。
本当なら、そこには廊下があるはずだ。しかし、扉の外に広がっていたのは、広々とした草原だった。
海にも思える湖と、頂上付近が白い山。明るい空と白い雲。穏やかな風が吹き、その中に甘い香りが混じる。穏やかな日差しの中で、きらきらと羽を光らせて飛ぶ小さな妖精達。
十年前に見た光景が、自分の部屋の外に広がっていた。
「あら、ライトス」
ああ、本当にまた来たんだ……と感慨にふけっているところに声をかけられ、ライトスがそちらを見ると、長い銀の髪に薄い青の瞳をした妖精がいた。バートルがよく呼び出すパルレだ。
ライトスが初めてパルレの存在をしっかり認識したのは、ここ妖精界だった。一人前の魔法使いとして認められ、父と仕事をするようになってからは何度か顔を合わせている。
「やぁ、パルレ」
「ようやく一人で来られたのね。前にここへ来たのって……」
「十年前だよ。俺が七歳の時」
ありふれた言い方だが、あっという間だったような気もするし、とんでもなく長い年月だったようにも思える。
「そうそう、小さかったわよね。どう? 改めて来た感想は」
「変わってないね。子どもの時に見た光景と同じだ。懐かしいのとはちょっと違うけど、不思議な気分だな」
はっきり覚えている訳じゃない。でも、変わってないと思うのは、きっと間違いではないだろう。
「ふふ、人間界の時間で何百年経っても、ここは変わらないわ。バートルは来られなくて残念だったわね」
「うん、父さんも残念がってたよ。一度断ったら、次は招待されなくなるとか?」
「それはないわ。彼が妖精界へ来てもいいと思える魔法使いのままでいれば、また招待状は送られるはずよ」
それを聞いて、ライトスはほっとする。
「そうなのか。……どの魔法使いなら来てもいいって、誰が決めるの?」
ライトスは何気なく尋ねてみたが、パルレは笑うだけ。
「帰りの扉が開くまで、ゆっくりするといいわ」
そう言って、飛び去ってしまった。飛んでいる他の妖精達に交じってしまい、もうどれがパルレなのか区別できない。
「妖精の企業秘密ってことかな」
あまり深く掘り下げて尋ね、妖精達の機嫌を損ねるのは得策じゃない。飛んで行ってしまった妖精を追うこともできないので、ライトスはゆっくり歩き出した。
ここでは何ができるでもなく、するべきこともない。ただ、この世界の空気に身をゆだねるだけだ。
前に来た時はわからなかったけど、今なら確かに魔力が満ちてる世界だってことがよくわかるな。
強い魔力を持つ存在が暮らしている世界だというのは伊達じゃない、ということだ。
ここにいるだけで、自分の中にある魔力の雑味が抜けていくように思うのは……気のせいだろうか。魔力が濾過されて、純粋なものだけが残っているかのような。
感覚の違いはあるだろうが、ここに来る他の魔法使い達もきっと似たようなことを思っているはず。だから、魔法使いとなった者は妖精界への招待状を心待ちにするのだ。
使う魔法が本当に強くなるかはともかく、力が洗練されるように思える。これは人間界でどれだけ修業しても得られない感覚だろう。
ここでできるのは、大自然の中での散歩、といったところか。ライトスもゆっくりと歩き、同じように妖精界を訪れた他国の魔法使いに会うと、短い挨拶を交わした。こうして見ると、招待される魔法使いは年齢も性別も全く関係ないようだ。
お互いが離れているので言葉を交わすことはできないため、軽く会釈するだけの人もいる。その中には、人間にしておくのはもったいないな、と思える美しい姿の人もいた。世界には本当に色んな人がいるんだな、としみじみ思える。
人間界に存在する魔法使いの数は決して多くはないが、少なくもない。ライトスは知るべくもないが、その中でどれだけの人数がここへ招かれているのだろう。
ざっと見る限り、そんなに多くの人間は見受けられない。時間差で来ているのか、実はたくさん来ていてもそれを感じさせない程にこの世界が広いのか。
先輩のディアドは去年来たと話していたし、きっと今年も招待状は届いているだろう。でも、こうして周りを見回す限り、その姿は見えない。どの辺りに出るか、人によって決まっているのだろうか。
あれはどうなんだろう、これはどうなんだろう、と頭に色々なことが浮かぶ。妖精のパーティは不思議だらけだ。
でも、きっと妖精にあれこれ聞いたところで、さっきのパルレのようにスルーされてしまうような気もする。機会があればまたそれとなく尋ねてみるとして、今は余計なことを考えず、自分が妖精界へ招待されたことを素直に喜んでおくことにした。
これまでにライトスが何度か呼び出したことのある妖精も姿を見せ、少し話をしたりしながらのんびり歩く。
そして、ライトスが無意識のうちに足を向けていたのは、リュディと出会った場所だった。大きな木がぽつぽつと立ち並ぶ、あの場所だ。
妖精界へ来たのは彼女に会いたい一心だったのだが、実際に来られたからと言ってすぐに望む場所へ進めるというものではない。十年前は無我夢中で走っていたし、地図や標識がある訳でもない。だから、ほとんど偶然の奇跡に頼っているようなものだ。
しかし、何となくでもあの時に来た場所へ近付いたような気がする。と言うか、そうであってほしい。
この辺りでよかったっけ。記憶がものすごくあいまいなんだけど。確か、あの木の陰からリュディはこっちを見てたんだよな。今はいない……のかな。
「リュディ、いない? 覚えてるかな。ライトスだよ」
視線の高さが変わると、景色も微妙に変わる。ライトスが来た場所は森や林ほどではないが、こんな感じで木が立ち並んでいた。
あの木だと思ってライトスは声をかけてみたが、違う木かも知れない。場所はもちろん、木についても記憶はあいまいなのだ。傷があるとか、目立つ節があれば断定できてよかったのだが、そう都合よくはいかないもの。
たとえ断定できる要素があったとしても、リュディがいつも同じ木のそばにいるとは限らない。ライトスはあちこちに視線を走らせた。木登りするようなタイプには見えなかったが、一応上の方も見てみる。
しかし、それらしい姿はやはり見えない。リュディどころか、この辺りは妖精の影ひとつすらも見当たらなかった。妖精界と言っても、そこかしこに妖精がいる訳ではないらしい。
やっぱりダメかな。本当にあの木だったか以前に、リュディがこの周辺にいるかどうかっていうのも怪しいもんなぁ。ずっと同じ場所にいるとは限らないし。それとも、以前見た俺と今の俺の姿が違いすぎて、警戒しているとか。
父親譲りの明るい栗色の少しくせがある髪に、母親譲りの濃い青の瞳。それはあの頃と変わっていないが、十年も経てば顔立ちはやっぱりそれなりに成長して変わっているし、男なので当然声変わりもしている。
身長にいたっては全然違う。二倍とまではいかないが、それでも相当伸びた。バートルからは「こっちが見てないうちに、変な物を食べたんじゃないだろうな」などとからかわれたりするくらいだ。
ずっと妖精界にいて、時間の流れをほとんど感じない妖精から見れば、見たことがあるはずの人間であっても「全くの別人が来た」となるのかも知れない。そうなってしまうのは仕方がないが、身長が伸びたのはライトスのせいではないし、その点は人間にどうにかできるものでもなかった。
顔はともかく、身長で判断されたらどうしようもないもんなぁ。
こうして立ったままだと、大きくて怖いと思われるかも知れない。ライトスはどちらかと言えば細身だが、視線が低い相手からすれば大きいには違いないし、臆病な性格であればそれだけでもその存在は脅威となりえる。そんな相手の前に、わざわざ姿を見せるはずもない。
そう思ったライトスは、その場にしゃがんでみた。一時しのぎのごまかし方でしかないが、少しは恐怖心も薄れるのでは、と。相手が目の前にいるならともかく、誰もいない所でただしゃがむ、いう半ばやけくそみたいな行為だ。
「え……」
だが、そんなやけくそな行為も、無駄ではなかった。
視線を低くした途端、正面に小さな顔が見えたのだ。木の横から、あの日と同じようにこっそりと。