影の魔物
「……せ」
「え?」
何か聞こえたような気がして、ライトスは立ち止まった。周囲を見回すが、人の気配はない。どこにでもある森の景色が広がっているだけだ。
でも、今……人の言葉みたいなのが聞こえたと思ったけど。空耳? 風で木や草が揺れた音……には思えなかったけど。
気にはなるが、ゆっくりもしていられない。ライトスは再び走り出そうとした。
その時、急に背筋が寒くなった気がして、足を止める。
何か……いる?
突然、さっきまでそこになかったはずの気配がした。背後に何かいる。
「かえせ」
今度ははっきりと言葉が聞こえた。怒りを含んだ、男のような低い声だ。
びくっとしたライトスは、反射的に振り返る。
「うわっ」
思わず声が出る。いつの間に現れたのか、ライトスの数歩後ろに人影のようなものが立っていたのだ。本体……肉体のようなものはない。本当に影だけだ。
影……何の影だよ、これ。
ライトスより背が高く、幅もある。本体であれば長いであろう髪が一部は逆立ち、一部は意志があるかのように広がって動いていた。
全身が真っ黒なのに、目の部分だけが白く光っている。その目は丸く、むしろつり上がった目よりも不気味に思えて怖い。
これまで何度か魔物退治をして、獣のような姿、虫のような姿、人に近い姿の魔物を見て来た。目の前にいるのは形だけで言えば人間だが、こんな影のような魔物は初めてだ。その姿と気配にぞっとする。全身に鳥肌が立った。魔物退治も多少怖いと思ったりしたが、今は心の底から怖いと感じる。
「かえせ」
魔物がライトスに向かって、真っ黒な腕を伸ばしてくる。とっさに魔法の壁を出した。透明な壁に手が当たり、その壁一面に影が広がる。
影の色で目の前が真っ黒になったが、次の瞬間には壁に無数の亀裂が一気に走り、真っ白になった。ガラスが砕けたような音が響き、ライトスが出した壁は一瞬で粉々になって地面に消える。
何て力だよ。こんな奴、俺一人じゃ相手にできない。
襲いかかって来た魔物がこの壁に当たることは、これまでに何度もあった。しかし、当たって壊れることはもちろん、亀裂でその壁が白くなることなどなかったのだ。まして、砕け散ってしまうなど。
それだけ相手の力が強いということ。ライトス単独で相手ができるレベルを、この魔物ははるかに超えている。完全に「脅威」のレベルだ。
どういうことだよ。さっきの奴だけじゃなかったのか。他にこんな魔物がいるなんて話、聞いてないぞ。
ライトスはまた壁を出す呪文を唱える。今度は魔物の周囲を二重三重に囲むようにだ。幸い、俊敏な動きをする魔物ではなかったので、逃げられることなく囲めた。
さらにその壁を凍らせる。透明だった壁は白く濁り、壁に囲まれた中の魔物の影は薄くなった。魔物からもライトスの姿が見えにくくなっているはずだ。期待はできないが、少しくらい凍っているかも知れない。
魔物がさっきのように壁を壊さないうちに、ライトスはその場から走り出した。
一人でまともにやりあえる相手じゃない。人間の力など、たかが知れている。ここでいきがって戦う程、ライトスは無謀ではなかった。
この場を離れることで魔物がよそへ逃げ、森が危険になるかも知れないが、一人で戦って死んでしまったら結果は同じだ。
ライトスはとにかくその場を離れ、バートルやディアドが向かった方へと必死に突っ走った。
二人のことだ、さっきの魔物はもう仕留めているだろう。彼らを呼んでこちらへ戻って来るか、あの魔物が壁を壊してライトスを追って来るか。
どちらにしろ、三対一の形にしなければならない。一対一では絶対に勝てない相手だ。
とても長い時間、走り続けたような気がした。何度も木の根に足を取られ、その度に真っ黒な魔物の腕が首や腕を掴まえてきそうな錯覚に襲われ、血の気が引く。自分の呼吸音が、今まで聞いたことのないような引きつったものに聞こえた。
たぶん、実際の距離も時間も、ライトスが思う程には長くなかっただろう。
走っているのに指先が冷たくなるのを感じながらひたすら足を動かし、ようやく二人の姿を見付けた。まだ安全と決まった訳ではないが、彼らの姿を見てライトスは安堵する。これで一人ではなくなった。
「父さん、ディアド!」
ライトスの声に、二人は振り返った。
「よう、ライトス。悪いな、魔物は片付けちまった」
ディアドの手には、さっきの魔物の角があった。仕留めた後、復活してこないように身体を焼き、村人に退治した証拠として角だけを残したのだ。
「どうした、ライトス。何かあったのか。真っ青だぞ」
息子の様子がいつもと違うことに、バートルが気付く。
「魔物に……襲われた。こいつとは全然違う奴に」
声がわずかに震えていたのは、息が切れているからか、恐怖のせいか。
「他にもいたのか。それで、その魔物はどうした?」
「何とか壁の中に閉じ込めたけど、たぶん壊してる」
ライトスはさっきの状況を二人に話す。改めて恐怖を覚え、寒気がした。
「影みたいな奴、か。村長はそんな魔物がいるなんて話はしてなかったよな。そんな奴がいて、まさか言い忘れたとは思えないし。もしくは、俺達が動き出したことで刺激されたか」
森や山などには大抵、大なり小なりの魔物が棲んでいる。その中でも人間に害をなそうとする魔物を魔法使いが退治するのだが、たまに退治の対象が自分だと誤解した魔物が現れるケースがあるのだ。
もちろん、本当に襲ってくれば、無関係だったはずの魔物でも退治の対象となってしまう。そのままにしておいては、一般人が巻き込まれかねないからだ。
「俺だけじゃ、あいつの相手をするなんて絶対に無理だ。防御で出した壁があんな真っ白になるなんて……」
影の黒と、亀裂が入った壁の白。たかが色だが、今のライトスには恐怖の色だ。あんな無数の亀裂を、しかも一瞬で広がるところを見たことがない。
あの瞬間、ライトスは間違いなく命の危機にさらされていた。
「そうか。とにかく、そちらへ向かおう。このまま放っておく訳にもいかない」
「のこのこ出て来なきゃ、何もされないってのにな」
ライトスは二人とともに、今走って来た所を戻った。正直なところ、あの場に戻りたくはないが、そうもいかない。指先は冷たいままだ。
三人はライトスが壁を出して魔物を閉じ込めた場所へ来たが……予想はしていたが、そこには何も残っていなかった。ライトスの壁がなくなっているということは、さっきと同じように砕いて消してしまったのだろう。
そこから抜け出したのなら、当然魔物は違う場所にいる。そのままおとなしく巣に戻っていればいいが、たぶんそうはしてないだろう。何の根拠もないが、ライトスの勘だ。
「お前の魔法の気配は残っているな。影の魔物か。こういう場所では、獣の姿に近い魔物が多いものだが」
バートルがその場に何か手がかりが残っていないか、地面を念入りに見た。ライトスは影と言ったが、もしかすると黒い毛に全身覆われた魔物ということもある。
だが、それらしい毛はなく、これという物は何も落ちていなかった。
証拠は残っていないが、バートルやディアドは魔物が現れたことを疑ってはいない。魔法使いがこんな仕事中にいたずらするはずはないし、何よりさっきのライトスの顔色は冗談や何かでできるものではなかったからだ。
「バートル、そろそろ陽が落ちるぞ。もう動かない方がいいんじゃないか?」
森の中は元々薄暗かったが、さらに暗くなりつつあった。依頼された魔物を捜すのに時間がかかってしまったので、もう太陽が傾く時間になっているのだ。
森を出るだけならともかく、不慣れな場所で魔物を捜すために動き回るのは得策ではない。
魔法使い達の魔物退治は、延長戦に入ってしまった。
☆☆☆
すっかり暗くなった。たき火はしているものの、真っ黒な影の魔物が現れてもこれでは見えない。
襲われてもこちらに影響が出ないよう、三人がそれぞれ結界を張って三重の構えにしておく。三つの結界を破っていきなり人間に致命傷を負わせることは、力のある魔物でもそうそうできることではない。
逆に言えば、それができる程の魔物が相手なら、まず三人に勝機はないということ。余程うまく逃げない限り、餌食にされるだろう。
ライトスの壁を一瞬で消すならともかく、亀裂を入れて白くさせる程度の力なら、少なくとも一撃でどうこうはないはずだ。
「ライトス、何か隠しているだろう」
「え……」
急にバートルからほぼ確信したような口調で問われ、たき火の炎を見詰めていたライトスは答えに詰まる。
「いつもと比べて、どうも動きが悪い。調子が悪いというのでもなさそうだが」
「そうだな。オレも気になってた」
仕事に集中しているようで、二人はしっかり見ている。仕事を始める時にディアドにも指摘されたが、何も言わないだけでバートルも何か妙だと感じていたはずだ。
やはり集中しきれていない部分は、行動の端々に出てしまうもの。もう隠しておけない、とライトスは覚悟を決めた。
「俺の不注意でちょっと……」
ライトスはリュディの入っているポケットの口を開ける。影の魔物騒ぎですっかり彼女のことが頭から抜けてしまい、走り回ってしまった。目を回してなければいいのだが。
「いいよ、リュディ。出ておいで」
ライトスが手をそっと入れると、リュディがその手の平に乗る。幸い、何ともなさそうでほっとした。
ポケットから現れた赤いスカートの少女を見て、バートルとディアドが目を丸くした。
「お前、妖精を連れて歩いてたのか。って言うか、どうして上着のポケットに入れてるんだよ」
「彼女は飛べないし、置いて来ることもできなくて」
泣き落としに負けて、という部分は伏せておく。
「ライトス、不注意と言ったな。それはどういう意味だ。呼び出した妖精の同行が難しいのなら、帰せば済む話だろう」
バートルが厳しい口調で問う。
「うん……それができればいいんだけど。彼女……リュディって言うんだけど、本当は俺達と変わらない大きさなんだ。人間の女の子と同じくらいの背で。だけど、俺の作った薬を食べてしまって」
「薬? ああ、確かお前、小人族と会う時のために薬を作ってるって言ってたよな。それのことか?」
「うん」
「それをこの子が食って小さくなってるってことは……薬の調合は成功させたんだな。その薬、妖精にも効果ありってことになるのか。すごい効き目だな」
「この状態を見る限り、そうみたい。俺はまだ自分で試してないんだ。中和剤ができてから試すつもりだったから。急いで中和剤の調合をしようとしたんだけど、今回の仕事が入ってきて……」
ライトスが説明する横で、リュディはどこに来たのかとライトスの手の平に座って周囲を見回している。ライトスがそばにいるからか、二人の魔法使いを前にしてもその顔に不安そうな表情は浮かんでいなかった。その点については、ライトスもほっとする。
端から見れば、人間の男三人が小さな妖精を囲んでいる図だ。怖がられても仕方がないところなので、泣かれたりしなくて助かった。
「ちゃんとした姿に戻してからでないと、帰すとか何をするにしてもリュディが困るだろうって思ったんだ」
「本来と違う姿で帰されては、確かに困るだろう。それはわかったが……ライトス、彼女はいつからお前の元にいるんだ」
「昨夜から」
「昨夜? 妖精のパーティから帰って来た後に呼び出したのか」
「俺が呼んだんじゃないよ。こっちへ戻って来たら、そばにリュディがいたんだ。妖精界から帰る時、一緒について来たみたいで」
ライトスの言葉を聞いて、バートルとディアドの表情が凍る。
「おいおい、ちょっと待て。ライトス、ここに来てそんな質の悪い冗談はやめてくれよ。お前、妖精界からこの子を連れて来たって言うのか」
「だから、連れて来たんじゃなくて、一緒に扉をすり抜けたんだ。扉を閉めて振り返ったらリュディが立っていて。ほら、俺が昔、父さんが妖精界へ行く時にこっそりすり抜けただろ。あんな感じのことを、今度は俺がやられたんだ」
「何てことだ……」
バートルが頭を抱えて呻く。
「え……あの、父さん?」
父の顔が深刻なものになったが、それは薬の話をした時ではない。そのことに、遅ればせながらライトスは妙な不安を覚えた。
「さっき現れた影の魔物は、かえせと言っていた。そうだな?」
「うん、そう……だけど」
改めて尋ねられ、ライトスは戸惑いながらも頷く。
低い声で、でもはっきり言われた。魔物は確かに「かえせ」と言っていたのだ。
「その魔物はこの森に棲んでいるのでもないし、偶然現れたんじゃない。お前の所へ来たんだ」





