5月 月下美人は涙を落とす
私の娘の薫はね、病で10年前に亡くなったの。
28歳。
人生の半分も過ごせずに亡くなってしまったわ。
元々体が弱かったから、あまり自由にはさせてあげられなかったんだけど…。
薫は笑顔を絶やさなかった。
学校も休む事が多くって、小学校も中学校も満足に行かせてあげられなかったのに、それでもあの子は悲しい顔を見せなかった。
私でさえ、薫の泣いた姿を思い出せないんだもの。
体は弱くても、心は誰よりも強い子だったわ。
私なんかより、ずっとね。
だからあんな風になってしまったのかも…。
いえ、今のは独り言。
気にしないで。
月下美人はそんなあの子が好きだった花なの。
だから音寧にとっては、かけがえのない花だと思うわ。
月下美人を育て始めたのも、薫が亡くなるちょっと前でね。
嫌ってほど空が青い、7月の終わりだったわ。
病室のベッドに座りながら薫は「もう一度、月下美人の花が見たい」って、私と音寧にこぼしたの。
あの時の薫の顔は、忘れられないわ。
もう死期を悟った感じ、というのかしら。
私の横にいた音寧も、薫の様子から何かを感じ取ったのかもしれないわね。
病院から家に帰る途中、音寧が突然「お母さんが言ってた花を育てたい」って言い出したのが、月下美人を育てる始まり。
音寧のあんな目を見たのは初めてだったわ。
子供とは思えない真剣な目。
私は迷わなかった。
薫の為に、本気で何かをしようとする音寧の姿に心打たれたの。
私はすぐに月下美人を用意したわ。
近所に伝手があってね、訳を話したら大急ぎで家に運んでくれたのよ。
それから音寧は、花が咲くのをまだかまだかと心待ちにしていたわ。
たぶん、花が咲けば薫の病気が治るって信じてたんだろうね。
月下美人の花を薫に見せれば、元気になって戻ってくるって…。
音寧は花の世話をしながら、健気に月下美人が咲くのを待ち続けた。
でも、願いは叶わなかった。
育ててた月下美人が咲く前に、薫は息を引き取ったの。
花が咲いたのは、葬儀が終わってから一週間後。
通夜と告別式では泣かなかったのに、月下美人が咲いた夜、そこで初めて音寧は涙を見せたわ。
薫の死を理解したのか、もしくは実感したのか…。
どちらにしても、大粒の涙をぽろぽろ落としながら、小さな声で「お母さん…お母さん…」って何度も言ってる音寧は、とても痛ましかった。
私は黙って抱きしめる事しか出来なかったわ。
翌朝、私はいつも通りを装った。
つらい事を次の日に引きずる必要なんて、どこにもないからねぇ。
けれどもそんな簡単な話でもないし、どうなる事かと思ってたの。
音寧が起きてきたのは昼前だった。
起きてきた音寧を見たら、目が少し赤かったわ。
あんだけ泣いて、真っ赤にならなかったのが不思議なくらい。
そんな音寧に、私は普通を装って「おはよう」って声を掛けたの。
そしたら音寧、いきなり「お婆ちゃん、お願いがあるの」って言い出したの。
挨拶はちゃんとする子なのよ?
なのにその日は、いの一番にお願いをしてきたの。
音寧は何て言ったと思う?姫島さん。
ふふっ、分からないわよね。
ちょっと意地悪だったかしら?ごめんなさいねぇ。
あの子ね…「もっともっと、月下美人を育てたい」って言ったの。
それからなのよ。
月下美人の世話を、ずっとするようになったのは。
当時は来年になれば終わるものと思っていたけど、ご覧の通り。
たぶん、音寧には未練になっているんだわ。
薫が亡くなるまでに、月下美人の花を咲かせられなかった事が…。
咲かせられなかったなんて、言い方が変よね。
まるで頑張りさえすれば、どうにかなったみたいな言い方だもの。
こればっかりはどうしようもないわ。
人も花も…どちらも生き物なんだから。
お婆さんが話をしている間、僕は相槌も頷く事もしなかった。
終わり際にされた質問の時は首を傾げる程度。
鵜久森ちゃんの過去を語るお婆さんの横で、僕は聞き手に回っていた。
静観していたのは、僕が口を挟んでいい話じゃないと判断したから。
地雷を踏んでしまったからでもあるけど、それを抜いても根掘り葉掘り聞ける内容じゃない。
正直、僕が聞いて良かったのか?とさえ思えてくる。
少し前まで雑談をしていたとは思えない、ずっしりとした空気。
お陰様で体力は良い具合に回復したけど、それと引き換えに心が落ち着かなくなっていた。
さっきまで感じていた安心感は何処へ行ったのか。
「あらやだ、空気を重くしちゃったわね。ごめんなさい」
やってしまった…みたいな顔をするお婆さん。
「この事は音寧には言わないでね。昔の話をしたのがあの子に知られたら、三日くらい口を利いてもらえないかもしれないわ」
困り気味の顔をしているお婆さんだが、口元は笑みを浮かべている様にも見える。
お婆さんからの発言からして、家庭内ヒエラルキーは鵜久森ちゃんが上なんだろうか?
まぁ、お婆さんに挨拶しに行った時も、鵜久森ちゃんは口止めしてたしなぁ。
というか…喧嘩しても、三日で済むの?
普通に一、二週間は口を利いてもらえなくても可笑しくない内容だし、悪ければ長期間って事もあり得ると思うんだけど…。
もしかしたら、喧嘩を長引かせない秘訣みたいなものがお婆さんにはあるのかも…。
僕の気のせいか、お婆さんから出る空気感のせいかは分からないが、シリアスな雰囲気が徐々に和らいでいった気がした。
話しかけるなら…今が絶好のタイミングだと思う。
少しでも間が空いたら、また空気が重くなるだろうし。
偶然にもお婆さんからトスが上がっている。
ここは、賭けに出よう…。
僕としては、雑談の方へ引き戻したい。
「もしかしてなんですけど、音寧さんには頭が上がらなかったりするんですか…?」
雰囲気が和らいだとはいえ、顔色を窺う様に恐る恐る聞いてみる。
地雷を踏んだ僕にしてみれば、かなり攻めた質問だ。
「うーん、どうだろうねぇ。でも確かに、近頃は音寧に強く出れない事も増えた気がするわ。思春期だけど、私が生きてた時代と今の子とじゃ、思う事も全く違うだろうし」
これが大人の意見か…懐が大きい。
と思った矢先、お婆さんは少し笑みをこぼす。
「単に年老いたから、上がる頭も上がらなくなってるのかも知れないわね」
そう言って笑うお婆さん。
所々挟んでくる年配ジョーク?に、未だ僕は付いていけない。
これは「そうですね」と言えば良いのかな?
………いや、絶対失礼だろ。
「まぁ、どうであれ」
僕が何て返せば良いかを思案してる間に、お婆さんは続けた。
「音寧が元気だったら、それでいいわ」
お婆さんの全てが、その一言に込められてる気がした。
僕は笑みをこぼして言う。
「そうですね」
ジョークには返せなかったが、お婆さんの本心にはちゃんと答えられたと思う。
お婆さんが僕に笑顔を向けてくれる。
やっぱり、お婆さんの笑顔を見てると安心感があるな。
僕には密かに待ち望んでいた安心感に浸りながら、お婆さんと二人して笑顔を向け合ってる…時だった。
「会長、いつまで休憩してるんですかー?そろそろ手伝ってくださいっ」
少し離れた所から、鵜久森ちゃんが僕を呼んでいる。
「ごめん、すぐ行くー」
鵜久森ちゃんに向けて、声を少し張って返事をした。
話し込んだのもあって、ちょっと休憩するつもりが、ガッツリ休憩してしまった。
体を休めた分、頑張らなくては。
「そろそろ行ってきます。お茶、ご馳走さまでした」
立ち上がりながら、僕はお婆さんに向けてお礼を言う。
「お粗末さまでした。大変だろうけど、お願いね」
「はい」
返事をして、月下美人に囲まれている鵜久森ちゃんの元へ駆け出す。
花に囚われている一人の女の子の元へ。




