6月 波乱の足音
勉強会が始まり、およそ20分。
会話はほとんどなく、サボりもせず(1名疑惑はあるけれど)平穏無事に時間が過ぎていく。
担当になった数学の纏めも、ようやく三分の一が終わったところ。
やっているのは当然みっちゃんの為だが、これはこれで自分の勉強になっているのでは?と、やりながら思った。
水雲さんが勉強会を提案してくれた時に「手が空いた人は、その時間を使って試験勉強を兼ねれば一石二鳥」みたいな事を言っていたけれど、手が空かなくとも試験勉強の要点を纏めているだけで、自分の身になっている実感がある。
誰かに何かを教える行為は知識や経験の再確認になるし、アウトプットとインプットの両立が出来る唯一の方法、そして理解を深めるに当たって最も効率の良い方法なのかもしれない。
脳内を数式で埋め尽くしながら、2つの意味で学びを得た僕が実感を噛み締めていると、右隣で漢検をしているみっちゃんが、テーブルにペンを置き、背伸びをした。
「おわった~」
達成感と脱力感に浸り、斜め上を見上げているみっちゃんは息を大きく吐いた後、やり終えた漢検の問題集に目をやって独白するように喋る。
「あたし、最近気付いたんだけど…漢字ってフクザツじゃない?1つの漢字の中に読み方が何個かあったりするし…前と後ろの言葉が変わると急に読み方も変わったりするし…しかも、そのパターンみたいなのもないし…漢字を普通に使ってる日本人って何て言うか……すごくフレキシブルだよね」
みっちゃんの切なる言葉を受け、僕の真正面に座っている水雲さんが感想を述べる。
「そうねぇ。日本人がフレキシブルなのかは分からないけど、読み方が多い一部の漢字には、勉強してても頭を悩まされるわ」
「へぇー。セイセキがいい人でも、わかんなくなる時ってあるんだ!」
嫌味ではなく、ただ純粋にみっちゃんは驚いたようだ。
「ふふっ、当然よ。どんなに成績が良くたって分からない事はいっぱいあるし、逆に勉強すればするほど分からない事が増えていったりするものなの。漢字に限らず、ね」
水雲さんは笑みをこぼし、含蓄めいた事を説く。
「なるほど~、勉強になるなぁ」
それを聞いたみっちゃんは、うんうんと頷いてはいるけれど、言葉の軽さから見て本当に理解してるのかが疑わしい。
ていうか、たぶんしてない。
「だから、海外で生活していた安治川さんが複雑と思うのも無理ないわよ。漢字に身近な日本人でさえこうなんだもの」
すると、みっちゃんは水雲さんが言ったあるワードを反応する。
「やだなー。"安治川さん"だなんて、何か友達じゃないみたいじゃん。美琴でいいよ」
ニッコリ明るく、それは幼い頃を彷彿とさせるような口振りだった。
「そう?じゃあ美琴ちゃんって呼ぶわね。私のことも真澄って呼んで」
「うん、わかった」
短時間のやり取りだが、見てて思う。
みっちゃんは友達作りが上手いな。
一緒に勉強する事になったとはいえ、数日前までは接点が無かったのに。
いや、逆かな。
接点が無かったから関係を作りやすいのかも。
転校生ほど、誰とでもフラットに接する機会を持てる存在は無いだろうが、先天的な明るい性格がその接しやすさに拍車を掛けている。
言わば、彼女のカリスマ性。
鵜久森ちゃんや海江田先輩が僕に足りないと言うカリスマ性は、みっちゃんを目の当たりにすると僕には無い才能だと痛感させられるけれど、ただ1つだけ言わせてもらいたい。
こういった突出した才能には、どれだけ努力して才能を磨いたとしても、一朝一夕じゃ到達しえない…もしくは、足元には及ばないものなのだと。
みっちゃんと水雲さんがお互いの呼び名を決め、短いながらも2人して微笑み合った後、再び雑談をする運びにはならなかった。
ここにいる目的は勉強すること。それを忘れることはなく流れは自然と勉強会の中心である彼女、みっちゃんに委ねられる。
「んじゃあ、漢字の勉強も丁度いい所までおわったし……そろそろテスト勉強を教えてもらおーかな」
そう言いながらみっちゃんは首を傾げ、少し右斜め上の方へ視線を流したかと思えば、すぐさま左横にいる僕を見て「よっちゃん、数学教えてくれる?」と、屈託のない笑顔で尋ねてきた。
不意を突かれ、目が合った僕はその笑顔にドキッとしてしまったが、平常心を装い「うん、良いよ」と快諾。
座っていたのが隣なのもあって、勉強を教えるにしては、なかなか心臓に悪いお願いの仕方だなと内心思いつつ、纏め終わっている部分を教えようと用意を始めた。
「ありがと~」
何やらお礼を言われた気がしたが、みっちゃんからの不意打ちのダメージが残っていた僕の耳には入って来なかった。
そんな、気持ちの整理が落ち着いてない僕に対し、みっちゃんは何を思っての行動なのだろうか……。
グラス二つ分くらいあった距離をずずいと縮め「ホント、数学って苦手だから、わかんなくって」と言い終わる頃には、僕とみっちゃんの肩と肩は互いに、ピタッと、密接に触れ合っていた。
そして肩だけでなく、次第に足や肘までもが僕の体に接触する。
こんなに近付かなくても勉強に支障はないはずなのに……。
意識が右半身に集中してしまうせいで教える部分を事前に纏めていたのにも関わらず、それを説明する言葉が全然纏まらない。
凄く気が散ってしまう。
それでもどうにか勉強を教えなければ…と、ざわつく気持ちを紛らわせようとした。
とにかく集中だ…勉強を教える事に集中しないと。
纏めた数学の要点を説明しながら、右隣にみっちゃんを感じつつ勉強を教え始めたのも束の間。
前方からの視線を感じた。
こんな状況だ、自意識過剰と言われても仕方ない。
右半身から意識を分散させたかと思えば、今度は前からだなんて……。
気になっているものを放置出来るほど我慢強くない僕はふと、ノートから視線を前方へ移してみると、みっちゃんの前に座っている鵜久森ちゃんが、手を止めた状態でこちらを見ていた。
表情も何処か不機嫌で……しかも何か言いたげで……鵜久森ちゃんはじーっと僕から目を離さない。
逆に見られている僕の視線は、ノートと鵜久森ちゃんを行ったり来たりと、僕を見ている理由やムッとしている理由を聞けないままでいた。
ここは意を決して聞くべきか?と頭の片隅で悩んでいると、業を煮やしてか、鵜久森ちゃんが口火を切る。
「あの、ちょっといいですか?」
口調といいトーンといい、不機嫌さが少し声に乗っている。
「さっきから二人の距離感、近くないですか?そこまでくっ付く意味、あります?」
だよね、そうだよね、僕も思ってた。
勉強中にパーソナルスペースの右半分が皆無なのは、おかしいよね。
僕は思った事を口にせず、卑怯にもゆっくりと、みっちゃんに視線を流した。
みっちゃんは鵜久森ちゃんの方から僕を一瞥した後、再び鵜久森ちゃんを見る。
「意味?そんなのないけど、くっついちゃダメなの?」
え、意味ないの?じゃあ離れてても良くない?
みっちゃんの返答に僕が言葉を返しそうになったが、間髪を容れず鵜久森ちゃんが言い放つ。
「だったら別に、くっ付かなくても良くないですか?」
僕と同じ意見をそっくりそのまま言ってくれた鵜久森ちゃん……しかし、漂っている空気に一抹の不安を感じる。
そんなピリピリとした空気を察しているのかいないのか、みっちゃんは首を傾げ、人差し指を添えながら考えを口にする。
「うーん、そうかもしれないけど…アメリカだと普通だよ?こういうの」
僕だけじゃなく鵜久森ちゃんを除いた三人も、どうしたものかと目を泳がせる。
「へー、そうなんですか。1つ勉強になりました。けれど、ここは日本なんです。あなたがどれだけアメリカで生活していたかは知りませんが、日本にいる以上は節度を持った方が良いですよ?日本には、こういう諺があるんですよ。郷に入っては郷に従え、と」
「ゴーに行ってはゴーに従え…???うーん……ガンガン行けってこと?」
「違いますっ!!」
鵜久森ちゃんは凄い剣幕で怒った。
「うわっ、ビックリした…めちゃくちゃ怒るじゃん……」
みっちゃんは電撃が走ったかのように、体をビクッと飛び上がらせた。
怒りが収まらない鵜久森ちゃんに「音寧ちゃん、ちょっと落ち着いて」と、水雲さんがなだめに入る。
漢字を勉強中のみっちゃんに諺を言っても、上手く伝わらないのは容易に想像できると思うけれど、冷静さを欠いた鵜久森ちゃんには難しかったようだ。
落ち着きを取り戻しつつあった鵜久森ちゃんを尻目に、みっちゃんは僕に問い掛ける。
「ねぇ、よっちゃん。おとねちゃんって中学生の時からこんな感じなの?悪い人にかみつく、シェパードより怖いよ」
犬種に詳しくない僕でも、警察犬のイメージが強いシェパードは知っている。
気になるのは、みっちゃんの怖いものランキングの中で、シェパードがどれくらいの位置付けなのかだけど。
僕は犬の話には一切触れず、何の気なしにみっちゃんの質問に答える。
「僕、中学生の時の鵜久森ちゃんを全然知らないんだよね」
「えっ、そうなの?」
みっちゃんは意外そうに驚いた。
と同時に、鵜久森ちゃんは視線を落としてそっぽを向く。
驚かれると思ってなかった僕はあどけない姿を見て笑みをこぼしていると、途端にみっちゃんは訝しんだ顔をする。
「うん?…えーっと……あれ?」と目の動きで三角形を作るみっちゃんを不思議そうに見ている僕だが、みっちゃんの次の発言に心の余裕を保てなくなってしまう。
突かれたくない部分を突かれてしまう。
「でも桜ヶ丘宝泉学園って、中学と高校が一緒になってる学校だよね?中学生の時に会ったことなかったの?」
僕はその問いに、こう返すしかない。
「僕が宝泉学園に入学したの、高校からだから」
ここで納得してくれたなら、どれほど良かっただろう。
ただの雑談として終わったというのに。
「ふーん、ちょっとめずらしいよね。こういう学校って、中学生からなんとなーく高校生になるってイメージあるし、高校から入ろうってあんまり思わなくない?」
みっちゃんの意見はあまりにも正論で、返す言葉が見当たらなかった。
困惑しながら黙っていると、みっちゃんは太陽みたいな笑顔で追撃質問する。
「もしかして、よっちゃんもお父さんの仕事の関係で転校したとか?家の場所は変わってない気がしたけど…あっ、わかった!転校して、あたしみたいに戻ってきて、テキトーに学校選んじゃったんでしょ!どう、合ってる?」
僕は否定する。
「いや、父さんの仕事の都合で転校とかは無かったよ」
宝泉学園を選んだ理由ははぐらかしたものの、みっちゃんはお構い無しにグイグイ尋ねて来る。
「じゃあ、何でこの学校を選んだの?あっ、あたしはね、制服がカワいかったから選んだんだー。まー、それだけじゃないんだけどね」
「そうなんだ。可愛いよね、ここの制服」
質問にどう返すべきか悩んだ末に出たのは感想だったが、本当に思っているのかが怪しいくらい、感情の乏しいものとなった。
それほどまでに、今の僕の心には余裕がない。
当然、この場の空気は重くなる。
生徒会メンバーの三人は表情が固まっているし、質問をしたみっちゃんでさえ普段とは様子が違うと察したらしい。
よもや勉強会でこんな話になるなんて…。
部屋には六人も居るというのに、話し声、物音、何ひとつない沈黙した場が出来上がってしまった。
重力をいつも以上に感じるこの、どろりとした空気。
各々、困惑と沈黙を続けざるを得ない雰囲気の中、勉強らしい勉強を一切していなかった智紘が、唐突に口を開く。
「喉が渇いたんだけど、もうねぇんだよなぁ……悪いんだが頼斗、お茶入れてきてくれねぇか?」
飲み干されたグラスを片手に、智紘がお茶を催促する。
「あぁ…うん、分かったよ」
僕は智紘の言葉に従い、勉強中に倒さないようにとフローリングに置いていたピッチャーとトレイを持って、立ち上がった。
「あ、待って。私も行くわ」
あの時と同様に、水雲さんが手伝いを買って出てくれた。
そして僕はこの場から逃げるように退室し、水雲さんは僕の後を着いて来る。
階段を降りてそそくさとリビングに入り、冷蔵庫を物色しながら近くに居るであろう水雲さんに話し掛ける。
「水雲さんは何か飲みたい物とかある?って言っても、水雲さんの口に合う物があるか、自信はないんだけど」
正直、気を紛らわせたかっただけの取るに足らない話。
相手が居たからしただけで、居なくても僕にとって大差はない。
それでも話し相手がいる以上、さっきの話は触れて欲しくなかったので、何事も無かったかのように明るく振る舞った。
けれど、水雲さんは見過ごしてはくれなかった。
「ねぇ、姫島くん……聞いても良いかしら?」
僕は冷蔵庫の中を見つめたまま黙秘したが、水雲さんは僕が黙るつもりだと察したのか、構わず話を続ける。
「さっきの話なんだけど…どうして姫島くんは、宝泉学園に入学したの……?不躾なのは分かっているわ。たぶんだけど、姫島くんの過去に関わる事だと思うし、誰にも話してない話でもあると思う。それを1人で聞こうとする私は、誰がどう見たって厚かましいわね。でも……知りたいの。姫島くんがそんな顔をする理由を…。そんな、窮屈そうにしている理由を。だから、話してくれない?姫島くんの……1人の友達として」
水雲さんの言葉が、僕の心の中にゆっくりと入り込んでいく。
さっきまで張っていた氷を優しく溶かすように。
僕は冷蔵庫の扉を閉め、水雲さんが居る方へ顔を向ける。
水雲さんはリビングから二、三歩入った所で立っていた。
リビングに入ってから、初めて見た水雲さんの表情は真剣で、それでいて、心の底から受け入れてくれるような……そんな表情だった。
咄嗟にも目を下に逸らしてしまったが…僕は決意し、もう一度水雲さんと目を合わせた。
「いいけど……気持ちの良い話じゃないよ?それに、面白い話じゃない」
自然と半笑いになってしまった僕に、水雲さんは優しく、言葉を掛けてくれる。
「ええ、いいわ」
ここまで言われたら、もう引き返せない。
水雲さんの気持ちを無下にする訳にはいかない。
目を瞑って深呼吸を1つ、そして僕は話し出す。
くだらなくてつまらない、昔話を。




