剣無しのアジナ(5)
深緑の黒板に、線が走る。
規則正しい音と共に、教師はチョークで文字を記した。
朝一番の授業に、生徒たちは時折、微睡みに引きずり込まれる。
アジナ=ウェムクリアもまた、その中の一人だった。
「おい、アジナ。起きろ」
「ん……待て。今、いいところ……」
「起こせって言ったのお前だろ」
「痛っ!」
髪を引っ張られ、アジナが思わず声を発す。直後、自らの失態を悟ったアジナは口を閉ざして、周囲を見渡した。幸い、教師には気づかれていないようだ。
時計を見る。授業も残り数分だ。その油断が、睡魔を増長させてしまった。
「あいつ、怒るとネチネチ鬱陶しいんだから。気をつけろよ」
隣に座るジックが、教壇前に立つ男を見ながら言った。
ゼリアスに通う生徒たちは、その大抵が将来、魔王の遺産を対処する旅に出る。そのためには当然、優秀な教師が必要だった。だが、その優秀という評価も判断を下す者によって基準が異なる。昨日、アジナが会ったノスタンのように人格、能力ともに優れた教師もいれば、今、目の前で教鞭をとっている男のように、能力のみ優れた教師も存在した。
「にしても珍しいな。普段から真面目なお前が、授業中に寝るなんて。昨日も、随分と疲れていた様子だったし。……なんかあったのか?」
欠伸を噛み殺すアジナに、ジックは小声で質問した。
その問いに、アジナが口を閉ざす。顔は黒板に向いていたが、教師の言葉は一切耳に入っていなかった。腕も、ペンを持とうとしない。
「……路地裏で女の子が襲われていたから、助けた」
「ほぉー、やるじゃねぇか。でもどうやって?」
「何もしてないよ。皆、僕が勇者だって気づいたら、逃げていった」
「ま、そこらのゴロツキじゃ、その程度かもな」
王都の治安も改善しねぇなー、とジックは呟き、机に頬杖をついた。捲り上げられた制服から、赤い傷痕のようなものが見えた。右腕の肘の近くに刻まれているそれは、ジックの勇者紋章だ。その色は、三段階目の橙色。長方形を幾重にも重ねた模様である。
そして、視線だけをアジナに向けて、口を開いた。
「……発作か?」
それは教師だけではなく、周囲の生徒にも聞こえないよう、潜められた声だった。見かけによらないジックの気遣いに、アジナは微笑しながら答える。
「まぁね。でも大丈夫、本当に少しだけだから」
「なら、いいけどよ」
「どっちかって言うと、次の授業の方が怖いよ。またぶっ倒れたらよろしく」
「おいおい、縁起でもねえこと言うな。洒落にならんぞ」
ジックが言い終えたと同時、一際大きなチョークの音が響いた。二人が状況を理解するも、既に遅い。黒板を背に、男性教師は鋭くアジナたちを睨んでいた。
「自信満々だな。授業を受けなくとも、試験には受かると?」
銀色の指示棒で自らの掌を叩きながら、教師はアジナたちに告げた。
教室の空気が重くなる。真面目に講義を受けている者からすれば、確かにアジナたちは邪魔だろう。生徒たちは姿勢こそ変えなかったが、うんざりとした表情を浮かべていた。
「或いは、そんなに私の授業がつまらんか。……よろしい。なら、お前に相応しい講義をしてやろう。アジナ=ウェムクリア、立て」
教師の目は、アジナだけを見ていた。隣に座るジックは不満気な顔をするが、アジナがその気を窘める。怒りの矛先にされるのは、いつものことだ。慣れている。
静かに起立したアジナに、教師は嫌な笑みを浮かべた。
「聖剣の成り立ちについて、説明してみろ」
「……聖剣は四世紀前、初代勇者が使用していた武器のことです。しかし、魔王討伐の際に聖剣は破壊され、その破片は世界中に散らばりました。以来、弱体化した聖剣は実体を失い、勇者の力を借りなくては、姿を現せなくなりました。これが、現代の聖剣です」
「その通り。現代の聖剣は、物質としての姿を、自力で現すことができない。聖剣が顕現するには、初代勇者の血を継いでいる現代の勇者たちの協力が必要不可欠だ」
まだ質問は終わりではない。教師はアジナに、座ることを許さなかった。
「しかし、聖剣は元来、使い手を選ぶ武器だ。そしてその特性は、弱体化した今も変わらない。目に見えない存在と化し、数多の破片と化した聖剣は、それでも使い手を選び続ける。この選定の儀を、私たちは『試練』と呼んでいるな。勇者はこの試練を達成することで、聖剣を手に入れることができる。――では、問題だ。勇者が試練を達成し、聖剣を手に入れるのは、一般的にいつだとされている?」
その「いつ」というのは、状況のことですか。それとも、年齢のことですか。
なんて、下らない返答をすれば、ますます自分の首を絞める羽目になる。愉悦に浸る教師の顔を見て、アジナはぶん殴ってやりたい気分になった。
「勇者が、十歳を迎える頃です」
「正解だ」
とても満足そうに、教師は頷いた。
「一般的に、勇者は十歳前後になると、聖剣から試練を与えられる。その内容は人それぞれだが、失敗したところで絶望することはない。……何故なら、勇者が数多く存在するように、聖剣もまた数多く存在するからだ」
「一般一般うるせぇな……」
隣でジックが悪態を吐く。だが、教師はアジナしか見ていない。
既存の常識に囚われやすい教師だった。歴史こそ真実。知識こそ永遠。先人たちは偉大なり。そんなことを日頃から呟く男だ。教師にはなれても、研究者にはなれないだろう。
「一般に、勇者が経験する試練の数は、二回から五回とされている。何れにせよ、初めて試練を受けた日から一年も経てば、大抵の勇者は自分に見合った聖剣を入手しているだろう。例外は、試練に失敗して死んだか、自ら試練を拒む臆病者のみだ。現に、この学校の生徒たちは皆、聖剣を所持している。――ただ一人を除いていな。世の中には、例外中の例外、というやつもいるものだ。……いや、この場合は寧ろ、論外とでも言うべきか」
教師の瞳が、アジナを射抜く。アジナは無表情で、それを受け止めていた。
クスクスと、小さな笑い声が聞こえる。教師には届かない。辛うじてアジナに聞こえる程度の声量で、彼らは見下した目でアジナを見ながら、笑っていた。これだけで十分、理解できる。――この教室の中には、あの教師に賛同する者が多数いるのだ。
「ご苦労だった、もう座ってもいいぞ」
小さく頭を縦に振り、アジナは着席する。
満足したらしい教師は、ジックには一切、目を向けなかった。
「……で、俺は無視と」
「まぁまぁ」
ここで蒸し返すのは面倒臭い。それに、元々は授業中に私語をしていた自分たちが悪いのだ。苦笑しつつ、アジナは適当にジックを宥める。その際に浮かべた笑顔が、僅かに気を紛らわした。そしてすぐに、その笑顔を引き出してくれた友人の気遣いに感謝する。
だが、向けられる意味ありげな視線の数は、その後も暫く消えなかった。
「……次の授業、大変そうだなぁ」
紛らわした筈の気が、再びこみ上げてくる。それを胸に押し留め、暴れそうになる感情を、どうにか理性で宥めてみせた。知らず、剣の柄を握り締める。
授業終了を知らせるチャイムが鳴る。
次の授業は、実技演習だ。