就寝
すべての準備を整えて私たちはシュラフに潜り込むとヘッドランプの明かりを消した。聞こえるのは近くを流れる川の音と山から吹き降りて来る風の音だけになった。しかし、すぐに眠れるものではなかった。まだ宴会になった夕食の余韻が残っていたし、仲のいい三人がこうして一緒になることもしばらくなかったのですぐに眠ってしまうのが惜しいような気もした。明日のは夜が明ける前に起きる計画になっていたのにである。
「おい、明日のルートは大丈夫なんやろうな」貴洋が誰に尋ねるのでもなく喋りだした。
「大丈夫だろう。ガイドブックに載ってるし、途中までは去年歩いた道を行くんだから」賢一が答えた。
「自信はあるんか」
「自信があるのかと聞かれたら困る。この三人の誰も行ったことのない道だけど、これまでいろんな山でやってきたように注意深く道を探しながら行くしかないだろう」
「それはそうやけど、ここは鈴鹿の山とは違うんやでえ。大台山系の池木屋山なんや。鈴鹿の山よりも山が深い。鈴鹿の山は町から近いし、歩く人も多いし道もはっきりしとる。ここら辺の山は歩いとる人も少ないし、藪も深い。獣道のような道を辿って行かなあかんのやろう。間違わんようにな。それにしてもガイドブックの道、ちゃんとあるんやろうなあ」貴洋は自分の不安を知ってもらいたくて言葉を続けた。しかし、この不安は口に出すのを我慢していただけで私も、そして多分賢一も持っているものだった。
「ここまで来てそんなこと言いだしてもしょうがないだろう。大体、ここら辺の道ときたら頼りないものだろう。分かっていたことさ。それでも登ろうと決めたんだからやるしかないさ。駄目でも行けるところまでは行ってみよう。精一杯やってみて駄目だったら仕方がないだろう。また挑戦したら良い」
「そうよ。ここまで来てそんなこと言ってたら駄目よ。明日はとにかく登るのよ。私は登るつもりで来たんだから」私も口をはさんでしまった。喋るとつい瞼を開いてしまう。テントの中は明かりが無くて真っ暗だったが、外は真っ暗ではないようでテントの生地の色がわかった。
「俺かて勿論、そうや。そやけどなあ」
「そやけど、何なのよ」
「心配やなあ」
「何が心配なのよ」
「ここら辺の山には熊がおるんやろう。熊に会わへんやろなあ」
「ああ、熊か。それはいるだろう」
「それがさ、俺たちが寝てからテントへ来えへんやろなあ。熊って腹をすかしとるんやろう。食い物の臭いには敏感やろうし」
「だから念のためにゴミの袋をテントから離れた木の枝にくくりつけただろう」
「寝とるとこを襲われて食糧をとられたっちゅう話を聞いたことがあるわ」
「熊は来ないさ」賢一は自信ありげに言った。
「本当かいな」
「ああ、この辺りの山で寝ているところを襲われて殺されたなんていう話しなんかここ何年も聞いたこともないし、そんなことがあったらニュースになるだろう」
「そりゃあ、まあ」
「食糧をとられたっていうのは北アルプスかどっかの話だろう。襲われるんじゃないからいいじゃないか。そんな心配は止めて寝た方が良いよ」
「そうよ、熊って割と臆病なんでしょ。わざわざ自分から人の前に姿を現すようなことはしないらしいわよ。熊が人間を襲うのは山の中でバッタリ出会ったりした時なんでしょ。熊の方も怖いから夢中になって襲ってくるんだっていうわよ。でも熊にとっては自己防衛なのよね。熊に出合わないようにするにはこちらの存在を教えてやることね。鈴をリュックサックに付けて歩くとか」
「そやけど、それは歩いとるときのことやろ。寝とるときはどうするんや。風鈴でも吊っとくんか」
「大丈夫だよ。テントのような化学製品の臭いのする物があるのに、食糧をとりには来ないさ」
貴洋は何も言わなくなった。川の流れる音と風の音だけが聞こえるようになった。これで寝られると思ったが、会話はこれだけでは終わらなかった。
「なあ、この前の模擬試験、どうやったあ。俺、全然あかんだわ。俺、三重大でええんやけど、難しいかな。どうやろ、俺、行けそうか」貴洋は小さな声で言った。賢一も私も聞こえないふりをして返事をしないでいた。
「この時期にどんな勉強したらええんやろ。気持ちばっかり焦ってしもて、机に向こても片づけたり、参考書広げたりしとるうちに時間が過ぎてしまうんやけど」貴洋は一人で喋り始めた。
「ちょっと、こんな山の中に来てまで勉強の話しなんか止めてよ。山に浸りこんでいい気分になっているのに。私だって不安よ。この三日間は全く勉強できないのよ」私はちょっときつい口調で言った。そしたら瞼が開いてしまった。
「智子は余裕があるでええわ。ちょっとくらい勉強せえへん日があってもええやろ」
「そんなことある訳ないじゃない。やってないと不安よ、やっぱり」
「いや、余裕はあるやろ。何せ、一年の時から成績良かったもんな。実力テストではいっつも上位に入っとったもんなあ。一体どんな勉強したらそんな成績がとれるんや」
「そんなに言うんなら、こんな所に来なきゃよかったんじゃない。荷物をまとめて、さっさと勉強しに帰ったらどうなの。引き留めはしないわよ、別に」
何のためらいもなく私は思いついたことを言葉にしてしまっていた。貴洋は何も言い返しては来なかった。かなりきついことを言ってしまったとすぐに思ったが、次の言葉は何であっても気まずくなった雰囲気を戻すことはできない。しばらくの間テントの中を沈黙が支配した。この時は川の流れる音さえも聞こえないのではと思えた。ごめんなさい。私は心の中で貴洋に謝った。ここまで言うつもりじゃなかったのに、貴洋が余りにしつこく言うので、つい言い返してしまっていた。本当のところは私も山に登ってなんかいられないくらい勉強については不安だった。帰ったら毎日一時間以上勉強時間を増やさなければならないだろう。この不安はどれだけ勉強してもなくならない。しかし山に登りたい気持ちは不安を横に押しやった。謝る言葉を口にしていないのでその場に気まずい雰囲気が漂った。私は寝返りを打って貴洋に背を向けた。
「智子、今のはちょっときつかったぜ」賢一が口を開いた。
「誰だって不安なんだよ。怖いんだ。当たり前のことだけど、この三人の誰もまだ大学受験を経験したことがないんだぜ。貴洋の気持ちも分かってやれよ」
私は何も言わずにシュラフの中で身体を小さくした。
「本当のことを言えば、この時期には山登りなんかするべきじゃないと思う。受験に対する不安を消そうと思うんなら勉強するしかないもんな。しかし、ここまで来てしまった以上、勉強の話しをするのは止めよう。覚悟を決めたんだ。明日山に登ることだけを考えよう」
「ごめんなさいね。つい、きついこと言っちゃって。謝るわ」私は賢一のすぐ後に続けて言った。
「ええわ、謝らんでも。弱音を吐いた俺が悪かったんや。ここまで来たんや。高校生活に悔いを残さんために来たんや。池木屋山に登れたら、例え浪人するようなことになっても悔いは残らんと思うわ。明日は絶対に登るでぇ。今は勉強のことは忘れるわ」
「そうさ、明日は頑張ろうぜ。汗をかきながら夢中になって山を登っていたら、景色も見ないで登ることしか考えてないもんな。他のことを考えなくて没頭できるから俺は山がすきなのさ」
「私も同じ。山は夢中になれるもんね」
貴洋はしばらくの間黙っていたが、もう寝るのかと思った頃にまた喋りだした。
「今日ここへ来て本当に良かったわ。絶対に後悔はせえへん。明日はやるでえ。そやけど、明日の天気、どうやろう」貴洋はごそごそしていたかと思うとシュラフから上半身だけを出して器用に芋虫のように移動した。テントの入口から頭だけを出した。冷たい外の風が入って来て頬を撫でた。
「おい、ええ天気や。いつの間にか星がいっぱいや。もう、星座なんか分からへんくらい星だらけや。雲なんかあらへんでえ。明日はええ天気間違いなしや」
お花を摘むときに見上げた空とは違っているようだった。空は短い時間の間に姿を変えた。私も満天の星を見たかったが、温まった身体をシュラフから抜けださせるには怠惰な心の方が少しだけ勝っていた。賢一は貴洋の報告だけで満足しているようだった。動こうとする気配さえも感じられなかった。「そやけど、学校から電話、かかってきとらへんやろなあ。今日は連絡せんと休んでしもたんやけど」シュラフに潜ると貴洋はまた別のことを喋りだした。
「二人とも今日休むことを学校に連絡しといたか。何か適当な理由言うて」
いい加減にして眠ってほしかった。
「一応連絡はしておいたわよ、朝早いうちにね。事務の人が出たので、気分が悪いので休みますって伝えてくださいって言っといたわ。七時前なら先生はまだ学校に来ていないと思って」返事をしておかないと貴洋が納得して眠らないような気がした。
「へえ、さすがは智子や。うまいことやったな。ところで賢一はどうした」
「俺か。俺は家の人に連絡してもらったよ。風邪で休みますって嘘をついてもらうのでちょっと頼みにくかったけれどな」
「本当か、二人ともしっかりしとるなあ。俺は何も連絡せんだわ。先生から家に電話が入ったりするとまずいなあ。多分お袋はうまいことごまかしてくれると思うんやけど」
「だけど、お前のところの担任だったら大丈夫じゃないのか。あの先生、いちいち欠席の理由を聞くために生徒の家に電話しないって聞いたことがあるぜ。まして今日は文化祭だろう。きちんと出席がとれるかなあ。割と適当だろう。文化祭で教室は使ってるし、何処で出席をとるんだ。去年も適当だったし、そんなものだろう」
「ごちゃごちゃの状態ではきちんと出席はとれへんなあ。一人や二人休んどっても分からんかも知れん」
「いいんじゃないか、それほど気にしなくても」しばらく間を置いてから賢一は小さな声で言った。
「そうやな」貴洋は力のない声で答えた。
その後は誰も声を出さなくなった。目を閉じているとまだバスに乗って揺られているような感触があった。つり革につかまって立っている時間が長かったので、足腰は疲れていた。身体の力を抜いていくと地面が揺れているんじゃないかと思える。シュラフの中は結構暖かくなった。地面の凹凸が無ければいい寝床だ。じっとしていると眠りに落ちた。 深夜になって日付が変わっていたかも知れない。フライシートのはためく音がした。テントの壁面もばたばたと音をたてて揺れている。風が強くなったようだ。私は眠りから覚まされた。といっても頭は半分以上眠った状態だった。風の吹く音や川の流れる音が聞こえる。自分が人家から離れた鳥居もなく小さな祠があるだけの神社でもないような広場に張ったテントの中に寝ていたことを思い出した。何時なのだろうと思ったが、シュラフに入っていると腕を出してまで腕時計を見る気にはならなかった。両隣の二人は眠ったままのようだ。またフライーシートのはためく音がした。再びすぐに眠りに入るのは難しい。朦朧としていた意識が徐々にはっきりとしてきた。神経が外の音に敏感になった。川の流れる音がはっきりと聞こえる。山の上から谷を通って風が吹き降りてくる。木々の枝を揺さぶる。フライシートのはためく音がする。シュラフに横たわっているとそれらに混じってまったく別の音が聞こえてきた。微かだが、茂みをゆっくりと掻き分ける音、落ちている小枝や枯葉を踏む音が聞こえた。何かが歩いているのだ。テントの近くに来た。獣のようだ。大きい獣か、小さい獣か。数は。足音を聞いているとどうも単独のようだ。しかし、何なんだろう。大きさは分からない。狐や狸くらいならいいけど、まさか熊ではないだろうか。熊が食い物を求めて山から降りてきたのか。熊だとしたらどうなるのか。神様、助けて。私は大きな不安に包まれた。
熊がテントに前足をかける。テントはビリビリに破れてシュラフに入っている私たちは逃げることもできず、熊に嬲り殺しの目に遭う。熊は食糧を平らげて山に帰っていく。負傷した私たちは助けを求めることさえできずに横たわったままで朝を迎える。翌朝、川の対岸を通った人に発見されるまで露を浴びて転がっている。頭の中には考えたくないこと―ー最悪のシナリオ―ーが次々に浮かんでくる。私は隣に寝ている二人を起こそうとした。しかし、声を出したり下手に動いて物音をたてたりすると外にいる動物を刺激することになりそうで身体を動かすことはできなかった。
もう家に帰れないかも知れない。こんな所で死ぬなんて絶対に嫌だ。でも何でこんな所へ来てしまったんだろう。止めとけば良かった。バスから降りた直後の足が地に着かないような感触はこのことを予言していたのだろうか。計画を立てるだけだったら、浮き浮きした気分でいられたのに。おとなしく家で勉強していれば良かった。
熊に襲われる時の身体の痛みを想像すると動悸は速くなった。最初にやられるのは外側に寝ている賢一か、貴洋か。誰がやられるにしても私は身体がすくんで動けないに違いない。胸の中で心臓がこれまで経験したことのないような速く強い鼓動を打ち始めた。今にも胸郭を破って飛び出してきそうな勢いだった。この鼓動が外にいる動物に聞こえることをおそれたが、心臓の鼓動は遅くはならなかった。
足音ははっきりと聞こえるようになった。テントの周りをゆっくりと歩き始めた。時々立ち止まっては臭いを嗅いでいるのもはっきりと分かった。この状況でも両隣の二人は眠ったままだった。私も眠っていたい。眠っていたらこのような恐怖を味合わなくてもすむのに。どちらか一人にでも気がついてほしかった。私はどきどきしながらも祈った。
突然風の音が大きくなった。落ち葉も、枯れ枝も、砂利や小石さえも飛ばしてしまいそうなくらい強い風が吹いた。フライシートが千切れそうなくらいはためいている。ペグはちゃんと打ってあるのだろうかと不安になる。テントも飛ばされるかも知れないくらいに全体が揺れている。テントが倒されることはないだろうか。風は休むことなく吹いている。パチパチと砂粒や小枝がテントに当たる音がする。
テントの周りを歩いていた獣の足音が聞こえなくなった。強い風の音が足音を聞こえなくした。私は耳に神経を集中させた。獣はまだテントの近くにいるのだろうか、それとも山へ帰ったのか。風はなかなかやまない。強い風がテントの傍にいる獣を吹き飛ばしてくれたらと思った。
どれくらいの時間が過ぎたのかは分からない。明日池木屋山に登ることを考えると少しでも眠っておきたかった。恐怖で心臓がどきどきして眠れないと思っていたが、不思議と眠くなってきた。獣はまだ近くにいるかも知れない。いつ襲ってくるか分からない。しかし、眠くなったし、もうどうでも良くなった。襲ってくるなら襲ったらいい。襲われたってどうせ逃げることはできない。風の音がそれほど気にならなくなった。




