6月 帰ってこない平穏
僕が生徒会室でやり取りを交わす、およそ7時間ほど前。
みっちゃんから直々に吉報を告げられた。
「じゃんじゃじゃーん! よっちゃん見て見てー!!ついにあたしの教科書がぁ………届きましたぁー!!いぇいいぇーい、ふぅ~~~!!」
みっちゃんの喜びように引きつつも、僕は内心ガッツポーズ。
これで晴れて自由の身になったと、静かに喜びを噛み締めていた。
変わらず噂は蔓延しているが、人の噂も七十五日…1つの教科書を幼馴染みで共有する光景が無くなった事で、これ以上変な噂も立たないだろうし、廃れていくのも時間の問題だ。
耐えて忍んで、平穏が帰ってくるのを待てばいい。
そう思っていた。
しかし、そんな希望は程なくして打ち砕かれる。
1時限目、現国の授業。
教科書を自分一人で使える幸せに満たされていた僕は、相も変わらずノートを色鮮やかに染めていた。
その上、いつもより少しペンが乗っているような感覚もあり、一歩間違えればノートを越えて、机さえもカラフルにしてしまいそうな程、授業に没頭していた。
みっちゃんと机をくっ付けていた時は、みっちゃんの目が気になってしまい、自分の思うままに書けなかったのだが、その反動がここに表れたのだろう。
板書された内容を書いては描き、描いては書きと繰り返した。
要点のまとめ方も、イラストの冴えも抜群。
思わず自画自賛したくなる程に出来も良く、壮快な気分だった。
「それじゃあ、この文を…安治川。訳してくれ」
国語の教師がみっちゃんに問いを出したのが、僕の運の尽きだったと言える。
指名されたみっちゃんは起立して……。
「わかりません!!」
ハキハキとした声、底抜けの明るさ、屈託のない笑顔。
この場の空気にそぐわないテンションに、一同唖然とする。
教室内はみっちゃんの発した返事によって、静寂に包まれた。
しかしそれを、まごつきながらも国語教師が破る。
「そう、か。あぁ…古文だもんな!アメリカで日本の古文は習わないし、解らないのも当然か!はっはっはっはっ」
国語教師は豪快に笑った、というよりかは静まりきった空気を変えようと、生徒の笑いを誘うような笑いが教室内に響く。
何名かの生徒が教師の胸の内を察したのか徐々に笑いだし、便乗して「先生、厳しいぞー」「もっと安治川さんに優しくしてー」と言う生徒も現れ、静寂から一変し和やかなムードになった。
教師も「すまんすまん」とムードを壊さない感じの軽い謝罪。
これはみっちゃんの能力的な問題ではなく、国語教師の落ち度だと、教師並びにその他生徒達による、みっちゃんを傷付けない為の処理と言える。
1つでも歯車が噛み合わなければ、大惨事だったこと間違いなしだ。
「だったらここは、安治川に代わって…そうだな……姫島。代わりに訳してくれ」
「……えっ?」
名前が呼ばれた気がした。
いや、確実に呼ばれた。
僕はペンを止めて起立し、教師に従い古文を訳した。
「うん、正解だ。助かった。ならばこの文を…」
そう言って国語教師は、次の生徒を指名しようとする。
僕は席に着いて、再びイラストを描き始めた。
そして現国の授業はつつがなく進む。
どこからどう見ても授業中のありふれた一幕。
これが惨劇の序章だったと、この時の僕はまだ知る由もなかった…。
2時限目、数学の授業。
数学教師が板書をし終えてチョークを置き、僕らの方へ顔を向ける。
僕ら生徒は、次の展開が予測できた。
数学教師は小手調べをしようとしているんだな、という予測が。
小テストとまでは言えないが、黒板に問題が3つ書かれている。
「この問題を前に来て解いて貰いたいんですが…誰にしようかな。では、目が合った相馬くん、辺見さん、最後のは…安治川さんに解いてもらお──」
「わかりません!!」
みんなは僕を見る。
違う、僕が見ている人を見る。
僕の右側に座って…いや、立ち上がって教師の言葉を遮ったみっちゃんを。
数学教師も、黒板の前まで来て誤答するならまだしも、起立して真っ先に、且つ堂々と解らないと言い切られるなんて思いもしなかったのだろう。
唖然とした表情になるのも無理はない。
「あぁ……そうですか。でしたら…姫島くん、お願いします」
「えっ?」
また僕?今日2回目なんですけど?
なんて言えるはずもなく、僕は問題を解きに黒板へ向かう。
その途中、僕は数学の授業中だというのに、ある諺が脳裏に過った。
二度あることは……。
ううん、やめよう。
脳内と言えど、これより先の文字を浮かべてしまえば、現実でそうなりかねない。
僕は無理矢理、相反する諺を頭の中に引っ張り出した。
三度目の正直。
なるならば、こうなって欲しいという願いを込めて。
「はい、みなさん正解ですね。相馬くん、辺見さん、姫島くん、ありがとうございます」
3時限目、英語の授業。
英語教師は教科書を片手に、英文を読み終えると説明を交えて和訳をしていた。
「では、次のページを開いて」
英語教師に従い、教室内ではページをめくる音がまばらに聞こえた。
勿論、僕もその音を発した内の一人。
「では、枠の中に書かれてある英文を読んでもらいたいんだけど…誰に読んでもらおうかしら?」
英語教師の発言により、僕の右手が止まった。
…嫌な予感がする。
まさか…そんな筈は…。
「そうねぇ……安治川さん、お願い出来る?」
僕は何となく分かっていた。
何故ならこの流れ、今日でもう3回目だからだ。
ここまでみっちゃんが狙い撃ちされていると、教師達の陰謀なんじゃないかと思えてきた。
教科書が行き渡ったのだから、その記念に…と。
予想される展開に心労を感じつつも、僕は教科書に目を通す。
枠の中に書かれている英文は、かなりの長文。
三度目にこれは、ちょっと骨が折れそうだ。
英語教師に指名されたみっちゃんは立ち上がり、1時限目と2時限目と同じ言葉を…。
「If it's OK with you...」
言わなかった。
みっちゃんは英文を流暢に読み上げていく。
そうだった……みっちゃんは帰国子女。
これくらいの英文、みっちゃんからすれば朝飯前だろう。
僕の出る幕なんて1ミリも無かった。
1ページの半分にも及ぶ長文の英文を読み終えたみっちゃんに、みんなは「おぉー」と小さく驚嘆の声を上げ、みっちゃんはそれを聞くや否や何事も無かったかのように着席。
驚嘆の声を上げた人の大半は、みっちゃんの本場で培われた発音やイントネーションに対しての反応だと思うが、中には僕と同じく、みっちゃんが帰国子女である事を忘れていた人がいても、おかしくはない。
「読んでくれてありがとう、安治川さん!とても素晴らしかったわ!!」
英語教師は大絶賛。
お手本となる生徒が現れて、英語教師の顔からは喜びが溢れている。
ニッコニコだ。
そして僕も、内心では安堵と共に喜びが溢れていた。
僕が指名されなかった事に。
心の中で僕は叫んだ。
やったぁ!三度目の正直だっ!!
心労も何処かに消え去り、清々しい気分。
天井を取っ払って直で青空を見ているような感じ。
今日はもう、気持ちよく過ごせる気がした。
4時限目、地理の授業。
「わかりません!!」
……………。
「じゃあ、姫島」
二度あることは三度ある…三度目の正直…両方ですか…。
「はい…」
返事をした僕の顔は引きつっていた。
青空は何処へ行ったのやら…。
前の授業で感じた心労が、比べ物にならない程に成長して帰ってきた。
まったく…心労のやつ、去り際に「I'll be back」くらい言ってくれてたら、心の準備をして待っていたのにな…。
それとも僕が聞いてなかっただけ?
知りたくない事は、僕の耳が勝手にシャットアウトしてくれているのかもしれないけど、可能性で考えれば言ってない方が──
いや……言った言ってないの話をすれば、僕の元にいち早く帰ってきて欲しい平穏は、伝言を残してもいなければ置き手紙さえしていない。
音信不通。
はぁ……いつになったら平穏は戻ってくるんだろう。
…と、脳内擬人化劇場を繰り広げている時だった。
旅立っている平穏から着信が一件。
どうやら……当分、こっちには帰ってこないらしい…。
僕の周りでは、ニヤついた顔でひそひそ話をしている生徒がちらほらいた。
各授業で起きた、みっちゃんから僕へのコンボに気付いていたのが僕だけなら良かったのに、現実は非情も非情。
これでまた変な噂が立ってしまうと、悲痛な面持ちで悟った午前中の授業だった。
脚色なしで語り終えると、水雲さんは見た感じ、理解してくれたような雰囲気だったが、鵜久森ちゃんはというと我関せずといった様子で、再び資料整理を続けていた。
けれど、鵜久森ちゃんはしっかりと話を聞いていたらしく、ホッチキスで留めた一束の資料を、鵜久森ちゃんの左手側に積まれてある資料の束の上にそっと置くと、僕に容赦なく斬り込んでくる。
鵜久森ちゃんお得意の、言葉の刃物で。
「よく出来た作り話ですね」
切れ味鋭い一太刀だったが、僕は何一つ嘘を吐いてはいないので、鵜久森ちゃんからの一太刀を往なして反撃へと移る。
「僕の午前中の記憶を、勝手にフィクションにしないで。事実だから」
「いーや、あり得ないでしょ。全教科、先生が違うのに?同じ流れで指名されたのが連続3回?」
「正確には2連続と1回ね」
僕はそっと訂正する。
「いいんですよ、細かい事は。どうせそんなの、作り話にリアリティを持たせる為の小細工でしょ?漫画じゃないんですから起こる訳ありません。サボりたいだけで、こんなバレやすい話作るなんて…考えが水溜まりの底より浅いですね。私でも、もうちょっとマシなこと言いますよ。日直で先生にこき使われたから疲れてるとか、鴻村に話しかけられて気分が悪いとか」
「後者は鵜久森ちゃんだけだと思うよ…?」
前者は日常でも使えそうなものだったが、後者はどう考えても、雅近を一方的に嫌っている鵜久森ちゃんくらいしか使えない言い訳内容だった。
この場に雅近がいれば、鵜久森ちゃんに突っ掛かりもせず「はいはい」と軽くあしらっていただろう。
雅近本人も嫌われているのは自覚していて、鵜久森ちゃんから小言を言われるのも慣れているので、喧嘩が勃発する事態にはそうそうならない。
良くも悪くも雅近は我慢強い。
ちなみに話題に上がった雅近だが、生徒会室に来ていない理由はタイムリーにも、鵜久森ちゃんが言った言い訳の中に出てきている。
雅近は今日、日直当番らしい。
朝にチャットアプリで遅れるとの連絡があった。
鵜久森ちゃんの言い訳同様、こき使われてはいないだろうけども、そろそろ生徒会室に来てもいい時分だ。
「ともかくです。疲れてるからって嘘吐いてまでサボろうとするなんて、生徒の見本であるべき生徒会長として、どうかと思いますね」
鵜久森ちゃんは断固として信じる気は無いようだ。
とは言え…僕も同じ話を誰かに聞いたら、すぐに嘘だと言ってしまいそうなのは確か。
特にこの話を智紘がしようものなら、僕は遠慮も容赦も慈愛もなく反論するだろう。
僕でさえ、こんな事ってあるんだ…と、呆気に取られながら後の時間を過ごしていたんだから、信憑性はとても低い。
鵜久森ちゃんに納得してもらうには、あまりにも決定打が……。
「あの…音寧ちゃん、ちょっといいかしら…?」
と、そこに水雲さんが話に入ってくる。
「今の姫島くんの話、一概に嘘とは言い切れないんじゃないかしら?」
フォローの女神、降臨。
今日だけで何度助けられた事か。
「真澄さん…いくら何でも過保護ですよ。会長がバカで憐れだからって、無理にフォローしなくていいんですからね?」
鵜久森ちゃんは口を開けば、僕を罵倒する言葉が出てくるなぁ。
でも、鵜久森ちゃんからは言われ慣れているし、あんまり響かないんだけどさ。
「別に無理して庇ってなんかないわ。私はただ、全体的に考えて、断言するのはまだ早いというか…難しいなと思っただけよ」
「難しい?あの話を聞いて、どこに信じられる要素があるんですか?」
鵜久森ちゃんは訝しんだ表情で、水雲さんに聞き返した。
「無いわね」
水雲さんは笑顔であっさり断言した…。
さっきの言葉は何だったのか…?
傍観中である僕が絶句していると、鵜久森ちゃんは今にも溜め息をこぼしそうな顔をする。
「でしょう?こんなレベルの低い話で騙されるようじゃ、私は真澄さんの将来が心配になりますよ…少しでも良いんで人を疑うって事をした方が──」
鵜久森ちゃんが言い終わる前に、水雲さんの声が覆い被さる。
「でーも…」
と、鵜久森ちゃんの話を遮った水雲さんは、優しい口調のまま質問形式で反論する。
「この話を嘘とするなら、姫島くんのメリットがあまりにも小さいと思わない?」
「…メリット、ですか?」
表情を見るからに、鵜久森ちゃんの頭上には疑問符が浮かんでいた。
水雲さんは、そんな鵜久森ちゃんを優しく諭す。
「そう。話を聞いただけなら、私も嘘っぽいって思っちゃうわ……でも、それを敢えてここでする意味が無いと思うの。だって姫島くんがこの話をしたのは、私達に冗談を言う為じゃなくて、お仕事をお休みする為だもの」
水雲さんの説明は何一つ間違ってないんだけど、悪い印象を与えないようにと「サボる為」を「お休みする為」に言い換えてくれたお陰か、内容が学校でする作業というよりか、社会人のお仕事みたいなニュアンスが強い気がした。
けれど、ニュアンスがどうであれ考察として説得力があったようで、鵜久森ちゃんはムスッとした表情で口をつぐむ。
「お休みしたいのにお休みできない…メリットを潰してまでするような話じゃないかなって、私は思ったんだけど…どうかしら?」
水雲さんは鵜久森ちゃんに意見を聞いた。
口をへの字にしていた鵜久森ちゃんは、机の角を見つめるように目線を下げる。
「そう言われると、そうかも知れませんけど」
鵜久森ちゃんの態度や話し方を察するに、納得はしていないが状況的に納得せざるを得ない…みたいな空気を感じ取った様子だった。
これは微妙な雰囲気になってもおかしくない展開ではあったが、フォローの女神こと水雲さんが称号に恥じぬ働きをする。
…僕が断りなしで付けた称号なんだけど。
「もう、これくらいの事で拗ねないの。音寧ちゃんからしたら、真相を突き付けられた…みたいな感じなのかもしれないけど、私のこれだって確証は無いし、言ってしまえばただの推論よ?私が言いたかったのは一概に嘘とは言い切れないってだけ。だから機嫌直して」
優しく、優しく、水雲さんが鵜久森ちゃんをなだめる。
水雲さんに苦言を呈する事もある鵜久森ちゃんであっても、生徒会のお母さん的存在である水雲さんには勝てないのか、鵜久森ちゃんは折り合いを見出だした。
「まぁ…嘘か本当かは現状イーブンって所ですかね」
現状も何も事実100%なので、まだ定かじゃないとでも言いたげな鵜久森ちゃんに、訂正するか否か決めかねている僕だが…口振りからして既に話は丸く収まった…と思って良いんだろうか?
んー…これ以上、波風を立てるのも立てられるのも面倒だし、僕は何も言わないでおこう。
触らぬ神に祟りなし、だ。
僕は余計な事をしないように自分の席に戻り、このまましれっと惰眠を貪ろうとした。
すると目線の先…タイミングを見計らったかのように、生徒会室の扉の擦り硝子に人影が映る。
シルエットを見れば一目瞭然。
あれは間違いなく雅近だ。
丁度いい。
残ってる作業は雅近に手伝ってもらって、僕は全力で心労を癒すのに努めよう。
そんな都合の良い思惑が頭に浮かんだと同時に、扉がスライドされる。
扉をスライドする雅近に「お疲れ様」と労いの言葉を掛けようとした。
いや、言葉は半分ほど出てしまっていたのだが途中で失速し、やがて言葉を失った。
雅近の斜め後ろにいた人物が、僕の目に入ったからだ。
涙目になりながら肩を落としている女子。
癒すつもりでいた心労が、腰を上げてウォーミングアップを始める。
そりゃそうだ。
何故なら、そこにいる彼女が心労の原因…人災の張本人なのだから。
午前中の悪夢を招いた僕の幼馴染み。
渦中の転校生、安治川美琴…みっちゃんがそこにいた。
今日の僕に、落ち着く暇は無いらしい。




