7月 スク水制服エアコンの乱⑤
長々と語る海江田が話に区切りを着けると、ようやく十和子は口を開く。
「……そうでしたか。だとすれば、先程の貴女を疑った発言は、取り消さなければいけませんね。申し訳ありません」
すんなりと受け入れて謝罪までする十和子に、海江田は値踏みするような笑み浮かべながら疑問をぶつける。
「やけにあっさり過ぎません?理事長先生。こっちとしては、全部を鵜呑みにしてくれて助かるんすけど、私が嘘を吐いてる可能性は考えたりしないんすか?」
至極真っ当な疑問ではあったが、十和子は表情一つ変えずに聞き返す。
「では、海江田さんは嘘を吐いているんですか?」
「いや、本当の話ですけど?」
「それならば鵜呑みにしても良いと思うのだけれど?」
全てを信じる姿勢を見せる十和子に対し、海江田は段々と歯痒さを見せた。
「んぁ~、そうなんすけど……何つーか、さっきまですっげぇ疑いの目で見てた癖して、急に『そうですか』って納得されても、逆にこっちはこっちで気持ち悪りーって言うか……要するに、そこまで簡単に裏返った理由、根拠が欲しいんすよ。理事長先生は私みたいに、直感で考えを変えるタイプじゃないでしょ?」
海江田は笑いつつも険しい表情で、十和子に問い質す。
十和子の中でどういうピースを嵌めて、得心まで辿り着いたのかを。
「確かに。海江田さんの言う通り、直感で考えを変える事は少ないわね。理由……根拠……説明するにしても、これは他の人からしてみればとても些細な事なの。最初は気にするものでもないと思っていたのだけれど、海江田さんの言葉で勝手に合点が行っただけ。だから貴女の満足できる答えになるかは分からないわ。それでも述べるなら……制服から逸脱した格好の生徒、その子達の様子を目撃したから……でしょうか」
返ってきた発言に海江田の顔から笑みは消え、少し前のめりになりながら、険しくも真剣な表情で十和子を見つめる。
口を挟まず、聞く姿勢を取る海江田を目にした十和子は続けて話した。
「補足すると、逸脱した格好の生徒全員を目撃したのではありません。先生方から事情を聞いた後に、たった数人ほどですが、彼らの様子を窺ったのです。当然恥ずかしがっている生徒はいましたが、堂々としている生徒もいましたよ。ただ、それは発起人の貴女にやらされているものと、あの時はそう思っていました。ですが同時に、気掛かりでもあったのです。強要されているにしては表情が明るい……と。学園内で目撃した生徒は、あの状況を楽しんでいるような……そんな様子が見て取れました。とはいえ、そんなのは些細な事。強要されてやっている内に、楽しくなったのだろうと思ってましたが、海江田さんの話を聞いて私の中で合点が行った……影響を与えたのは貴女でも、行動を起こしたのは自分自身の意思に寄るものなのだと。目撃した生徒の中に、恥ずかしがっている生徒がいたと言いましたが、怯えてる風ではありませんでしたしね。故に、こうして考えを変えたまでですよ」
十和子が得心までの道筋を明かすと、海江田の表情からは険が取れる。
「はー、そういう事っすか。つまりは理事長先生が、現場状況を確認してなかったら相当ヤバかったか、下手すりゃ丸っきり信じてもらえなかった訳だ。あぶねぇあぶねぇ」
心の底から出ている言葉なのか怪しい程に、海江田が動揺しているようには感じられない。
さっきまで前のめりだった姿勢も、リラックスしているまでに体の力が抜けていた。
十和子は海江田の言動から察し、確認に入る。
「その様子を見る限り、納得してもらえたと思っても良いのかしら?」
「そうっすね。こりゃあ異議なしっすわ」
「納得されたようで私もホッとしていますよ」
海江田の中のわだかまりが消え、大きな話題も消化され、十和子は室内の掛け時計を一瞥すると、確認するように言葉をこぼす。
「……一時限目もあと少しで折り返しですか」
そう言うと程なくして、十和子は海江田に向き直り、提案を持ち掛ける。
「どうでしょう?この際、お互いの気掛かりになっている事を一気に話し合って、スッキリさせませんか?個人的な要件で申し訳ないのだけれど、学園に滞在できる時間が限られていまして……」
詫びるニュアンスはなく、時間が有限である事を淡々と述べた十和子だが、海江田はそんな十和子を即座に慮る。
「忙しいっすもんね。理事長先生が学校にいる方が珍しいくらいだし。つっても気掛かりか……」
提案を受け止め、自分の中で消化されていない疑問などを挙げようとした海江田だったが……。
「私はもう無いかな」
心に引っ掛かる物は既になかったようで、有無を伝えた後も視線は斜め上の天井へと向いていた。
しかしそれも束の間、海江田は視線を再び十和子に移すと、途端に頷き、笑顔で提案に対しての答えを返す。
「いいっすよ、理事長先生が質問してきて。そう言ってくるって事は聞きたい事があるんすよね?どうぞどうぞ、気になる事を全部話して、スッキリさせるとしましょうよ」
結果的に、質問責めの形になってしまうにも関わらず、提案を快諾した海江田は余裕を見せながら、十和子に質問を促した。
立場が下とはいえ、寛大な態度を取る海江田に、十和子は謝辞を述べる。
「ありがとうございます。なら……二三、質問させてもらっても良いかしら?」
「はい、いくらでも。遠慮はいらないっすよ」
「では、こちらもお言葉に甘えて……海江田さん。先程、貴女が語ってくれた全貌の中に、一度だけ"リスク"という言葉が出てきました。一度だけ出てきた言葉を捕まえるなんて、細かいと思うかもしれません……しかし、それだけ重要な部分でもあります。場合によっては大問題になり兼ねませんから。だからこそ気掛かりになっていました。前置きはここまでにして、質問をさせてもらいます。貴女が行ったデモンストレーション……これには"SNSへ拡散される危険性"が孕んでいたにも関わらず、その説明がありませんでした。私はこれについての説明を求めます。貴女ほどの人が、この事を考えてないとは思えないので……」
十和子から指摘を受けた海江田は、涼しい顔で解答する。
「あー、それは安心して良いっすよ、たぶん。副会長が何とかしてくれてるんで」
具体的な説明はなく、曖昧で他人任せな解答に、流石の十和子も聞き返す他ない。
「生徒会の副会長さんが、ですか?」
「そっす。私がやる事にいちいち噛み付いてきますけど、仕事だけはキッチリやる奴なんすよ。つっても私は『スク水で登校する事にした』くらいしか伝えてないんで、あいつがどうやって、何をして、そういうリスクを回避したのかは知りませんけどね」
「…………」
あまりに他力本願な海江田に、十和子は言葉を失った。
今までさほど動じなかった十和子なだけに、表情は特に変わらなかったものの目が点になっている。
十和子の無反応とも取れる様子に付け込んで、海江田はざっくばらんに付け足した。
「理事長先生が今、何を思ってるかは分かりませんけど、何でもかんでも一人でやっちゃいないんすよ。適材適所、役割分担……こいつにやらせりゃ、間違いは起きないって存在に一任するのはある種、上に立つ者の判断……"任せる"という行動を取ったと解釈できるんじゃないっすかね?まぁ、物は言いようなんすけど」
取り繕ったりはせず、持論を述べつつ問い掛けた海江田。
話を聞く前は目が点になっていた十和子だったが、海江田の持論に得心し、平静を取り戻したところで十和子は閉ざしていた口を開く。
「つまり海江田さんは、この件に一切の関与がなく、状況経過や報告も受けてない、と……そういう事で間違いないですか?」
「間違いないっすね。でも、大船に乗ったつもりでいてください。現にメディアが大人しい事こそ、あいつが上手くやった証拠と言えるんすから」
学園の経営側としては当然であろう十和子からの再確認に対し、海江田はしたり顔で副会長に太鼓判を押した。
すると、十和子は顔だけに納めていた心中を吐露する。
「……副会長を信頼されているんですね。本音を言えば、漠然とし過ぎていて不安が残る所ですけれど、貴女がそう言うなら私もその副会長を信じる事にしましょう」
海江田の言葉と自信に満ちた表情に、十和子もこれ以上の追及はしなかった。
「んじゃあ、この質問は片付いたかな。理事長先生、次の質問は?」
楽しくなってきたのか自然に主導権を奪い、十和子へ質問の提示を催促する海江田。
だが、十和子は海江田の要求に応えられなかった。
「いえ……もう海江田さんへの質問は無くなりました」
一拍ほどの間が空くと海江田の表情は一瞬にして変わり、何で?と十和子に目で聞いた。
十和子もその訴えには応えようと、予定していた質問と流れを話し始める。
「本来ならば次の質問は『メディアに露出する危険性へのケアは、果たして確実なものなのか?』でした。ですが、海江田さんはリスクケアの全てを副会長さんに委ねていたので、海江田さんにする質問ではなくなりました。その次の質問もケアに関するもので、海江田さん自身が考え得るケアの中で起きそうなデメリットを、出来る限り列挙してもらおうかと思っていましたが、これも質問する必要がなくなり……私が抱えていた気掛かりは不本意な形ではありますが、無くなったと言えるでしょう」
「そっかー。ちょっと面白くなりそうな雰囲気だったんだけどなー」
興ざめと言わんばかりに残念がる海江田は、ソファーに深くもたれ掛かり、天井……もとい十和子の頭ひとつ分ほど上を眺めた。
十和子は、腑抜けた顔で落胆している海江田を見るや否や、少し申し訳なさそうにして視線を落とし、ゆっくりと口を開く。
「呆気なく終わってしまったせいで、肩透かしでしたね。なのに、続け様で恐縮と言いますか……これも海江田さんにとって面白味が無いでしょうが、もう一つの本題──」
再度、海江田を見つめる十和子。
この話し合いのフェイズも、ようやく最後に移る。
「貴女達の処分についての話を、するとしましょうか」
鬼気迫るような雰囲気はなく、十和子は冷静沈着な様子。
対して海江田は……笑みをこぼしながら視線を落とした。
「ふふっ……だよなぁ。あるよな、そりゃ」
口角は上がっているものの、笑いは十和子に向けられたものではなく、海江田自身……自らに向けているような感じで、自嘲気味に笑っていた。
不気味に映った海江田に、十和子は声を掛けようとした。
しかし、それより一歩先に海江田が、笑った意味も含めて胸中を晒す。
「いや、解ってましたよ。いつになったら、その話をするんだろうなって思ってたくらいっすから。あぁ、笑ったのに関してはスルーしてください。一瞬でも『もしかしたら罰は無いかもな』と考えてた自分が恥ずかしくて……。そういうの全部引っくるめて──逆に面白いっすよ」
「そう言って貰えると、私としては僅かばかり気が楽になりますね。心苦しくはありますが、学園の最高責任者という身ですから、相応の処分を下さねばなりませんし」
精神的に負荷が軽くなった十和子は、海江田の微笑みを向け、最後の本題へ突入する。
「……話を間延びさせて、海江田さんの関心や興味まで削いでしまうのは、こちらも望むものではありません。なので早速で悪いのですが、今回の件についての処分を言い渡します」
二人は見つめ合い、校長室には海江田が入室した時と同様の緊張が走る。
暗雲低迷……重くなりつつある空気を切り裂くように、十和子から判決が下される。
「今回の制服から逸脱した格好により、風紀を著しく損なわせた行動を行った生徒全員を、今日を含めた三日の停学処分。ただし──発起人である、海江田玲香さんは不問。上記の処分を受けないものとします」
十和子に判決を言い渡され、約五秒。
目を見開き、唇が震え、気味の悪い笑みを浮かべて言い漏らす。
「……はぁ?なんでだよ……」
海江田の言葉からは敬語が剥がれ、素直な思いが口を衝いて出てしまう。
真っ直ぐ見つめる十和子に海江田は、ゆっくり且つ捲し(まくし)立てるように思いの雨を降らせる。
「なんでなんだよ……あいつらだけ処分を受けて私だけ何も無し……?意味わかんねぇよ、説明しろよ理事長先生」
海江田が説明を求めると、十和子はすぐさま応じる。
「簡単な事ですよ。始めの方にも申しましたけれど海江田さんは、いずれ学園にとって癌となる部分を取り除いてくれたのです。時代の流れを見ようともせず、目を瞑っていた悪習を。それを正した功績として、処分を不問にするのは悪い事ではないと、私は思うのだけれど?」
「そういう観点で見れば、私の処分を不問にするのは正当な評価、真っ当なのかもしれねぇ。だとしたら、あいつらだけ処分を受けるのは、どう考えても可笑しいだろ」
怒りを表面上に抑えながら、冷静に指摘する海江田の強い訴えを、十和子は意に介さない。
それどころか十和子は、海江田に抱いた疑問をぶつける。
「海江田さんはどうして、処分を免れたのに不満気なのですか?私は海江田さんなら、喜んで安堵するものと思ってたのですが……」
「残念だったな、予想と違って。私はそんなに短絡的じゃねぇんだよ」
海江田は前のめりになりながら、勇ましくもシニカルな笑って言い放つ。
徐々に荒々しくなってきた海江田に、十和子は尋ねる。
「ならば……これに関して、海江田さんが望む事は何ですか?」
落とし所はどこか、探りを入れる十和子。
対し、海江田は我を通そうとする。
「決まってんだろ。私の処分を不問にするなら、他のあいつらも全員含めての不問だ」
「残念ながら、貴女の処分を不問にする事は許容できますが、他の生徒達の処分を不問にする事は出来ません。あの子達は貴女と違って、自らの意思で風紀を著しく損なわせた行動を行ったのですから、相応の罰は必要です。生きていく上で、身を滅ぼすのは軽率な行動だと、若い内に知っておくのは良い事でしょう」
「確かに褒められた事じゃないかもしれねぇ。でも、スタート地点は私と同じじゃねぇか。それにだ、あいつらが居たから騒ぎが大きくなって、理事長先生の元に報せが来て、今に至ってるんだぜ?あいつらが居なかったら、来週から始まるテスト期間を、理事長先生が言った悪習の中でやらなきゃいけなかった。これを踏まえれば不問も妥当だろ」
十和子が論ずれば、海江田が異議を唱える……激化する攻防の末、十和子がこの現状から察してしまう。
「……これは、お互いどれだけ話しても平行線になりますね。さて、どうしたものか」
一旦流れを止めて、どうにか解決策はないかと悩み出す十和子だったが……重苦しい沈黙を破ったのは、機関銃のように異議を唱え続けた海江田だった。
「……理事長先生、ここは取引をしないか?」
さっきまで激しく抗議していた時のとは違う空気感で、海江田は十和子との心の距離を詰める。
「取引、ですか。一体どのような?」
落とし所を探している風な十和子からすれば、この申し出は一聴する価値があった。
聞く耳を持つ十和子に海江田は提案する。
「理事長先生は、あいつらを停学処分にしたいみたいだけど、私としてはそれは無いんだよ。だって、私とあいつらの違いは最初の一歩目……ファーストペンギンかどうかってくらいの違いだろ?その程度でしかない違いで私が不問、あいつらが停学なんて受け入れらんねぇよ。これは、どうしても譲れない。だから、こうしよう。あいつら全員が不問にならないのなら──あいつらの代わりに、私が犠牲になる。これでどうだ?」
覚悟ある強い目力を十和子に向ける海江田。
角度の違うアプローチに驚いた十和子は、少し目を見張らせた後すぐに目を閉じ、ゆっくりと海江田を見やる。
そして、十和子は海江田の意志を確認する。
「それは要するに、海江田さん……貴女があの子達の処分を全て引き受けると?」
「あぁ。だって、そうだろ。あいつらを焚き付けたのは私だぜ?」
言い切った海江田を前に、十和子は大きく息を吐いて、判を押す。
「……判りました。貴女の主張と意志を尊重して……その取引、承諾します」
度しがたく張り詰めていた空気がこの言葉によって多少緩和し、鋭い眼光を向けていた海江田も十和子と同様、大きく息を吐いた。
論争を終えて安堵感へ足を入れた海江田だったが、そこへ十和子は補足を流し込む。
「ですが……海江田さんが全員分の処分を引き受けるのは、処分としては余りにも重たい罰になります。なので、全員分の処分を引き受けるという点と、貴女の功績も考慮した上で、処分を再決定します。異論はありますか?」
十和子の温情に、安堵感に浸りつつあった海江田は即答した。
「文句はないね。それでいいよ」
「では改めて……」
海江田から是認を受け、十和子はその場で新たな判決を下した。
「今回の制服から逸脱した格好により、風紀を著しく損なわせた行動を取った生徒全員の処分は不問。そして──発起人である海江田玲香さんを本日を含め停学四日の処分とします」
甘んじて受け入れた海江田は無言で目を瞑る。
すると、十和子は海江田に問い掛けた。
「四日……これがどういう事か、解りますか?」
判決として、四日間の停学を言い渡した意味を理解しているのか……という問いに、海江田は瞑っていた目を開いて即答する。
「当然だろ。今日と、明後日の月曜から停学三日……つまりは、水曜から始まるテストの初日を落とすってことだ」
「そうです。海江田さん、貴女は高等部に入ってから現在に至るまで学年主席……その上、テストでも一位の座を誰にも譲っていませんね?ですが、今回の処分により、完全無欠の一位の座から陥落することとなります。当然、夏休みには補習を受けて貰います。学生の本分は勉学……本来ならば、こういった形の処分を下すのは、教職に身を置く者としてやってはならない事なのかもしれませんが、こうする事で先生方からも咎められはしないはずです。決して、甘い処分ではないでしょうから」
葛藤のある口振りの十和子ではあったが、海江田は気にも留めずに十和子の言葉を蹴散らす。
「別に、私はあいつらが不問だったら何だっていいよ。学年主席とかテストの点数とかも関係ねぇ。大事なのは、自分にとっての"生き方"だろ。それに比べたらこんなの『地球に石ころが、いくつ存在してるか?』って内容くらい、どうでも良い話だよ」
啖呵を切った海江田は、腰掛けていたソファーから立ち上がる。
「これで話は終わりだよな?理事長先生。まだ何かあるなら、とことん付き合うけど?」
敬語を使う気配もなく、不躾な態度の海江田を戒める様子もなく、十和子は海江田に返事を返す。
「話はもう終わりですが……少し待って貰えますか?」
そう言うと十和子も立ち上がり、入室時に使ってたデスクへと向かうと、メモ用紙にスラスラとペンを走らせる。
十和子がペンを置き、メモを丁寧に千切っては四つ折りにすると、それを海江田に渡した。
「これを……。要らなければ捨ててもらっても構いませんし、使い方も問いません。自分の為に使うも良し……誰かの為に使うも良し。全ては貴女次第です」
海江田は渡されたメモを開き、中身を確認した。
海江田は十和子を数秒見つめた後、メモを再び四つ折りにして夏服の胸ポケットへ入れ、一歩二歩と廊下へ続く扉に向かう。
扉の前まで来た海江田が、ドアノブに手を伸ばした時だった。
「海江田さん」
十和子は退室しようとする後ろ姿の海江田を呼び止め、釘を刺した。
「貴女は強くて眩しい……だからこそ、私が心配する事はただ一つです。貴女のその光の強さ、それに耐えられない人は少なくないということを知らなければ……いずれ、身近で傷付く人を生み出してしまい兼ねませんよ?」
十和子は海江田の未来を案じ、苦言を呈した。
背を向けたままの海江田は苦言を受け入れ、噛み締め……十和子と顔を合わせる事はしなかった。
目の前の扉を意味もなく見つめては何かを思い返し、その場で口を開くも、海江田の声は扉から跳弾して十和子の元へ届く。
さながら、スーパーボールのように。
「……ご忠告ありがたいが、生憎それは経験済みだよ。まぁ今はそいつも、自分なりの目標を見つけたみたいで何よりだけどね」
そんじゃあ……と言葉を残し、海江田は校長室から退室。
少し広くなった校長室で、十和子はボソリと呟いた。
「聡明な子ね……良くも悪くも」
一時限目の鐘が響き渡る頃にはもう、海江田は早退し、学園で彼女の姿を見た者は居なかった。
けれどもその日……彼女は噂という実体無き形で、放課後を過ぎても高等部のありとあらゆる場所で闊歩していた。
一連の話を聞いた僕が抱いた率直な感想は……想像以上に恐ろしい人、だった。
一歩違えば……二年生だった僕が、学園内を水着一枚で徘徊しないといけない状況になってたかと思うと、恐ろしくて仕方ない。
こんな大騒動が僕の在学中に起きていた事自体、今でも信じられない程で、その首謀者がまさか、所属していた生徒会のトップという事実を知り、当時の僕は顔が引き攣る他なかった。
スク水制服エアコンの乱。
誰が付けたか定かではないが、海江田先輩が起こした騒動はそう呼ばれるようになった訳だが、何ともまぁ立派というか……恥というか、言葉にするには勇気が必要な名称が付けられたにも関わらず、この騒動の名は瞬く間に学園中へと広がった。
けれど彼女……海江田先輩が起こしたスク水制服エアコンの乱は、記録に残すかは考え物としても記憶には確実に残る行動だったと言える。
十数人の先輩達が文字通り、一肌脱いだのだから。
斯くして、海江田先輩の成績に傷を付けられたのは後にも先にもこの一度だけ。
海江田先輩が一日目を落とさざるを得なかった期末テスト以外で、誰も一位を奪う事は出来なかった。
もはや、あの首位陥落は名誉の負傷と言っても過言ではない。
こんなエピソードを語る側は良いとしても、語られる側……話の中心人物にはなりたくないなと切に思う。
しかし、中心人物──若しくはその人と親しいほどの接点がなければ、どんなエピソードも表面上しか知る事が出来ない。
その裏側……大なり小なりどういう話であっても必ず、語られない裏側が存在する。
もちろん、スク水制服エアコンの乱も然り。
空閑先輩から海江田先輩のエピソードを聞いて、一度は語り終わったものと思った僕だが、どうやら空閑先輩は偶然にも、停学が明けたその日の放課後に海江田先輩に会ったらしく、その時に喋った事を後日談として語ってくれた。
喋ったと言っても、海江田先輩が一方的に話してたらしいけど。
「いやぁ……人としてスゲェよ、理事長先生は。あっちが一枚も二枚も上手だったわ──話し合いで、この結末に着地させようとしていた節があるんだからな」
前振りもなく、唐突に始まった海江田先輩の回顧に、空閑先輩は一瞬何の話?と思っていると、お構い無しにそのまま海江田先輩が語ってくれたとの事。
最後の処分の時にあった……海江田先輩の気付きを。
「お前がどこまで知ってるかは分かんねぇけど、理事長先生──と、もう先生はいらねぇな……理事長と処分の話をしてる時に、不審というか……あからさまに強引な所があったんだよ。私以外の奴らの処分……そこに関しては頑として、不問にしようとしなかった点だ。どちらか一方を罰するなら普通は逆なんだよ──発起人を処罰して、他の奴らをどうするか悩む……これがセオリーだろ?だけど理事長は、あいつらの処分に固執した。固執したのに、だ。私との取引ひとつで考えをコロッと変えたんだぜ?取引と豪語しときながら蓋を開けてみれば簡単な消去法……大した条件なんて出してないのにさ。それを承諾するんなら、答えはひとつしか無いと思わねぇか?私から出した条件が、理事長の求めていた処分そのものだったからだ」
静かに話を聞いていた空閑先輩は、半信半疑だったらしい。
ただただ考え過ぎなんじゃないか?と。
空閑先輩はどう思っていようと口に出す気は無かったようで、鬱憤を晴らすかの如く海江田先輩は話を続けた、と空閑先輩が言っていた。
「もしもあの時、私が理事長に取引を持ち掛けなかったら、おそらく理事長自身から提案を持ち掛けてきただろうぜ。私と全く同じ内容で『これなら譲歩できる』とか何とか言ってな。私としては、こっちの提案はすんなり通すし、理事長からは余裕が感じられたしで、そこから結末をコントロールされてる疑惑が出てきたんだが……でも正直な話、これはこれで収まりの良い結末だったんだよ。担任にも他の教師からも、お小言は言われなかったしな。ただ、理事長の手の平で踊らされてんのが癪で、最後の方はイラついてたんだけど。とまぁ……あーだこーだ言いはしたが、これは私の推測……コントロールされてる確証も無いし、想像の域を出ない代物だ。違ってたら私はヒステリック確定だよ。つーことで、誰彼構わず言い触らすなよ?……って心配いらねぇか」
海江田先輩の話を最後まで聞いた空閑先輩曰く、半信半疑だったものの説得力はあったとの事。
何せ海江田先輩の直感は鋭く、突飛な内容でもバカに出来ない事が過去に多数あったからと、爆心地の近くにいた人だからこそ言える理由だった。
僕も二年生ながら、海江田先輩の行動力と真似の出来ない発想力を目の当たりにして、驚愕した覚えがある。
それ故に又聞きではあるが、空閑先輩と同じで僕も、後日談の内容を疑わない。
締めに言ったとされる、海江田先輩の言葉も含めて。
「とにもかくにもだ。理事長って肩書きは伊達じゃない。小一時間ほど喋っただけだとしても、身に染みて解る……理事長こそ本物の女帝だよ。願わくば、あまり御近付きにはなりたくないね」




