6月 感謝
「お待たせ。ビシソワーズが出来たわよ」
僕がこのリビングで相談したあの日の出来事を回顧していると、母さんがキッチンからビシソワーズが入ってるであろう圧力鍋を持って戻ってきた。
指定席に座り、鍋からはみ出たお玉でビシソワーズを掬って、小さめの深皿へと注いでくれる。
「おまたせ。……はい、どうぞ。少し多めに作っておいたから、残った分は明日にでも食べて」
「いただきます」
律儀にも二度目のいただきますを言って、ビシソワーズを口へ運ぶ。
……うん、やっぱり美味しい。
味も最初に食べた時と変わらない。
僕の中での家庭の味がビシソワーズになりつつある。
…………異質すぎて、ちょっと嫌だな。
単純に好きな料理とか思い出深い料理が家庭の味というものだから悪い訳じゃないにしても……カレーとか肉じゃがに比べると言葉にするには勇気がいる……。
絶賛するほどに美味しいんだけどね。
ビシソワーズに中毒気味な僕は一度目の夕食と同じく、スプーンを皿から口へ何往復もさせて脳内を幸福物質で満たしていたが、待ってる間に母さんの言葉を受けて回顧してしまった影響によって、記憶の断片が幸福感に水を差す。
次第にスプーンを持った手は往復を止めて、テーブルの上に落ち着く。
重苦しい記憶である数々の断片が脳裏を過ったものの、幸福感に満たされていたせいか気分も沈んだりはせず、そろそろと視線を指定席にいる母さんに向ける。
「ねぇ、母さん」
悲しさと苦しさは、あの日の涙が僅かながらにも一緒に外へ流してくれた。
だから話せる。
悲しみに囚われず、あいつから言われた事を。
そして聞ける。
あの日の苦しみを乗り越えた今だから。
「僕が中学三年の時、母さんに進路の事で相談したんだけどさ、その時の事って憶えてたりする……?」
顔色を窺いながら質問すると、間の抜けた顔で母さんは答える。
「どうしたの?急に。随分前の話をするじゃない。覚えてない訳じゃないけど……それがどうかした?」
「あの日、母さんが僕に言ったんだ。「「なりたい物なんてなく無ていい。でも何かになりたいなら、いつか、僕の周りにいる人達が、頼くんがいて良かったって思える人になって」」って……」
「言ったかしら?そんな事。ちょっと覚えてないわね」
「母さんが覚えてなくても僕は覚えてるよ。でね、ちょっと前に智紘から言われたんだ。「「頼斗に会えて、良かったよ」」って。母さんが僕に言ったニュアンスとは、少し違うかもしれない。……けど、嬉しかった。誰かにとって僕が、どんな形であろうと助けになってたんだなって思うと……すごく嬉しかった。言われた時はビックリし過ぎて、実感なかったんだけどね」
「……そう」
「だから母さんには感謝してる。進学を勧めてくれて」
「勧めただなんて……そんなつもりじゃないわ。単に親として、世間体を気にしたまでよ」
単身赴任に付いて行く母親に世間体をどうとか言われたくない。
……と言葉にしたい所だが、素っ気ない態度も何もかも、全て引っくるめて母さんの照れ隠しな気がした。
智紘が言ってくれた時の僕と同じように、昔の話を引っ張り出されて気恥ずかしいながらも押し殺しているんだと思う。
様子から何となくそれを窺い知れたとはいえ、ここにきて掌を返すのは照れ隠しを指摘する以上に無粋だ。
僕は母さんの妙に悪ぶってる言葉を無理やりにも肯定する。
「そうだったとしても、僕が宝泉学園に通えたのは母さんのお陰だよ。あの時、パンフレットを出してくれたから今の僕がいるんだし……」
すると、相当むず痒かったのか母さんは途端に話を切り上げる。
「はいはい、この話はおーしーまーい。早く食べないと、せっかくの冷たい物がぬるくなっちゃうわよ」
熱い物が冷めるならまだしも、冷たい物がぬるくなるのには随分時間が掛かると思うんだけどな……。
ツッコミたい気持ちをセーブして、再びスプーンを皿から口へ、口から皿への往復を始める。
空腹時と変わらぬスピードで口へ運んだのも束の間、二杯目のビシソワーズも完食し、スプーンをゆっくり深皿に置いて手を合わせる。
「ご馳走様」
「はーい、お粗末様でした」
淡々とした口調の割には表情が無愛想で、口を真一文字に結んでいる。
滅多にしない感謝をしたのが不味かったのか、意外な事にも尾を引いたまま母さんは、空いた深皿と圧力鍋をキッチンへ運ぼうと席を立った。
普段なら喜び勇んで、その倍以上に僕が恥ずかしくなる話を振ってきそうなものだけど、やけに大人しく、不気味な様子にこっちは調子が狂いそうになる……いや、確実に狂ってる。
柄にもなく今、母さんのご機嫌取りをしようだなんて事を考えてる時点で。
僕のわがままでビシソワーズを作って貰っておいて、お返しが気分を不快にさせるというのは、あまりにも酷い。
どうにか機嫌を直してほしい所だが……方法がこれしか思い付かない……。
恥の上塗りだとしても1度掻いた恥だ。
同じ恥なら……ってか、どんな恥でも掻かないで済むならその方が絶対に良いんだけどね!
とことん振り回される僕としては、自棄にならなきゃやってられない。
とはいえ、僕を動かすのは「やらないと面倒事になりかねない」という使命感に近いものなので心の中では、やけくそとやりたくない代表の憂鬱とが同じ土俵で殴り合っている。
泥試合も泥試合だ。
決着の着かない争いを見せつけられている自分としては、どう足掻いても重い腰を上げざるを得ないので、この気まずい空気を払拭すべく、キッチンに立っている母さんに声を掛ける。
「ねぇ……お願いがもう1つあるんだけど……いい?」
「……今度は何?」
一見、無表情と誤認してしまいそうな母さんの表情は向かい合って座っていた時と同様、口元を真一文字に結んだままで僕をじっと見つめてくるのだが……表情豊かな母さんがのっぺりとした表情をしていること自体に、違和感を覚えてしまう。
気掛かりな点ではあるけれど、今は最優先すべき事がある。
この場は早急に母さんのご機嫌取りに回るべきと判断した僕は、やけくそと憂鬱を連れ立って眉間に皺を寄せながらお願いを口にする。
「ビシソワーズのレシピ、教えてください……!」
正直これだけで機嫌が良くなるとは思っていない。
とりあえず初手は様子見で、ここから徐々に持ち上げて通常運転、場合に寄っては過剰運転になるまで機嫌を取らないと……。
まぁ……そこに自分の望みを少し……ほんの少しくらい入れたってバチは当たらないだろう。
あくまで目的は母さんの機嫌を直すこと。
ビシソワーズのレシピを教えてもらうのはついで、ついでだから……。
テンプレ極まりない言い訳を考えている時点で、私利私欲にまみれてると言われれば否定しずらいが、よしんば目的が達せられるのならそれは一挙両得じゃないか。
つまりこれはお互いの為の行動であって、自己中心的な行動ではないっ!!
半ば無理があるのは理解しつつも、自分にそう言い聞かせて待つこと、およそ3秒。
母さんは吹き出し破顔すると、高笑いがリビング中に響き渡る。
母さんはひとしきり笑うと声のボリュームは段々と落ちていき、笑いを引きずったまま掠れた声で喋り出す。
「まさか……本当に虜になっちゃうとはね」
唐突の偏愛っぷりが笑いのツボを突いたみたいだが、恥を掻くのを承知で言い放ったお願いであっても気分が良いものじゃない。
これが序章だと思うと気が滅入るな……。
後の展開を想像してしまった僕の表情は翳りを帯び、対する母さんは細々と笑い続けていたが遂に限界が来たらしく、大きく息を吸う。
そして次の瞬間、吸った息を一気に吐いてニコリと笑顔をこちらに向けた。
「良いでしょう!頼くんがそんなにも、優梨子ちゃんが作ったビシソワーズが気に入ったと言うのなら、特別に……特別にっ!作り方を教えてあげるわ!さぁ、こっちへいらっしゃい」
ひょいひょい、と手招きをする母さんに吸い寄せられて、ようやく席を離れた僕の脳裏にとある推測が浮かぶ。
……あれ?これってもしかして、機嫌直ってる?
さっきまであったはずの違和感が今やどこにも見当たらない。
感じられる雰囲気や言動はいつもの母さんそのものだ。
いや、しかし……表面的にはそう装ってるだけで、実際は違うという可能性はまだ捨て切れていない。
様々な憶測が過りながらも僕は、手招きされるまま母さんの居るキッチンへ足を運んだが、これから何をするのか、されるのか……。
機嫌の件もあって不安な思いを抱きつつ母さんを注視していると……最初は幻聴だと思った。
冷蔵庫を開けたり戸棚を開けたりと聴き慣れた雑音の中に、微かだが雑音とは違う無機質ではない生きた音をこの耳でガッシリと掴めた事により、僕は確信に至る。
母さんは何かの準備をしながら薄っすらと微笑を浮かべて鼻歌を口ずさんでいた。
密かに次の一手を考えていた所ではあったけど、見た感じその必要は無いと僕は判断する。
あの初手が王手だったらしい。
「じゃあ、始めよっか!優梨子ちゃんによる直伝ビシソワーズ作りをね」
正直な話、この場で「レシピを書いてくれるだけで良かった」と言えば、呆気ないかもしれないが母さんとのビシソワーズ作りをせずに自分の時間を満喫できたように思う。
しかし、母さんからすれば本日3度目のビシソワーズ作りだ。
夕食の1食分とおかわり、続いて教える時間と労力を僕に割いてくれるのだから、機嫌が良くなったからと勝手に突き放すのは、いくら何でも人の好意を踏みにじる行いだろう。
ならば母さんの心遣いへの感謝と共に、とことん付き合おうじゃないか。
ご機嫌取りのボーナスステージだ。
僕は母さんの言葉に無言で頷き、すっと母さんの左側に立つ。
流れるように始まったビシソワーズ作りのご教授だが、教えてもらってる側からすると料理番組のアシスタント気分だった。
実演してる母さんの横で手さばきを見て、ひと通り説明が終わったら僕がやってみる……といった形式で教えてもらっているので、しっかりと教えを自分の身に落とし込めるのは僕としてもありがたい。
教わりながら僕がやっている時は、邪魔にならない程度にためになる豆知識やワンポイントアドバイスを交えてくれる。
そんな中、お互いが無言になった時があった。
特に何かがあった訳ではなく、自然に生まれた沈黙で、居心地の悪さも感じられない透き通った沈黙だった。
僕は何気なく母さんの方を見る。
その横顔はどこか、上機嫌とは違う微笑みを浮かべていた。
母さんはすぐに僕の視線に気付く。
「どうかした?」
「いや、何も」
僕は再び目の前の作業に取り掛かる。
そんな僕を見た母さんは「変な頼くん」と言って、笑いながら作業を再開した。
認めるよ、それは。
ご機嫌取りのボーナスステージだとしてもだ、面と向かって「母さんの表情が気になったから」なんて、こっちの都合であろうと恥ずかしくて口に出来ない。
口にしようものなら向こう5年は母さんと距離を取らないと、思い出しては羞恥心に針でチクチク刺されてしまう。
これは決して大袈裟なんかじゃない。
僕のメンタルが強くても、母さんと顔を会わせれば追撃が来ること間違いなし……これを踏まえると、過去を蒸し返されてニタニタしながら、母さんの気が済むまでけちょんけちょんにされるのがオチだ。
……何なら、今のやり取りこそ僕が与えてしまった"隙"で、間髪を容れずに「優梨子ちゃんの顔が美しすぎて、視線が吸い寄せられちゃったんじゃない?」みたいな揺さぶりの1つや2つ、言ってきそうな感じなのだけど……にこやかな表情でビシソワーズに使う材料を切っている。
数分前はこんな穏やかな笑顔をここまでの短時間で見られるとは思っていなかった。
あれ自体が錯覚とさえ思えてくる。
違和感を覚えたあの表情や……やけに無愛想な態度を……。
流れから照れ隠しの延長線上と推測したが、確証なんてどこにも無く、あれはやはり母さんに色々と迷惑を掛けた罰の悪さから来る"そうであってくれたら良いな"という願望の線が否めないし、あの時の表情についてはむしろ、断定したくない気持ちが強い。
真相を知るのが怖いから。
救われたいと思うと同時に、足枷を失った後の歩き方が分からないから足が竦む……そういう感覚。
昔よりかはネガティブ思考が酷くないとはいえ、過去を想起するとどうしても顔を出してしまう。
僕の頭の中を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、知らん顔で居座り続けるネガティブ思考を出来る事なら永久追放したいけれど、長い付き合いだ……いつかは出ていってもらうとしても、今日は大目に見ようじゃないか。
このネガティブがあったから今日、母さんに感謝を伝えられた。
良くない物も、時と場合によっては良い方へ転ぶ。
だからって訳じゃないけど、僕の推測が的を射ていようと、ただの思い過ごしであろうと、どちらだっていい。
悪い意味であっても、いつか好転して僕の前に現れる……そういう淡い期待を抱いて、あの一瞬と一緒に思い出の中へ閉じ込めよう。
沈黙の中、ふとした瞬間に垣間見た母さんのあの横顔……僕にとって忘れる事のないあの一瞬を。




