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煌鋒の勇者  作者: サケ/坂石遊作
一章『覚醒』
8/22

剣無しのアジナ(7)

 運命を呪わない日はない。

 アジナ=ウェムクリアにとって、日々とは絶望の繰り返しだった。

 これが、ただの人間ならば良かったのだろう。苛烈な争いとは程遠い、平々凡々とした毎日を謳歌するだけの人生。限られた環境でも、特別な力などなくても、それなりの幸せがあるに違いない。


 けれど、アジナは勇者だった。

 勇者として、生まれた。この事実が、アジナに重圧を背負わせる。予てより強大な力を宿すとされている勇者には、人類に仇なす敵の討伐を、暗黙の了解として義務付けられていた。勿論、法的な拘束力はない。しかし、通常の人間が対処できなければ、一体、誰が対処するのか。――困り果てた人類が頼る先は、一つしかなかった。

 それに、勇者も決して、否定的ではなかった。

 彼らにとっての日常とは、争いの中にある。何かを護り、或いは何かを殺す。その連続の中に、勇者は幸福を見出すことができる人種だ。ゆえに、勇者に属さない大多数の人類は、彼らのことを陰でこう呼んでいた。――戦闘狂、と。

 平凡な日常は許されない。勇者には、勇者の日常がある。


「……くそっ」


 目を覚ましたアジナは、すぐに自分が保健室のベッドに寝ていることに気がついた。模擬戦での敗北も、その後はこうして保健室で横たわっているのも、全て経験済み。その経験の連鎖から逃れたことは、一度もない。結局、何もかもが普段通りだった。

 戦いの中に生きる種族にとって、戦う力とは必要不可欠の存在だ。

 力、なんて表現すれば、曖昧に感じるかもしれない。しかし、時代や周囲の環境が、それが曖昧であることを許さない。少なくともこの学校では、戦う力とは、敵を退けるための力だった。そして、誰しもが無意識の内に、こんな固定概念を有している。――戦う力とは、聖剣ありきのモノなのだと。

 その固定概念から、アジナは逸脱していた。

 だから周りは思う。アジナには戦う力がないのだと。それを否定する者はおらず、それを肯定する者は数えきれないほど、存在した。ともすれば、アジナも当然のように、同等の考えを持たざるを得なかった。


「……才能ないのかなぁ」


 真っ白な天井に、放った弱音が吸い込まれる。

 服の上から、胸元を探った。目的である宝石を摘み、その表面を優しく撫でる。アジナにとって、この宝石は過去の結晶だ。辛い時も、苦しい時も、これが傍にあった。それだけに、これを眺めていると決意が再燃する。過去を肯定してくれるその石は、現在の弱い自分にとって、唯一、頼れる存在だった。


「起きないと」


 壁にかけられた時計を見て、時刻を確認する。既に放課後だ。随分と長い間、眠っていたらしいが……それもまた、普段通り。きっと今頃寮の自室では、ジックが額に青筋を立てつつ、胡座をかいているのだろう。


 ベッドから半身を持ち上げ、辺りを見渡す。ここの管理者は、今は不在のようだ。

 その時、部屋の扉からノックの音がする。一瞬、返事をしようか迷ったアジナだが、ここは保健室であって、自分の部屋ではないことを思い出した。

 そのまま黙っていると、やがてゆっくりと扉が開かれた。


「失礼します」


 綺麗な声がする。やや高めだが、落ち着きのある声色だ。声だけで判断するのはあまりよろしくないかもしれないが、理知的な印象を抱く。

 しかし、妙な違和感を覚えたアジナは、首を傾げながら扉の方を見た。

 直後、違和感の正体に気づく。


「……え?」

「……あ」


 疑問の声を上げるアジナに、その少女もまた、言葉にならない声を発した。

 肩まで伸びる銀色の髪に、宝石のような赤紫の瞳。雪のように白い肌をした彼女を、アジナはつい最近、見たことがあった。


「確か、あの時の……」


 一瞬の内に想起した記憶に、アジナは思わず人差し指を少女に向けるが、すぐに失礼な行為だと気づき、指を戻した。

 間違いない。昨日、路地裏で助けた女の子だ。


「どうして、ここに……」


 疑問を発しながら、アジナはその少女を見据える。少し照れくさそうに顔を逸らした少女は、ゼリアスの学生服を着用していた。それだけで、疑問は氷塊する。


「そうか。ここの、生徒だったのか」


 冷静に考えれば別段珍しいことではない。ただ、先日出会ったばかりの子と今日再会するとは、流石に予想できなかった。それに、制服から察するに、学年もアジナと同じだろう。……その小さな見た目から、初等部の高学年くらいだろう、と推測していたアジナにとっては、尚更に驚愕すべき事実だった。


「え、えぇと、その。……お、お久しぶり、です」

「あぁ、うん。久しぶり。敬語はいいよ、同じ学年なんだろ」

「そ、そうね。気を付けるわ」


 妙にソワソワする少女に、アジナは小さく首を傾げた。先日は不良に襲われたショックから立ち直れていないと思っていたが、これは単純な人見知りかもしれない。昨日の今日の出来事だ。普通に接するのも、難しいだろう。


「今、ここには僕しかいないけれど……」


 少女の用件を知らないアジナは、ごく自然にそう言った。しかし、そんなアジナの言葉を聞いて、少女は更に表情を曇らせる。

 漸く開いた口からは、あまり聞きたくない言葉が発された。


「その、私。さっきの授業で、あなたが倒れるのを見て……」

「あ……」


 成る程。つまり、彼女はあの場にいたのだ。

 それが何を意味するのか、アジナは一瞬の内に理解する。ハンスと戦い、挑発したにも関わらず、あっさりと敗北した醜態。それを目撃されたのだ。


「……そうか、見ていたのか」


 自然と声が震えた。それを隠すように、アジナは笑う。


「あ、あの後、色々と、あったのよ? あなたの対戦相手や、その……友人が、第二階梯の聖剣を使ったから。ノスタン先生、凄く怒っていたわ」


 励ましのつもりだろうか。だが、アジナはその続きを、聞きたくはなかった。

 少女が浮かべる同情の眼差しを、アジナは直視したくない。


「そう言えば、自己紹介がまだだったね」


 だから、視線を下げて、白いシーツを眺めながら、アジナは言った。


「僕はアジナ=ウェムクリア。この学校では、落ちこぼれで通っている」


 僅かに、少女の表情が強張った。まるで、あたって欲しくない予想が的中してしまったような顔だ。優しいな、とアジナは思った。

 少女は小さな唇を、ゆっくりと震わせる。


「確か、聖剣がない……」

「そう。僕はこの学校で、唯一、聖剣を持っていない勇者だ」


 落ちこぼれに次ぐ、もう一つの呼び名。それが、剣無しのアジナだ。

 アジナ=ウェムクリアは、勇者の中でも、例外的な存在だった。

 通常、勇者は十歳に近づくにつれ、どこからか試練が与えられる。その試練を達成することで勇者は聖剣を手にすることができるのだが、当然、試練には失敗が付き物だ。


 しかし、この世界に聖剣は多数ある。最初の試練――即ち、最初の聖剣を手に入れるための試練に失敗しても、次は二つ目の聖剣を手にするための試練が与えられる。この繰り返しによって、大半の勇者は、自らの聖剣を入手するのだった。


 だが、アジナは違う。アジナの場合は、そもそも試練が下りてすらいない。

 前代未聞と言っても過言ではなかった。そこに注目する研究者も大勢いる。本人にとっては掘り下げて欲しくない問題だが、世間がそれを許さない。いつしかアジナは、試練を与えられない勇者として、それなりの知名度を持つことになった。


 ハンスと似たようなことを言う者も、少なくはない。

 何故、試練が与えられないのか。それは聖剣が、アジナに使われることを願ってないからだ。聖剣にだって意思はある。その可能性も、ゼロではなかった。

 何よりも、アジナ自身がその可能性を、否定しきれずにいた。


「模擬戦も見たんだろ? あの通り、僕は聖剣を抜きにしても落ちこぼれなんだ。持病で身体が弱くてね。ちょっと疲労するだけで、簡単に気絶してしまう。これじゃあ満足に戦うことも、身体を鍛えることもできない。……試練が下りてこないのも、当然だ」


 こんな体たらくじゃあ、聖剣が見捨てるのも無理はない。

 思わず、自虐を呟いてしまう。

 何も考えることなく、つらつらと本音を口にしてしまう自分を、客観的に見ている自分がいた。変だ。出会ったばかりの相手に、何故こうも余計なことを言ってしまうのか。わからない。わからないが、彼女には不思議と引き込まれる。


「昨日の件も、本当は危なかったんだ。もしあの時、あいつらが退いてくれなければ、怪我を負っていたのは僕の方だった。……いや、君たちも危なかったかもしれない」


 自らの強がりを告白する。実際、彼らと戦闘になっていたら、自分が勝てる確証はどこにもなかった。曲がりなりにも勇者。素人に負けるほど落ちぶれてはいないが、少しでも腕に覚えがあれば危うい。長期戦に持ち込まれれば、間違いなく敗北していただろう。


「ごめん。無責任なことして」


 申し訳ない気分になって、アジナは謝罪する。

 場の空気に流されたのか。それとも気づいていないだけで、心が病んでいたのか。弱音を溜め込むタイプのアジナにとって、ここまで誰かに愚痴を吐くのは珍しかった。

 反応には期待していない。正直な話、無言でここから立ち去って欲しかった。ここで出会わなければ、自分は彼女の中で、立派な勇者として息づいていたのかもしれない。そう思うと、無償に寂しくなる。結局、自分は本当の意味での勇者になんて、なれやしないのだ。呪われた運命を、神様が肯定していた。

 伏し目がちだった顔を、少女の方に向ける。

 笑いもせず。哀れみもせず。いつの間にか同情の色すら消して、彼女は真っ直ぐな瞳でアジナを見据えていた。


「あなた、凄いのね」


 柔らかな花弁の如き笑みで、少女は告げる。


「……え?」


 あまりに予想外な一言に、アジナは思わず間の抜けた返事をした。しかし、彼女の笑みは崩れない。そこにはアジナの知らない感情が――敬意が込められていた。


「確かに、あなたは強くないかもしれない。けれどそれなら、どうしてあなたはあの時、私たちを助けたの?」

「それは……」


 理由を問われて、困惑する。理由なんて、考えていたか? いや、あの時はそんな暇なかった。ただ悲鳴を聞いて、勇気を振り絞って、それから駈け出しただけだ。


「あなたは、勇気だけで私たちを助けてくれた。それはきっと、力を振り翳すことより、もっと凄いことよ。だから私は、あなたを尊敬するわ。きっと、そういうのが、本当の強さだと思うから」


 完全に、予想外の言葉だった。否定され、馬鹿にされ、苦汁を舐める日々には、あまりにも似付かわしくない言葉。それも、思わぬ発想で肯定される。かつて、これ程までに誰かに認められたことがあるだろうか。形容しがたい感情が湧き上がる。


 口を動かすことができなかった。それは、相手も同じなのか。落ち着いた声色で全てを告げた彼女は、少しずつ自らの発言を思い返したようで、徐々に頬を赤らめる。

 互いに、居た堪れない気分になった。


「そ、そう言えば。私もまだ、名乗っていなかったわね」


 明らかな話題転換に、アジナもこれ幸いと乗る。

 改まった様子で少女は姿勢を正し、白い頬に紅潮を残しながら、口を開いた。


「私はサイカ=フェイリスタン。昨日は本当に、ありがとう」


 名乗りと共に、改められた感謝が告げられる。

 その頃には、アジナの唇も少しだけ柔らかくなっていた。これまで、何かに引き止められているかのように動かなかった口が、この瞬間に軽くなる。


「どう致しまして」


 互いに柔和な笑みを浮かべ、心からの言葉を紡ぐ。

 それだけで、心が晴れ渡った。

 気まずい空気はない。心地よい空気だけが場を支配する。いつまでも、こうしていたい気分。ただの沈黙が、心に安らぎを与えてくれる。

 時計の針の動く音だけが、一室に響いていた。


「――さて、と」


 だが、いつまでもこうして固まっているわけにはいかない。時間は有限だ。

 アジナは両手をベッドにつき、身体を持ち上げた。ベッドから降りるアジナを、サイカは心配そうな目つきで見守る。


「身体はもう、大丈夫なの?」

「結構寝たからね。もう平気だよ」


 壁に立て掛けてあった剣を手に取り、慣れた手つきで腰に佩く。そのまま、二人は無言で保健室から退室した。

 放課後となった今、廊下に足音は少ない。

 どこからか聞こえてくる話声と、自分たちの足音だけが聞こえてきた。


「その……いつも、こんな風に?」


 一瞬、問いの意味を理解できなかったアジナだが、すぐに察する。

 暫し悩んだアジナは、斜め上に視線を向けながら答えた。


「いや、普段は引き際を見極めて、適当に休んでいる。ただ今回は、なんというか……ちょっと腹が立ったからさ。休み明けで、色々と緩んでいるのかも」


 決して怠惰な日々を送ったつもりではないが、いつの間にか、怒りの沸点が下がっていたのかもしれない。今回の一件も、その気になれば回避できた筈だ。ハンスの挑発に乗ったのも、結局は自分のストレス発散のためである。


「アジナって、意外と負けず嫌いなのね?」

「……よく言われる」


 アジナの返しに、上品に笑うサイカ。

 外は既に暗がりに包まれつつあった。天蓋の半分は夕焼けに染まっており、華やかな王都と言えど、どこか哀愁漂う光景が広がっている。


「そう言えば、今日はあの娘は一緒じゃないの?」

「あの娘?」

「ほら、昨日、サイカと一緒にいた」

「ああ、ユリスのことね」


 路地裏でサイカを助けた際、彼女の隣にはもう一人の少女がいた。黒髪で、サイカと同じく背の低い女の子だ。


「彼女はゼリアスではなく、リィン王立学園の生徒なの」

「そうなのか。てっきり同じ学校だと思った」


 意外そうな顔で、アジナは言う。


「しかし、王立学園か……」

「ああ見えて、凄く頭が良いのよ。あの子」


 王都に存在する二つ目の教育機関。それが、リィン王立学園だ。勇者のみを生徒として迎え入れているゼリアスと違い、王立学園は人種にこだわることなく門を開いている。ゼリアス同様、教育にはかなりの力を注いているとの噂だ。

 但し、その門は恐ろしく狭い。厳正な試験に合格し、その才覚が認められた者にしか与えられない環境である。普通、教育機関というものは、生徒たちに研鑽を促し、未来の可能性を与える施設だ。しかし王立学園は違う。あそこは、それ自体が研鑽の末に辿り着くことのできる、一つの到達点なのだ。可能性だけでは許されない。約束された未来を持つ者のみが、門を叩くことを許される。

 血筋で才覚を証明できるアジナたち勇者と違い、通常の人間は実力を発揮することでしか、才覚を証明できない。それは不平等なものだが、だからこそ、アジナは王立学園の生徒たちを尊敬する。彼らは紛い物の自分と違い、正真正銘の天才たちだ。


「うーん、確かに見た目からじゃ、想像できないな」

「それ、本人に言っちゃ駄目よ。気にしているんだから」


 思わず吹き出すアジナに、サイカも便乗する。

 あの小さな身体に、自分には想像できないほどの、膨大な努力が詰め込まれているのだろう。努力の跡は、見た目ではどうにも察知するのが難しい。


 ――そうだ。見えないだけで、誰しもが、頑張っているのだ。


 ユリスは勇者ではない。その時点で、天然の才能という点では劣っている。だが、それでもアジナは、自分が王立学園の門を叩けるとは思っていない。その少女の努力は、天然の才能を凌駕する域に達したのだ。

 境遇を超えるほどの努力。

 不運を覆すほどの意志。

 今の自分に足りないものは、それだ。


「さっきは、ありがとう」


 途端に湧き上がる感謝の言葉を、アジナは口から零す。


「凄く、励まされたよ。おかげで、僕はまだまだ頑張れそうだ」


 保健室で、自らを肯定してくれたサイカに、アジナは礼を言う。

 あの言葉の一つ一つは、自分という殻に閉じこもっているだけでは、決して理解することのできないものだった。他者だからこそ気づける思考。他者だからこそ感じる情念。そして、サイカだからこそ、伝えられた想い。

 多分、一生忘れられない言葉となるだろう。


「……アジナは」


 放たれた言葉が、途中で千切られた。のんびりと、アジナは待つ。隣で逡巡するサイカは、やがて、決心した様子で口を開いた。


「アジナは、どうしてそんなに頑張れるの?」


 その問いに、アジナは口を噤む。

 だが、サイカは自ら告げることで、アジナの逃避を防ごうとした。


「勇者なら……もっと、色んな生き方ができるわ。別に戦わなくたって、勇者の才能を欲している人は、幾らでもいる。なのに、どうしてアジナは……そんなに固執するの? 別に……この学校にいなくても、あなたの居場所はある筈だわ」


 二人は自然と、足を止めた。――固執、と来たか。あまりにも突き刺さる一言に、アジナは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 サイカの言う通り、戦わずに生きている勇者だって、世界には何人もいるだろう。

 勇者の才覚は、基盤が戦闘なだけであり、その方向性には無限の可能性がある。膂力が強いからと言って、剣を振ることしかできないわけではないのだ。料理、鍛冶、芸術、学問。自らの才能をどこに向けるかは、個人の意思が選択する。


 アジナも、強いられて王都に訪れたのではない。

 選択肢の中には、育ちの村で過ごし続けるというのも、あった筈だ。自分が王都に行かず、村に滞在したとしても、誰も文句は言わないだろう。

 それでも、アジナは村を出た。王都に来た。そして、ゼリアスに入学した。

 蔑まれ、才能の無さを実感しても、この環境の中に留まっている。


「うーん……」


 難しい質問ではなかった。アジナはその答えを、常に持ち合わせている。

 けれど、すぐに応えることはできない。それはサイカに対する感情ではなく、己の覚悟を自覚しているからだった。これは、簡単に吐き出せるものではない。先程の弱音のように、衝動的に発しても良い答えではないのだ。


「ちょっと、長くなるかもしれないけれど」


 無言で頷くサイカに、アジナは小さく吐息を零した。

 言おう。――なんとなく、サイカとは今後も付き合うことになりそうだから。


「……大した理由じゃないよ。有り触れた話だ」


 情景を思い出す。記憶の根幹に手を触れる。掘り起こす必要はない。それは時々、夢となって脳の表層へと現れるのだから。いつになっても色褪せない、とある事実だ。


「昔……まだ僕が、小さな村で暮らしていた時。大きな火災に巻き込まれたことがあるんだ。原因は魔物らしい。けれど、幸い魔物は村から離れた土地に現れたから、村に被害はなかった。例外は、当時、偶々遠出していた僕だけだ」


 不幸中の幸い、とでも言うべきか。

 火災の被害はアジナと、その周辺の草原だけに留まった。焼け野原となったあの地も今では少しずつ緑が蘇りつつあり、あと数年もしない内に、元通りになるだろう。

 未来に残る記憶は、アジナの脳内にのみ、刻まれている。


「右も左も炎しかなくて、人影も見えず。辺りには、よく燃える草ばかり。逃げ場を失って、死を覚悟したんだけれど……その時、僕を救ってくれた人がいた」


 絶望的な状況ではあった。けれど、記憶の中のそれは、悲劇ではなかった。


「黒衣を身に纏い、一振りの聖剣を手にした勇者だった」


 ここから、始まったのだ。自分の、勇者としての人生は。アジナは、湧き上がる興奮をどうにか抑えつつ、続きを語る。


「その勇者がしたことは、ただ一つ。聖剣を、横薙ぎに振っただけ。……ただ、それだけで、僕の恐怖は全て消えた。辺りの炎は掻き消され、舞い散る枝葉も、漂う煙も、何もかもが消え去ったんだ。あんな……あんな、絶対的な力があるのか。今でも偶に、疑問に思う。でも、確かに見たんだ。ありとあらゆる理不尽を、いとも容易く吹き飛ばすことのできる、そんな力を」


 霞んだ視界の中、その変化はあまりにも衝撃的だった。

 あの勇者は、自分の命を除けば何も救っていない。死の淵であったそこが、生者の地と化したわけでは、決してない。彩りは蘇らず、焼け焦げた大地はそのままである。

 だがそこに、アジナは圧倒的な力を感じた。


 如何なる抵抗をも跳ね除け、万象を、描かれる未来を、或いは描かれていた過去を、無に帰す力。それは、暴力と言っても過言ではない、あまりに純粋で、単純な力だ。


「気がついたら、いつか自分も、その力を手に入れたいと思うようになっていた」


 アジナ=ウェムクリアは、幼くして、その力に憧れていた。


「頑張っている自覚はないけれど、僕がこの学校にいるのは、そういう目的があるからだよ。僕は、最高の聖剣を手に入れたいんだ」


 ここは勇者養成学校ゼリアス。文字通り、勇者を教育する施設だ。

 聖剣の入手も含め、己を鍛える場所としては、ここが最も優秀であるに違いない。

 憧憬は行動の原動力となる。求める心は、時に自身ですら予測できないほどに、硬質な意志となる。自ら定めた未来の一点は、意志が折れない限り、常に煌々と輝いている。

 アジナはその輝きに、ずっと手を伸ばしてきた。

 以上で、照れ臭い話は終わり。決意は口に出すものではなく、己の中に留めておくものだ。なんて考えながらも、偶にこうして口に出せば、その意志を改めて実感することができる。全てを語り終えたアジナは、内心で満足していた。


「ふふっ」


 隣で、抑えられた笑い声が聞こえる。

 見れば、口元に手を添えたサイカが、こちらを覗き見ながら微笑んでいた。


「って、今の笑うところあった?」

「いえ、その……アジナが凄い、目を輝かせていたから」

「……僕だって男だ。憧れるものくらい、ある」


 顔を顰めるも、こみ上げているのは不快感ではなかった。サイカもそれを察しているのか、優しげな表情を崩すことなく、口を開く。


「アジナの言う通りだと、その聖剣は……ううん、聖剣だけじゃなく、使い手である勇者も、かなりの実力だと思うわ。その恩人って、どんな人だったの?」


 何気ない質問を、サイカは繰り出す。

 だが、そこでアジナは、唐突に表情を曇らせた。


「残念ながら、さっぱりわからない」


 歯切れ悪いアジナの返事に、サイカは小首を傾げる。


「顔は隠していたし、名乗りもしなかったからね。手がかりは、これだけだ」


 襟元に手をやり、首にぶら下がっていたネックレスを取り出す。摘み上げられた銀色の鎖の先には、同じく銀色の宝石がついていた。不思議な光を灯している石だ。眩しくはない。ただ、どこか引き込まれるような魅力がある。鈍く、深層から力を訴えかけるこの宝石は、深海を凝縮したような存在感があった。


「恩人から貰ったんだ。以来、肌身離さず身に着けている。なんていう宝石かは、知らないけど」

「綺麗ね。護石の類かしら」


 覗きこむように、サイカは宝石を観察する。

 元々、宝石に対して興味はない。ただ、恩人から貰ったことを抜きにしても、アジナはこのネックレスを気に入っていた。

 サイカが宝石から顔を離したところを見計らい、アジナはネックレスを服の中へと戻した。止めていた足も、ゆっくりと前へ動かす。


「それじゃあ、私はここで」


 男子寮と女子寮への岐路に辿り着いた辺りで、サイカがそう言った。


「アジナの目的、応援するわ。いつか最高の聖剣を手に入れたら、私にも見せて頂戴」

「勿論、存分に自慢してやるさ」


 不敵に笑ってみせるアジナに、サイカも満足そうに笑む。

 その後姿を見送る頃には、すっかり暗くなっていた。


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