勇者誕生(1)
永遠に続く漆黒を流れに任せて落ちていく。意識は常に朧気で、時間という概念から隔離されたこの場所では自己の認識さえ曖昧だ。確かなのはこれが悪夢だということ。救いなんてどこにもない、絶望で塗り固められた中をただただ沈んでいくだけ。けれど時折、ふと自分が何かを握っている事に気が付くのだ。硬い拳で握りしめたそれはいつかの記憶を思い出させ×××の後悔をより一層深くさせる。悲しく哀れでそれでもなお愛おしい過去を未練がましく握り続けている。
『×××!』
いつになったらそこに辿り着くのか。どれだけ沈めば君の元へ帰れるのか。
『×××早く起きて』『×××どう思う?』『待ってよ×××!』『×××』『×××は本当にだらしないんだから』『×××』『いつも×××ばっかり』『×××!』『×××すごーい!』『×××は大人になったら何になりたい?』『×××のバカ』『×××!早くしないと置いてっちゃうよ』『どうして』『×××、似合うかな?』『×××のいじわる』『行かないで』『×××なんて大っ嫌い!』『ねぇ×××』
『私ね、×××のこと大好きだよ。』
君とただ一つの未来を歩んでいると思っていたのに。
僕は私は俺はどこで道を間違えたのだろう。
―― 転生できない勇者様 ――
朝日の眩しさに布団をかぶりなおすと遠くから鐘の音が響いてきた。とっくに起床時間は過ぎているが寝不足の体はちっとも言うことを聞かない。今日は村の裏側に新しく作ることになった畑の開墾の手伝いがある。寝坊で遅刻、なんてことはできないとわかってるけどあと五分でいい。もうひと眠りしたい。そうやって抗いがたい誘惑と葛藤しているとドタバタと耳障りな足音が近づいてくる。足音はノックもなしに部屋に入ると溜息をつきながら俺の親愛なる布団を容赦なくはぎ取った。
「ルクス!さっさと起きなさい!」
「ちっ、朝からうるさいなぁ。」
「『うるさいなぁ』じゃないわよ!今日は開墾の手伝いでしょう!ほら、さっさと支度する!」
ココ姉にベッドを追い出されて渋々朝の支度を始める。二日ぶりの朝食はいつもの噛み切れないほど固いパンひとつと芋のスープ少々。これっぽっちしか食べていないのによくあんな大声が出せるものだと思う。先月から始まった開墾がうまくいっても作物の殆どは年貢として国に持っていかれてしまう。名も名乗らなかった兵士曰く、いつ起こると知れない戦のための備蓄だと悪びれもなく(寧ろ誇らしげに)語っていた。家格のあるお人の価値観では、今日喰うものに困っている寒村民よりも相手もわからない未来の戦争に備えることの方が優先されるらしい。
味のしないスープの残りを一気に飲み干して鍬を手に持つ。俺のシーツを抱えたココ姉が、三つ編みに結った栗毛を揺らしながらひょっこり顔を出した。髪と同じ色の瞳が優しく笑う。
「いってらっしゃい。」
「ん。」
笑顔に後押しされて家を出ると幼なじみのダンに出くわした。
「おはようルクス、今朝もココに起こされてただろ。お前ん家は賑やかでいいな。うちの親なんて来年の年貢のことで喧嘩ばっかりだよ。」
「喧嘩も面倒だけど、毎日あぁ口煩くちゃウンザリするよ。」
俺の言葉を聞いたダンは「相変わらず素直じゃないなぁ。」と笑う。村一番の優男ダン。艶のある金髪と屈託のない笑顔で村の婆さん達から『理想の孫』として人気だ。そして驚くことにダンはココ姉に気があるらしい。俺よりいくらか年上で年齢的にもココ姉とぴったりかもしれない。でも
「ダンを兄貴なんて呼びたくねぇなぁ。」
「ルクス!こんな往来で恥ずかしいことを言うなよ!それに気が早いって。まだ…告白もできてないのに。」
「これに気がつかないって、ココ姉どんだけ鈍いんだよ。」
村の誰がどう見てもダンがココに片想いをしてるのは明らかで、隠しているつもりがあったのかと突っ込みをいれたい。しかもダンが頬を赤らめたものだから口から砂を吐きそうになる。
俺と一緒に暮らしているココ姉は正確には俺の従姉にあたる。俺がまだ物心つく前に叔父叔母が流行病で亡くなり見かねた俺の両親がココ姉を引き取ってきたと聞いてる。ほどなくして俺の両親も事故で他界したが、それからはココ姉が親みたいなものだった。なんであんなに気の強い女がいいんだ、なんてボンヤリと考えているとダンが少し声量を落として聞いてきた。
「なぁ、魔王が復活するかもって噂知ってるか?」
「は?」
このバルク国で魔王と言えば、三百年前 勇者達によって大陸のどこかに封印されたと言い伝えられている魔帝ディルクバーレのことしかない。
「親父に着いて街へ行った時に噂してる人達がいたんだ。なんでも南の方の森で獣が魔獣化してる場所があるらしい。」
「魔獣化なんて森の側に暮らしてれば大抵の村が抱えてる問題だろ。うちの森だって半年に一頭くらい出るじゃないか。」
「うちのは魔獣化した動物が暴れ狂うくらいだろ?巻き込まれて運悪く亡くなる人もいるけど…。そうじゃなくて、普段の魔獣よりもっと凶暴らしい。」
「それ今までの、暴れまわって畑荒らして家壊す魔獣とどうちがうんだ?」
「さぁ?とにかく死人が出るくらい凶暴なんだって話だ。それで街では魔王復活の噂が囁かれてるんだってさ。だから年貢の量が増えたんじゃないかって。」
「ふーん。魔王復活ねぇ。」
興味を示さない俺にダンは煮え切らない表情でこちらをみている。正直なところ魔獣に殺されることと餓え死ぬことの違いがよくわからない。少なくとも魔王復活の噂が大陸に広まる頃にはこの村の何割かは餓死か衰弱死しているだろう。その意味では理不尽な年貢を要求する国も、瘴気で魔獣を産みだす魔王も対して変わらない気がするのだった。
畑に到着すると村の殆どの男手が集まっていた。新しい開墾地は木を伐採して切り開き、既に獣除けの柵が設置されている。今日から始めるのは木の根や岩の掘り起こしと、魔獣対策の岩塀を柵の外周に作っていく作業だ。俺はダンと別の班に分けられて掘り起こしを行うことになった。普段から肉体労働に慣れているとはいえ、満足に食べられていない状態ではかなりキツイ。太陽が真上に上った頃に一度休憩があったが作業は日が暮れるまで続いた。
柵内での作業が始まって三日目。その日も視界が悪くなってきた頃にようやく解散となりダンと帰路につく。周囲に人気が無いことを確認して俺は口を開いた。
「ダン俺はもう限界だよ。」
「ルクス?」
「明日森に入ろうと思う。」
「解禁日しか森に入ってはいけない決まりだろう!」
「少し森に入れば魚も釣れるし木の実だって採れる!運が良ければ獣だって...。このまま畑が完成したって殆どは年貢に持ってかれるんだ。その頃には何人が死ぬと思う?」
「腹が満たされないのはお前だけじゃない、村の皆も我慢してるんだ。」
「柵の外に出れば食料があるのに、それを知りながら死んでいけって言うのか?ダン、俺はそんなの納得できない。少なくともココ姉には飢え死になんてさせられないよ。」
「魔獣が出るかもしれないんだぞ。お前に何かあったらココはどう思う?」
「でも!」
ダンは周囲を警戒するように目を配ると俺の両肩を掴みながら語気を強めて言った。
「とにかく、この話は忘れてやるからもう少し冷静に考えろ。」
家に帰れば少しやつれたココ姉が「おかえり」と言いながら、ふかし芋の団子とヤギのミルクを出してくれた。確かこれは家にある最後のミルクのはずだ。それにココ姉の分の団子が明らかに少ない。俺の視線に気がついたのかココ姉は明るく振る舞う。
「ほら、料理しながら味見してるとお腹いっぱいになっちゃうのよ。ルクスは体を使って疲れてるんだから、ちゃんと食べて。」
無理のある言い訳に食卓の会話は弾まない。自室に戻っても体の疲労感とは反対に頭は考えることを止められなかった。原因は空腹だけじゃない。目の前に食料があるのになぜ皆は手をこまねいているのだろう。二の句には『しきたり』というけれど命より大切なものがあるわけがない。
考えれば考える程に森へ入るしかないという俺の決意が固くなった。