心臓すらも君に捧ぐ
その壁は、少年少女にはあまりに高かった。
彼らが触れ合うことはなかった。ただ、彼らは言葉を交わすことは出来た。
少女は、いつも泣いていた。もう嫌だ、と有り余る思いを壁の向こうの少年にぶつけていた。少年は、ただ聞いていた。王城の脇にある大きなイチョウの木の根元に腰かけ、風で揺れる葉の音や虫の鳴き声と共に、少女の言葉を聞いていた。
少女が一方的に話し、少年は一言二言感想を言う。約十分ほど話すと、少年は脇に置いてあったバイオリンをあごと肩ではさみ、おもむろに弾き始めた。曲目は、アメイジング・グレイス。少年が唯一弾くことのできる曲だった。少女は眼を閉じ、バイオリンから出る一音一音に聞き入った。身分に、地位に縛り付けられた生活とは切り離された娯楽としての音楽は、少女の陰鬱な気分を多少なり和らげていた。
曲が終わると少女は、「ありがとう、また明日」と言って壁から離れていった。少年もバイオリンをケースに入れると、この場を後にした。夕陽は、煌々と王城を囲む白い壁を照らしていた。
姿形はわからない。声だけのコミュニケーション。それでも彼らにとっては、かけがえのない時間だった。
とある日。少女はいつもより早く話を切り上げた。少年は不思議に思ったが、バイオリンをケースから取り出すと、いつも通りアメイジング・グレイスを弾き始めた。
少年は弾きながら、少女のことを考える。今日の彼女は、声のトーンが少し低かった。いつもより元気がないように感じた。でも、確証はない。声だけで判断できることなんて、たかが知れてる。
少年は、歯痒かった。顔を見ることが出来ない、目の前にそびえる高い壁が。何より彼女の近くに行けない自分が憎かった。
弾き終わると、少年は「何かあった?」と、少女に聞いた。いくばくかの空白の後、少女は答えた。明日からはこの場に来ることができない、と。少女の声は震えていて、ひどく弱々しかった。少女自身の意思ではないことは明白だった。
だが、少女にはその決定に対抗できるほどの力はなかった。それは少年も同じで、彼らはまだ幼く、非力だった。少女の言葉に、少年は無言でただこぶしを強く握り続けた。
少女は、少年が無言でいることに安堵した。彼も私と同じ気持ちであることが嬉しかった。だから少女は、零れ落ちそうになる涙を堪えて、いつもと同じ声色で少年にさよならを告げた。それは、少女の決意の表れでもあり、残酷な優しさでもあった。
一歩、二歩と少女は壁から離れていく。
「待ってくれ!」
少年は、今まで出したこともないような大声で、少女を呼び止める。
しかし、続く言葉が出てこない。白い壁は、その場しのぎの安易な発言を許さないと言わんばかりに、目の前に大きく立ち塞がっていた。少年は、心を喉元まで持ってきて、口から吐き出した。
「今度は、壁のないところで会おう」
「……待ってるから」
少女の眼からは無数の涙が流れていた。温かな風は、少女を慰めるように優しく包み込んだ。
―――――――――――――――
十五年後。エメリウス王国、首都ザイン。
「姉ちゃん。酒とあと適当につまみ持ってきて」
男の言葉に、店員の女性は元気に応えながら、別の席に料理を運んでいく。
首都ザインの中心部に位置するこの酒場は、普段よりもはるかに活気づいていた。民の生活が急に豊かになった訳ではない。つい三日前に起きた、エラリス王の死が原因である。
エラリス王は、大体の人にとって良き王だった。先代までは軍事国であったが、エラリス王になってからは商業に重きを置き、他国とも友好的な関係を築いていた。民の生活も以前よりはるかに豊かになり、ほとんどの人がエラリス王を愛していた。
そのエラリス王が死んだ。民は悲しんだが、それ以上に誰が殺したのかに関心が集まった。王は暗殺された。犯人はいまだ捕まっていない。
あれほどまで愛されていた王が、一体誰に……?この問いに関して、民は酒場で語らっていた。時に、エメリス王を懐かしみ、悼みながら。
犯人は、エラリス王になってから職を追われた傭兵ではないかというのが、大方の予想だった。だが先日、王国より王暗殺の犯人が発表された。犯人は、一人娘のエリーゼ。一刻も早く王女になるための犯行であった、と紙面には書かれていた。
この発表に、民は大いに嘆いた。
早くに妻を亡くしたエラリス王が、最も深く愛していたのがエリーゼだった。その愛情は行き過ぎることもあってか、エリーゼが民の前に姿を現すことはほとんどなかったが、その代わりに王はエリーゼの素晴らしさを民に聞かせていた。あまりの親ばか具合に民衆も呆れていたが、その愛情はよく伝わっていた。
「エリーゼ様がエラリス王を殺したなんて、信じられん」
「夢であってくれ」
と、悲しむしかなかった。民衆にとって王城は雲の上の存在で、内部事情を知るものはいなく、犯人がエリーゼであることを疑う人はいなかった。
一部を除いて。
「エリーゼ様が犯人ね~。そんな訳ないだろ」
乱雑に顎に生えたひげ、ボサボサな髪はまるで手入れされておらず、清潔感はまるでない。カウンターの隅に座る男は、大柄な身体を丸めてちびちびと酒を飲んでいた。
「その話、詳しく聞かせてもらえますか?」
宙をさまよっていた言葉を受け取られ、ひげの男は隣を見る。隣に座った青年は、さわやかな笑顔で男を見た。きれいな肌に、大きな眼。おしゃれにセットされた茶色い髪は、小柄で端正な顔立ちの青年に良く映えた。
二人はまるで対局だった。膝まである紺のロングカーディガンに薄い橙色のテザードパンツは青年に清潔感を与え、薄汚れた七分丈のジーパンに白のタンクトップの男には不潔さを感じる。
「何だ、お前は」
男は青年を怪訝そうに見た。酔っぱらった奴らが悪がらみしてくることはあっても、素面の状態で男に話しかけてくる人は滅多にいない。丸太のような腕に、太く筋肉質なふくらはぎ。縦にも横にも大きな肉体を持つ男は威圧感に満ち溢れていた。
男自身もそれを分かっていた。ゆえに青年の行動は不可解であったが、男はすぐに考えることを中断した。酒の席で余計な勘繰りは必要ないというのが男の考えで、それ以上に話しかけられたことが男は嬉しかった。
得意げに男は語りだす。
「王の座を奪いたくて殺したというのが王城が出した見解らしいがな、それは考えにくい。なぜなら、王が死んだ後は一人娘であるエリーゼ様が王女になることは決まっていた。わざわざリスクを冒す必要性があるとは思えない。動機で考えるなら、もっと得をする奴がいる」
「では、真犯人は他にいると?」
青年は、優しい笑顔を浮かべたまま男に問いかける。答えが気になるという風ではなかった。男を持ち上げるように、流れに沿った言葉を青年は与える。
「次に王になる奴が犯人さ」
男は気をよくして、酒を飲むスピードも速まる。
「だって、そうだろ?王を殺し、エリーゼ様も死ぬことによって最も喜ぶのは、次期国王だ。更に言えば、そいつのバックにはエラウス王を恨む傭兵たちが控えているだろう。王の警護を掻い潜って、犯行に及ぶのはプロの仕業だ」
「確かに。言われてみればそうですね」
青年は軽く頷きながら言う。
男はその様子を見ると、グラスに半分ほど残っていた酒を一気に飲み干しテーブルに叩きつけると、青年を睨みつける。
「で、アンタの目的は何だ?」
わずかに怒りを帯びた声は、真っすぐに青年のもとに届く。男の酔いはとうに冷めていたが、青年の存在が彼を熱くさせていた。
一見、ただの好青年。だが、話せば話すほど底が見えない。見えないものは暴きたくなる。何よりも男にとっては、舐められているような青年の言動に腹立たしさが募っていた。
「そんな、怒らないでくださいよ」
青年はなおも軽い口調で手を横に振る。
「依頼をするために来ただけですよ。二刀の殺し屋、バラック・オークラスさん」
先ほどまでと変わらず、何でもないように青年は言った。
喧騒に包まれる酒場に紛れて消えていく。何でもない一風景。それでもこの場には異様な雰囲気が漂っていた。
「へえ、アンタやっぱり普通じゃないのか」
バラックはわずかに口角を上げた。
青年の異様さはいまだわからないままだが、少なくとも自身と同種の人間であることは彼に安堵を与えた。また、平和すぎるエメリウス王国で殺し屋バラックが必要とされることはほとんどなかったこともあり、彼の心拍数は速まっていた。
「で、対象は?」
バラックの問いに、青年は軽く息を吸った。
「次期国王です」
「はあ!?」
バラックは酒場に響き渡る大声を上げた。酒場に来ていた人たちの注目が集まり、一瞬の静寂がおとずれる。が、すぐに皆目の前の酒を口に運ぶ。酒の席であることが幸いして、関心はすぐに薄れた。
バラックは大きなため息をついた。そして思案する。とんでもないことに手を出そうとしているのではないか、今ならまだ戻ることが出来るのではないか、と。
あり得ない。バラックはその考えを却下する。殺し屋が対象を聞いて怖気づくなんてことは、あってはならない。昔の彼ならそんなことを考えることもなかった。平和な国にいる中で、自信の刃も錆びてきたのかもしれない。バラックは、自身の温さに小さく舌打ちをした。
しかし、同時に湧き上がる感情があることも事実だった。
「いや、待て。次期国王と言っても、まだ決まってないだろ?」
「そうですね、でも時期に決まります。名前は、サーフィル・ギュンドガン。エラリス王の側近を務めている方です」
「お前……何者だよ、ほんと」
バラックは呆れ半分、関心半分の表情で青年を見た。青年の風貌は、王族と関わりのあるような人には見えず、かといって裏の世界の人にも見えない。群衆に紛れると見失ってしまうような、そんな人に見えた。 噛み合わない、バラックはそう感じた。見た目のイメージと言動がまるで合わない。話していても青年がどんな人間か、バラックはまだ掴めないでいた。
「まあいい。依頼は受けるぜ。国王殺しなんて、最高にそそるしな」
「ありがとうございます!」
青年は爽やかな笑顔で嬉しそうに答えた。バラックはそんな青年を遮るように、話を進める。
「笑顔にしてるとこ悪いがこっちも商売なんでね、報酬は払ってもらう。対象が国王ってことを考慮すると、一億は欲しい」
「一億エルですか……」
「高額だとは思わないでくれよ。こっちも命を懸けるんだ」
一億エルという金額は、そう簡単に出せる金額ではない。エメリウス国の民は、一部の富裕層を除いて、ほとんどの人が払うことのできない金額だ。
しかし、青年は思案することもせず了承の返事をした。
バラックはすぐに声を上げる。
「おい、本当に払えるのか?適当言ってるんじゃあないだろうな」
「問題ないです。現金ではさすがにないですけど、それに代わるものはあるので。後払いにはなりますけど」
「そのブツを見せてもらうことは出来るか?」
バラックはまだ懐疑の念を持っていた。彼に殺しの依頼をしてくる人は、ガチャガチャと宝石を身体中に身に着けている人や、身体に穴の開いたどう見ても堅気ではない人で、そのほとんどが報酬金に関して心配なさそうな人たちだった。たまに金のあてもなく依頼をする人がいて報酬金を渡さず、逃げる輩がいた。バラックの場合、見つけ出して殺してしまうのだが。
殺し屋にとって報酬金は、とても価値あるものだ。報酬金があることで、殺しに意味が生まれる。殺しはするが、無意味な殺しはしない。それがバラックなりのプライドだった。
「見せることはできないんですけど、どんなものか教えることは出来ます」
青年はにこやかに言うと、右手を左胸に持ってくる。
「ぼくの心臓です」
バラックは血の気が引いていくのを感じた。それはほとんど狂気だった。
「あっ、安心してください。ちゃんと一億エルで買ってくれる人は見つけてあるので」
青年は変わらず、話し続けた。
酒場にいる誰も、青年の発言に驚かない。あまりに自然すぎて、そこに違和を感じる者はいなかった。
バラックは、震えていた。青年が変わらないことに。それ以上に、これから起こるであろう出来事への楽しみで、彼の身体は震えていた。殺し屋という常軌を逸した仕事をしている中で、自身よりも異常な人間がいたことに彼は興奮していた。
「狂気の沙汰ほど面白い、ってな。
いいぜ、了解した。……最後に、国王殺しの理由を教えてもらってもいいか?」
「……約束を守るためです」
「えっ?」
青年は、懐かしむように物憂げな表情を浮かべた。今日初めて見る影を帯びた顔にバラックは驚いた。が、すぐに青年は笑顔で言った。
「一度言った言葉を曲げるのは、男らしくないじゃないですか」
「違いない」
バラックは大声で笑った。青年の言葉は何一つ中身を得なかったが、それでも彼の中の青臭い部分が見えた気がした。ほんの少し、彼のことを知れたようにバラックは感じた。
「そういえば、アンタ名前は?」
「ツバキ。ツバキ・エインズワースです」
「そうか。ツバキ、よろしくな」
バラックは立ち上がると、右手を前に出した。
「よろしくお願いします、バラックさん」
二人は、がっちりと固い握手をした。