6月 聞く者
人に相談するというのは、とても勇気がいる行動だ。
僕も過去に一度、母さんに相談した事があるけれど、相談しようと決意するまでに相当な時間、思い詰めた経験がある。
あの時の母さんは、僕が話し始めるのを優しい顔でただただ待ってくれていた。
何も言わずに、ただずっと。
その優しさが無ければ恐らく、今の僕は存在していないと思う。
母さんが僕にとってのターニングポイントの1つ…そう断言できる。
相談は、する人の人生を左右してしまうもの。
みっちゃんも僕と同じで、この相談がみっちゃんにとってのターニングポイントとなる可能性は充分ある。
だから僕は待つ。
みっちゃんがいつでも自分から話が出来るように、いつぞやの母さんみたく、優しい表情をする。
いや…"する"というのは烏滸がましい…僕は優しい表情を心掛ける。
小さな会議用スペースにみっちゃんと2人…机を2つ挟んで座っているだけなのに、何故だか妙に緊張してしまう。
涙を流すほどの相談を持ち掛けてくるとなると、一筋縄では行かない気がするし、僕がどうこう出来る物なんだろうか?
不安だ…不安でしかない……でも表情には出せないし、気持ちを紛らわせる為に何か話したいところだが……。
あぁ…相談を聞く側になって気付いたことだけど、ただただ待つのが、こんなにも根気がいるものだとは露ほども知らなかった。
母は偉大、先人の言葉が身に染みる。
同じ体勢がきつくなり座り直そうとした僕だったが、幸か不幸かあるイメージが脳裏に浮かんでしまった。
単に座り直すだけだとしても、この行動はみっちゃんにはどう見えるだろうか?
待っている側の僕が業を煮やした末の、早く話を切り出してほしいというサインになりはしないか?
考えすぎ?……とは決して言い切れない。
精神状態が良くないと色々ネガティブになってしまうものだし、変に勘繰って状況悪化に繋がることも考えられる。
ならば、強張った体をほぐす為の背伸びや、意味もなく窓の外を見ることさえ、相手に威圧感を与えてしまうんじゃないか……と。
そう思ったが最後、待っている側のプレッシャーが一気に押し寄せる。
両手を机に乗せ、左手で右手を軽く握った姿勢を取ってから身動きが取れず、5分は経過しただろうか。
もう限界だ。
こめかみがむず痒くなってきた。
優しい表情を心掛けている最中だが、だんだんとぎこちなくなっている…ような気がした。
そこに追い討ちを掛けるように、双眸で捉えたものが気を散らせてくる。
追い討ちを掛けてきたもの、それは僕の視線の先…目の前のみっちゃんを越えた向こう側にいる3人だ。
3人は何か作業をしている風ではあるのだけれど、各々がちらちらと僕らの方を窺っている。
さながら、サバンナで見張りをするミーアキャット。
ただ違う点があるとするならば、自然と顔が蕩けてしまいそうになる可愛げが、生徒会室を拠点とするミーアキャットからは感じられない。
小動物顔の鵜久森ちゃんに至っては、何とも言えない顔をしている。
そして3人の内の誰よりも、こちらを向く回数が多い。
誤魔化しが利かないほどに目が合うので、僕の注意散漫が加速していく。
ちなみに、つい先刻の鵜久森ちゃんの念仏タイムは、水雲さんが鵜久森ちゃんの肩を揺すると唱えていた念仏が止まったので、少し前のこんにゃく宣伝大使の退任よりも圧倒的に早く終了を迎えた。
声が小さくて、どういう念仏を唱えていたのかは分からないが、精神状態の浮き沈みが激しい鵜久森ちゃんは、今日の僕と同じで厄日なのかもしれない。
3人の視線を感じている中、みっちゃんだけは僕から目を逸らしている。
視線は動くものの追った先は決まって机なので、現状話してくれる気配が感じられない。
やはり僕には、母さんみたいな真似は無理なんだろうか?
一朝一夕で身に付くものとは思ってないけど、能力不足だと分かるのは、自覚していても心にくる。
精神を強く持つべき僕が、じわりじわりとネガティブな思考へと染まろうとしていた。
生徒会室を支配する沈黙……もういっそ僕が破ってしまおうか。
軽く自棄になった考えだったが、これがネガティブな思考を打ち破るきっかけとなる。
そうだ…何も母さんを真似て、話を切り出してくれるのをひたすら待たなくても良いじゃないか。
母さんは母さんのやり方で、僕は僕のやり方でやればいい。
待たずとも、声を掛けて話しやすい空気を作り出せたら、話は進展する。
よし、話しかけよう。
ちょっと強引に思われるかも知れないけど、ストレートに…。
「どう?落ち着いた……?相談は、みっちゃんの話せるタイミングでいいからね」
言えないよねぇ…。
そこまで度胸ないもん…。
僕としては、長かった沈黙を破っただけでも褒めてほしい。
だって、こんな状況で話しやすい空気を作れる訳がない。
もっと早い段階で手を打っていれば可能だったろうが、あまりにも時間が経ち過ぎた。
結局は堂々巡り。
…と思ったのは僕だけだったらしい。
「相談っていうのはね…」
みっちゃんからの待望の一声。
さっきの一言が効果あったのか?
どちらにせよ、話し始めてくれたのは願ってもないことだ。
僕は未だ目を合わせてくれないみっちゃんをじっと見つめる。
すると、みっちゃんは軽く息を吸い込んで直ぐ、僕としっかり目を合わせて言い放つ。
「あたしに…勉強を教えてほしいのっ!」
短い沈黙の後。
「……えっ、勉強?」
勉強って言った?
僕への相談事って、勉強を教えてほしいって事だったの?
ものすごくシリアスな空気だったから、とんでもない事を言われるものだと思っていたのに、拍子抜けもいいところだ。
室内に張り詰めていた空気と内容との高低差がありすぎて、開いた口が塞がらなかった。
しかし、それは僕だけじゃない。
みっちゃんには見えてないけれど、あちら側に座っている3人も僕と同じ顔をしていた。
いわば心情を写し出す三面鏡だ。
どういう相談事を持ってくるんだと、ほんの少し前まで萎縮していた僕だったが、相談内容が斜め上を行っていたのもあり、言葉に詰まる。
いや、斜め上を行くと言うより、こればっかりは上じゃなく斜め下に思えなくも…。
言葉の綾はさておき…取り敢えず、聞きたい事は聞いておこうか。
「えーっと…勉強を教えるのは全然構わないんだけど、どうしてそんな思い詰めた顔をしてたの…?内容の割りには結構深刻そうに見えたんだけど」
正直な所、聞かなくても良い話だ。
二つ返事で引き受けて、何の勉強を教えたらいいのかを尋ねる…そういう懐の深い生徒会長であれたなら、鵜久森ちゃんの言うカリスマ性を、鵜久森ちゃんだけでなくこの場にいる全員に見せつけられたのかもしれない。
なんて度量が広い生徒会長なんだ…と。
けれどあの時の……涙を浮かべた表情を目の当たりにしてしまったら、何も聞かずに鵜呑みにするなんて出来やしない。
「うーん…」
みっちゃんは言い淀み、小さく唸る。
唸ったのは説明に困ったからなのか、それとも単に話しづらかっただけなのかは分からないが、沈黙と呼べるくらいの間は空かなかった。
「さっきね、職員室で担任の先生に怒られちゃって…」
目が合わぬまま、相談事に繋がるであろう事情をゆっくりと話し始めた。
「怒られた理由は今日の授業のことなんだ…。授業中にね、あたしがいっぱい指されたんだけど…って知ってるよね。よっちゃん、隣にいたし」
当然知っている。
何なら記憶に深く刻まれているくらいで、心労が絶えない瞬間でもあった。
「あの時ね、授業受けてたけどぜんぜん分かんなかったんだ、あたし。だから指された時に「「わかりません」」って言っただけでね、わざとじゃないんだよ?なのに、担任の先生に「「ふざけてるのか?」」って言われたの…。英語の授業はカンペキだったんだよっ?英語の先生もすっごくホメてくれたし…でも、他がダメだっただろ?って言われちゃって…」
抱えていた相談事を打ち明けてからは、蛇口をひねったみたいに矢継ぎ早に話し出す。
先刻まで無口だったのが嘘のようだ。
表情も少しずつ、翳りが無くなってきた感じがする。
「ヘンだよね?分かんないから分かんないって言ったのに、それを怒るんだもん…」
それはみっちゃんの理解力が乏しいのが問題だと思うけど、怒るのはやり過ぎだろう。
進学校であっても成績が伸び悩んだり、授業に付いて行けてない生徒は少なからずいる。
そんな生徒に優しく手を差し伸べるのが教師の正しい姿、もしくはあり方だと僕は考えているけれど…。
「漢字が読めないからって、あんなにキツく言わなくても良いと思うんだよね…」
「えっ…?」
気のせいかな?聞き捨てならないワードが飛んで来たような…。
「あの、みっちゃん…何が読めないって?」
聞き間違いだ、そうに決まってる。
盛大に聞き間違いをしてしまったので聞き返した。
「え?漢字だよ?」
みっちゃんは、それがどうかしたの?と顔でも返事をする。
「ちょっ……ちょっと待って?漢字が読めないなら…転入試験は?あったでしょ、テストが」
「あったけど、あたしはやってないよ?面接の時に、アメリカで行ってた学校の成績を見せたら、転入試験をパスできたの。これなら問題ないって…」
問題アリアリだよ。
トランプで遊んでるんじゃないんだから、簡単にパスなんてしないで。
ってか誰だよ、そんなガバガバ判定したのは。
「んーと、学年で一番エラい先生…だったっけ?顔がちょーっと恐い先生が言ってくれたの」
学年主任…僕の中で今、あなたの威厳は何処かへ消え去りました。
御愁傷様です。
みっちゃんからの情報提供は、学年主任のイメージを一瞬で覆してしまうものだったが、僕を取り巻く状況は何一つ変えてはくれなかった。
「でもね、あたしも漢字に不安はあったんだ。お家で日本語を喋ることはあったけど、漢字を書いたり読んだりするのはどんどん減っていたから……。だから転校が決まってから先生にね、読み書きが苦手なのは伝えてたんだけど…先生に「「そこまでとは思わなかった」」って、言われちゃって…」
「そこまでとは思わなかった、って…?」
それって…どういう……?
意味深な言葉が気になって、そのまま鸚鵡返しすると途端にみっちゃんが気まずい表情を浮かべる。
「えーっと…」
急に歯切れも悪くなったが、どうやら話の肝は"そこ"にあるらしい。
察するまでもなく良い知らせではなさそうだ。
吉報であるなら顔を曇らせはしならないし、ましてや歯切れが悪くなったりはしない。
ここで一番避けたいのは、みっちゃんが口を閉ざしてしまう事だけど…。
「実は…」
彼女自身、言うかどうか迷っただろう。
だが、隠し通せるものでもないと悟ったようで、すぐに口を割る。
「あたしが書いたり読んだりできる漢字って…小学三年生まで、なんだよね……」
「………へ?」
僕の口からバカみたいに素っ頓狂な声が出た。
そして僕は当然聞き返す。
「小学…三年生?」
「もちろん!なんとなーく読めるのはあるよ?でも…ちゃんと分かるのは小学校低学年レベルなの……」
慌てながらフォローを入れたみっちゃんだが、僕からすれば正直あって無いようなものだった。
「このことが今日の授業のことと一緒にバレちゃって…」
なるほど…。
授業で分からないを連発していた理由が、前もって伝えてた漢字が読めない事に起因してる上に、肝心の漢字力が小学三年生で止まってるからだと、芋づる式に発覚してしまったのか。
そしてそれを含めて怒られていたと…。
全てが一気に重なると悲惨に思えてくるな。
まぁ、一番悪いのは学年主任だけど。
「漢字読めないし勉強もついていけてないし…あたし、このまま退学になっちゃうのかな…って思ったら泣きそうになっちゃって…そしたら担任の先生がね「「とりあえず、生徒会長の姫島を頼ってみたらどうだ?」」って言ってくれて…それでよっちゃんに相談しに来たの」
いやいやいやいや……それで良いのか!?担任教師!!
聞く限りだと、サポートとかはするって感じでもないんだけどさ…何でもかんでも僕を当てにし過ぎじゃない?
みっちゃんを僕の隣の席に決めた理由、まだ忘れてないからね?
教師に対して、あまり良い思い出がなかった僕だけど、少しずつ印象が変わってきてたんだけどなぁ…。
しかし、こうなった以上たらい回しには出来ない。
教師の不始末を生徒が尻拭いするのは釈然としないが…何と言うか……その………うん、やっぱり釈然としない。
どうにかこじつけて自分を納得させようとしたけれど、許容範囲を越えていた。
僕は頭に手を当て、溜め息と共に思案に暮れる。
言いたい事は多々あるが、みっちゃんに言ったって仕方ない。
この事は然るべき時に然るべき場所で責任の追及をするか、もしくはどうしてもやりたい事が出来た時の切り札として置いておこう。
さてと…本題に目を向けないと。
この相談を受けるにしても、ひとまず状況を整理しておかなければ。
解りきっていることも含めて問題点を明確にするのとしないのとじゃ、後々(のちのち)雲泥の差になってくる。
僕は1つ1つ問題点と不明瞭な部分の洗い出しを始めていた。
ここまでの状況整理をしているその途中、ふと先週のみっちゃんの自己紹介の光景がフラッシュバックする。
転校初日の…あの日の光景が。




