7月 直談判
「こんちはー、海江田でーす。ちょっと直談判に来ましたー」
海江田玲花の声が響いたその場所は、中等部と高等部……双方の教師が一堂に会する場所、職員棟の職員室だった。
一斉に視線が海江田に集まる中、物怖じする事など一切なく堂々と入室すると、慌てふためきながらそこへ駆けてきた女性教師が1人。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと海江田さん!?急にどうしたのっ!!直談判って何っ!!?」
「よう、緑ちゃん。理事長先生はいないよな?さっき校長室ノックしたけど反応なかったし……教頭はいる?」
海江田の元へ駆けてきた女性教師は、右も左も分からない新任なのにも関わらず、なし崩し的に生徒会の顧問を押し付けられてしまった柱井 緑である。
「だーかーらー……緑ちゃんって呼ぶのは止めなさいって言ってるでしょっ!」
「はいはい、分かったよ緑ちゃん先生」
「どこが分かってるのよ……ちゃんと柱井先生って呼びなさいって……いやいやいや!!そんな事はどうでも良く……はないけどっ!!直談判って一体何なのよ!!?」
流れに押し負けそうな所だったが、柱井は逸れた話題を引き戻した。
「今日も相変わらず騒がしいよなぁ、緑ちゃんは。しかめっ面もしちゃってさ。そんな顔ばっかしてたら、お嫁に行けなくなるぜ……あっ、教頭みっけ」
海江田は柱井の「大きなお世話ですっ!」という恥辱の混じった叱責を華麗にスルーして、教頭が座っているデスクへと向かう。
二、三歩先を行く海江田を追いかける柱井はまるで、強い引力に吸い寄せられているようだった。
殺伐としたムードを自ら作り出した張本人はというと、この職員室でたった1人、笑みをこぼしている。
職員室にいた教師達は皆、この海江田の笑みに何か良からぬ事が起こるのではないかと、肝を冷やした事だろう。
脳裏に過る最悪の事態というものは、大抵が杞憂に終わる物だが……海江田に限っては、大抵が最悪へ繋がってしまうと教師達は理解している。
恐らく今回もそうなるのだと。
「おはざーっす、教頭。ちょっと直談判したい事があるんすけど、良いっすかー?」
仮にも学園の経営を任されている教頭に対し、この口の利き方である。
普通なら耳を疑い兼ねない言葉だが、彼女に"普通"や"常識"といったものを当て嵌める方が土台無理な話だ。
故に教頭も指摘しない。
「……用件は何かね。悪いがこちらも暇じゃないのだよ」
とは言え、気分の良いものではない教頭は当然ながら、眉間に皺が寄っている。
しかしそれを気にする海江田ではない。
「取り敢えず、横の校長室で話しましょうよ、教頭。こっちも話が早く終わるんなら好都合なんで」
勢いそのままに主導権は海江田が握り、職員室から校長室へ入れるドアを親指で指差した。
年端も行かない女子高生に、こうも礼節を欠いた口調で校長室へ促されるのは教頭としても腹立たしい所だが、大きく息を吐いて立ち上がり、延いては誘導された校長室の扉を開けた。
海江田は教頭を差し置いてすぐさま校長室に入ると「は~、涼しい~。生き返る~」と声を漏らし、さっきまでの獲物を狩るような表情から一転、平和ボケした顔へと表情が柔らかくなる。
校長室の一歩手前……まだ職員室内にいる教頭は、そんな海江田を見て怒りを通り越し、もはや呆れ返っていた。
そうと知ってか知らずか海江田はエスカレートして行き、手前の方の大きなソファーにゴロンと寝転がる。
教頭は海江田の自由奔放な行動を指摘するのは諦めて、海江田が寝転がった反対側のソファーに腰掛けた。
あまりにも直談判をするような構図ではないのだが、口火を切ったのは教頭だった。
「で、何だね?話というのは。まさか、校長室のソファーに寝そべりに来た……なんて言うつもりじゃないだろうね?」
だらしない姿をした海江田に、嫌味ったらしく小言をぶつける教頭。
すると海江田はむかっ腹を立てる様子もなく、ソファーからゆっくりと起き上がり、何事も無かったかのように足を組んで腰掛けた。
「やだなぁ、教頭。そんな訳ないじゃないっすか。ソファーにダイブしたいならちゃんと、ソファーにダイブさせてくださいって言いますよ?私は」
「だったら早く用件を言ったらどうかね」
張り詰めた空気感の中、海江田の飄々(ひょうひょう)とした態度に教頭も段々と苛立ちを隠せなくなってきていた。
それを察知した様子の海江田は左の口角を上げ、ようやく直談判の内容を告げる。
「そっすね、じゃあ単刀直入に。エアコンを着けてくれないっすか?連日続くこの暑さに扇風機だけとか、マジで拷問っすよ」
「……生徒会室にかね?」
海江田にしてはシンプルな内容に、教頭は怪訝な表情で問い掛ける。
果たして目的はそれだけなのか、と……。
胸騒ぎがしている教頭だが、その予感は見事に的中する。
「いや、教室全部に」
戸惑いや二の足を踏む様子などは一切なく、教頭に突き付ける海江田。
「全部だと……?」
突拍子もない提案に教頭は聞き返した。
対して海江田は、笑みを浮かべながら教頭の言葉を肯定する。
「そうっす。高等部棟に中等部棟、職員棟に……あと野外にある部室にも全部一気に着けちゃいましょう。外で動いてる顧問の先生達も扇風機だけじゃ辛かろうと思いますし。何なら職員室に着いてるエアコンも、もうちょいイイやつに買い換えるのもアリっすねぇ」
想定の範囲なのかアドリブなのか、更なる提案がつらつらと産み落とされる校長室に、室温より冷たい温度の言葉が海江田の元に振り下ろされる。
「却下だ」
直後、海江田の表情も固まった。
教頭はここぞとばかりに続きを口にする。
「学校の経営を任されてる私に進言するのは、非常に正しいと言える。生徒会長だけあって的確、且つ最も効果が望める行動を取る判断力、そこは評価しよう。目上の者への口の利き方には、随分と問題はあるがね。で、本題についてだが……君に言ってもどうしようもないのは理解してるが、敢えて言わせてもらおうか。経営には色々とお金が掛かるのだよ。消耗品や修繕費、君が求めるエアコン……環境設備もそうだ。口で言うのは簡単だが、費用を工面するのは一朝一夕とはいかん。一度に全部と言うなら尚更だ。悪いが賛成は出来んな」
じわりじわりと畳み掛け、海江田の提案を突っ撥ねた。
教頭は内心、精神的に大打撃を与えたと思った事だろう──固まった表情が変わるまでは。
海江田は反撃に移る──不敵な笑みと共に鋭い眼光を教頭に向け、指摘された言葉遣いのまま言い放った。
「金を雑に使ってる癖して何言ってんだよ。断るなら、もっとマシな理由で断れよな」
言い放った後の海江田から満ち溢れる自信により、教頭の眉間には再び皺が寄る。
「……金を雑に使ってる?言い掛かりも甚だしいな。私はね、無駄が嫌いなんだよ。行動……金……時間もだ。何を根拠に言っとるのかは知らんが、これ以上は時間の無駄だと──」
教頭は立ち上がる素振りを取り、海江田との話を終えるつもりの様だったが、海江田はそれを許さない。
綺麗に話をスパッと遮った。
「校長室に入った時、やけに冷えていたよなぁ?」
「なに……?」
教頭は海江田の言葉の意図が理解できず、シンプルに聞き返す。
そしてここから、海江田の猛攻が始まった。
「言ってる意味が分かんねーか?なら、もうちょっと噛み砕いて言ってやるよ。この校長室……私が入るまで"誰も居なかったこの部屋が何で、あんなにも冷えていた"んだ?最初から私が入ると決まってた訳でもないのにさ」
教頭の顔に動揺が走る。
痛い所を突付かれた教頭に反論する様子は見られず、今度は海江田が言葉を続けた。
「無駄が嫌いとか、どの口が言ってんすか。言ってる事とやってる事がちぐはぐなんだよ。校長室がキンキンに冷えてたのもどうせ、校長を兼任してる理事長がいつ帰ってきても良いようにしてるんだろ?そういう目上の人への気遣いが出来るのに、目下はおざなりにするとか良く出来た人間性なこった。それとっすよ、気になった点が1つ……さっき言ってましたよね?費用を工面するのは一朝一夕とはいかない……一度に全部と言うなら尚更って。……何でこの時に"少しずつで良いなら考える"とかなんとか、テキトーな事を言わなかったんすか?これは私の勘繰り過ぎっすかねぇ……端から譲歩する気なんて無いんじゃないっすか?ほんの1ミリたりとも」
そう言い切った海江田は前のめりになると、付随して教頭はのけ反るように背もたれに体を押し付ける。
緊迫する中、海江田が再び口を開く。
「知ってますか?教頭。ここ数日、この暑さで体調不良を訴える生徒が続出してる事を。昨日は高等部の一年生が1人……先週の土曜には中等部の一年生と三年生で各1人ずつ、高等部でも一年生が1人の計3人……金曜は私のクラスで1人。少なくとも休みだった日曜を抜いた三日間で、4人の生徒が暑さにやられてる。分かります?こちとら汗水かいて勉強してんすよ、かきたくない汗までかいて。金の無駄とか時間の無駄とかそういう御託なんかどうでも良いんで、ちゃちゃっと全部の教室にエアコン着けてくださいよ」
比較的、角が立たない口調で情に訴えかける海江田。
けれど教頭はというと……海江田に恐れをなしていた。
弱冠、高校三年生にしてこの話術、その上どんな相手だろうと物怖じしない態度……教頭はただただ本題を忘れ、目の前にいる女子生徒に恐怖を覚える。
言いくるめられはしない……相手が悪かった、と。
そんな心ここにあらずの教頭を見た海江田は、追い討ちを掛けるが如く嫌味を交えて煽る。
「それとも何すか?無駄が嫌いって事はまさか、私らの体調管理に割く金は無駄になるって言いたいんすか?ねぇ、教頭」
この言葉にハッとした教頭は我に返る。
手玉に取られそうになっている自分に次第に腹が立ち、とはいえ返す言葉を見当たらない教頭は、苦虫を噛み潰したような顔で海江田を睨みつけるが、放つ言葉は全くもって弱いものとなった。
「……高等部だけじゃなく、諸々全部に着けるとなると一体いくら掛かるか……聡明な君なら分かるだろう?」
先程までの強気な姿勢とは打って変わって、教頭も情に訴えかける。
状況は圧倒的に海江田が優勢……しかし、教頭の態度から"ある事"を察した海江田はすぐさまこの状況を投げ出した。
「あぁぁぁっ!もうっ!ここまで言ってもどうにもならねーなんてなっ!!こんなにも分からず屋とは思わなかったよ!!」
あー止めだ止めだ……時間の無駄だわこんなの……と吐き捨てて、校長室から直で廊下に出られる扉に向かって歩いて行く。
教頭は、歩く海江田の後を目で追った。
話を切り上げるには少々強引さを感じてしまうが、これには彼女が会話の中で推察した事に関係する。
ある種、海江田の行動は数手先を読んだ結果と言えるだろう。
肝心である海江田が察した事……それは"これ以上話をしても進展しない"という事である。
こちらの状況が優勢であったとしても、話では陥落に至る手は無い……つまり──このまま席に着いていた所で、教頭は"首を縦に振る事は無い"と……海江田はそう睨んだ。
故に海江田は撤退する。
校長室から撤退する……。
そう──海江田が撤退するのは校長室からであって、決して"本件"からではない。
ドアノブに手を掛けた海江田は、捨て台詞と間違う程の口調で宣戦布告をする。
「酸素の行ってねぇその頭の奥に、よーく刻んどけ。私は諦めたんじゃねぇぞ。話し合いで済んだら"する気"も無かったが……こうなったら強行策だ。次会う時が楽しみだぜ」
そう言い残し、嵐が過ぎ去った校長室には激しく扉が閉められた衝撃音が響く。
教頭は1人……校長室でソファーに挟まれたテーブルの一点を見つめる。
一難去ってもう一難、まだ続くのだろうと危惧しながら。




