終章:これから
席次試験は、何一つ不都合なく終了した。
巨兵が起きていたこと。変異個体の巨兵が現れたこと。これらは探索においては非常事態に分類されるものの、迷宮そのものに欠陥があったわけではない。試験が終えても、特別なアナウンスが入ることはなく、後に待つのは淡々とした普段通りの日常だった。
だが、度重なる地響きや、その後、突如訪れた圧倒的な力の流出は、試験に参加していた全ての生徒に衝撃を与えた。あの震動はなんだったのか。あの力はなんだったのか。試験終了後、様々な生徒が口論を交わした。独自に展開された考察は、伝播する度に少しずつ真実へと近づいていく。そして――程なくして、全てが暴かれた。
剣無しアジナが、遂に聖剣を手に入れた。
そんな噂が流れたのは、試験が終えて、僅か半日後のこと。
アジナ=ウェムクリアが目を覚ましたのは、丁度、その頃である。
「……うわぁ」
学生寮を抜け、グラウンドに出た瞬間、アジナは気怠い声を漏らした。前後左右から視線が突き刺さる。それも、今まで通りの敵意に満ちたモノではない。好奇の目や、奇異の目。そして、僅かに混じる――ギラギラとした、戦意剥き出しの目。
「噂、結構広まってるみたいだな」
「みたいだね……」
隣で、親友のジック=ウォルターが、周囲を見渡しながら言う。
溜息と共に、アジナは頷いた。
「あぁぁ、落ち着かない……」
「我慢しろ。……ま、皆の気持ちも、わからなくもないけどな」
思わず顔を下げ、少しでも気を紛らわそうとするアジナに対し、ジックは呟いた。
「先日の、あの馬鹿でけぇ力。あれって、お前なんだろ?」
「た、多分……」
「だったら、自業自得だ。なんせお前は、俺たち勇者にとって、最高の朗報を届けたんだからな。……あんな目つきになるのも、無理はねぇぜ」
ジックが顎で、近くにいる生徒を指す。
その生徒は、まるで今にも襲い掛からんとする猟犬の如き瞳で、アジナを見ていた。
同じ勇者である以上、アジナもなんとなく理解している。
勇者にとって、戦いとは自らの存在価値そのものだ。戦えば戦うほど、勇者には充実感が生まれ、強くなれば強くなるほど、戦いに対する渇望は肥大する。戦いを経て強くなることで、更に厳しい戦いを欲す。物騒な永久機関が、勇者には組み込まれているのだ。
そんな勇者たちにとって、今のアジナは、どういう存在か。
剣無しのアジナが、遂に聖剣を手に入れた。その上、先日の威圧感の正体も、アジナだった。あれ程の力を――多くの人々の肌を粟立て、迷宮の魔物すら、行動を中断せざるを得なかった程の、尋常ならざる力の奔流を、あのアジナが引き起こしたというのだ。
――新たな好敵手の誕生。
勇者たちは、期待せずにはいられない。
腕試しがしたい。挑んでみたい。数多くの戦意を受けて、アジナは狼狽する。今までとは真逆の視線だ。嬉しいような、恐ろしいような。素直に喜べないのは確かである。
「良かったな。今後暫くは、嫌というほど実戦経験が積めるぞ」
きっと、考えた末に絞り出したであろう慰めの言葉に、アジナは空の笑みで応えた。
「……っと、悪い。そろそろ行かねぇと」
「え」
不意に、自分とは異なる方向へ歩み出すジックへ、アジナが引き攣った顔をする。
「悪いな。この後、パーティの面子で集まる予定になってんだ」
「いや、ちょっと待って! この状況で流石に一人になるのは――」
「はっはっは! 丁度良い! 今の内に注目されることにも慣れておけ! そんな調子だと、この先、ストレスでゲロ吐くぞ!」
そう言って、ジックは瞬く間に消えていった。
一瞬だけ、視線がそちらへ誘導される。だが、すぐにアジナの元へと返ってきた。いざという時は頼りになる癖に、こういう、些細な時に限ってジックは薄情なのだ。
一人となることで、余計に周囲の喧騒が気になってきた。
『随分と賑やかね』
アジナが一人で教室に向かおうとすると、次は脳内から声が聞こえる。昨日は、この上なく頼もしかったその声も、今となっては落ち着いて対応することができた。
「半分は君のせいでもあるだろ。ローゼマリア」
そう返事をしたアジナに対し、聖剣は、僅かに間を置いた。
『……ねぇ。やっぱりその名前、微妙じゃない?』
「え、そう? これでも真剣に考えたんだけど」
『だって、私って、ほら。可愛いイメージでしょ? カレンとか、ティアラとか。もっと相応しい名前があったと思うけど』
「可愛いって……ぷっ、くくくっ!」
聖剣の物言いに、アジナは我慢できず、噴き出した。
『何よ?』
「いや、聖剣も冗談を言うんだね」
『……あら? あらあら? もしかして、喧嘩を売っているのかしら?』
「そんなことないよ」
『そう。なら良いのだけれど。ま、青臭い感性には、難しいのかもね』
「粘着女」
『おこちゃま』
「悪女」
『虚弱体質』
「それはもう治った――って、ん?」
『はい私の勝ちー』
悪口の叩き合いに勝利したローゼマリアは、意味もなく勝ち誇る。そんな相棒の声を無視して、アジナは前方に視線を向けた。見覚えのある複数の人影が、こちらに近づいてくる。それぞれの顔を認識してから、アジナは足を止めた。
「……よぉ」
かつて、自分を虐げていたその男。ハンスは、申し訳無さそうに声を出した。取り巻きである二人の男子も、似たような表情を浮かべている。
「まぁ、なんつーか、本当に今更だし。これも、自己満足かもしれねぇけどよ……」
後ろ髪をわしゃわしゃと掻き、ハンスは言葉を選ぶ素振りを見せる。
アジナは一言も声を発さず、次の言葉を待ち続けた。
「今まで、悪かった」
誠意は態度で表す。そう言わんばかりに、ハンスは腰を折って謝罪する。
取り巻きの生徒二人も、ハンスに見習ってお辞儀した。真っ直ぐに、地面だけに顔を向けて、三人はアジナの返答を待っている。アジナは暫く黙っていた。だが、その顔が上がる様子は無かった。周囲の視線も気にせず、ひたすら頭を下げ続けるハンスたちに、やがてアジナは溜息を吐いて苦笑する。
「いいよ。許す」
そう告げて、頭を上げるハンスの目の前に、アジナは右手を差し出した。
「これからは、正々堂々、競い合おう」
アジナの言葉を聞いて、差し出された掌を見て、ハンスは漸く笑った。以前の、嫌らしい笑みではない。全てが吹っ切れた、爽やかな笑みだ。そちらの方が似合っている。
「――あぁ」
互いに握手を済ませ、やがて、二人は別れた。
変わっていく。これまでの日常が、ひとつの変革によって再構築されていく。それはアジナにとって、非日常そのものであり……新たな日常の礎となるモノだ。自分が変われば周りも変わる。同じように、周りが変われば自分も変わる。――変わることができる。
『根は、いい奴なのかもね』
聖剣の一言に、内心で相槌を打つ。
いつしか、ハンスに対する恨みは完全に消えていた。これからは、彼も好敵手となるのだろう。片方が虐げられるような一方的な関係ではない。対等な関係だ。
「……これから、か」
自ら口にした言葉を、再び唱えてみる。
自分の世界が、次々と変化していく。この流れを止めちゃいけない。聖剣を手に入れたからと言って、元の日常に回帰しては意味が無い。寧ろ、これからだ。自分はまだ、スタートを切っただけに過ぎないのだから。これで漸く、他の勇者と並ぶことができる。
退学の件も無事に解決したことで、アジナは今後もゼリアスに通い続けることが可能になった。試験でアジナが落下した層は、どうやら六層であったらしい。五層以下に到達したことは勿論、聖剣を手に入れたアジナを追い出す理由は、最早どこにも存在しない。
一件落着どころか、多件落着。抱えていた問題が、纏めて解消された。
問題の解決は、新たな変化でもある。
聖剣を手にした自分の日常は、これから劇的に変化するだろう。
いや、変化は既に、起きているかもしれない。
「なんか、濃くなっている気がするんだよなぁ……」
左肩を撫でながら、アジナが言う。
昨日、アジナは乖離石の反動で気絶し、そして今朝、日頃の就寝後と同じように目覚めた。同じようではあるが、風呂にも入ってなかったし、傷も完全には癒えていない。一先ず、汚れきった服を脱ぎ、湯水に染みる傷に耐えながら、ふと、鏡を見て。アジナは違和感を覚えた。
気のせいでなければ、勇者紋章が、濃くなっている。
『気のせいよ、気のせい』
「そう、だよね。紋章の色が変わるなんて、聞いたこと無いし」
『ええ』
勇者紋章は、初代の血を如何に引き継いだかを証明するもの。つまりは血液中の、特定の成分の濃度だ。それが変動するということは、喜ばしいどころか、一種の病のような気がしてならない。
不安がるアジナに、聖剣は適当な声音で宥める。
『修羅因子の目覚め……相当、初代に気に入られたみたいね』
何か、呟いたような気がした。
しかし、聞き覚えのない単語が出たせいか、アジナは理解できずに首を傾げる。
性悪な彼女のことだ。どうせまた、不安がる自分を馬鹿にしたのだろうと考え、アジナは追求しなかった。
「……ぁ」
その時。前を見据えるアジナの瞳が、見知った銀髪を映した。
少女と視線が交差する。そして、どちらからともなく、微笑んだ。彼女の赤紫の瞳が優しい色を灯す。アジナもまた、嬉々とした表情で彼女へ歩み寄った。
ふと、試験前、彼女と会話したことを思い出す。
今こそ、自分もパーティに所属するべきだ。この変化を止めないためにも。更なる成長を遂げるためにも。聖剣を手に入れて、新たな道を歩み始めた自分にとって、パーティは良い道標となるだろう。好敵手も必要だ。だが、勇者には、仲間も必要だ。
今更、適当なパーティに所属したって、きっとうまくいかない。ならいっそ、自分たちで作るべきだ。新規のパーティ。そのメンバーとして、まずは彼女を誘おう。
『今日はお客様が多いわね』
アジナが今後の方針を定めていると、聖剣がそんなことを告げた。
「そうだね。でも、嬉しいことだ」
『ええ。……と言う訳で、もう一人、来てるわよ』
「え?」
その一言と聞いて、アジナは横へ顔を向ける。
そこには、不敵な笑みを浮かべる赤髪の少女。ファナ=アクネシアがいた。
「やっと、ね。待ちかねたわよ」
口角を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべるファナ。待ち遠しかった日々との決別を、噛み締めるように。その唇を、ゆっくりと開く。
「アジナ=ウェムクリア。あなたを、スフィリアへ招待するわ」
極限の集中状態が時の静止を促すものだとすれば、ファナの告げた言葉は、時を凍らせるものだった。言葉の意味を理解して、身体ごと思考を硬直させるアジナ。目の前のファナは、相変わらず自信に満ちた笑みを浮かべており、その後方には、こちらを見つめているサイカの姿があった。話を聞いていたのだろう。真っ白な頬からは赤みが抜け、彼女は顔面蒼白となりながら、口元を小刻みに動かしていた。
望もうと、望まなかろうと、今のアジナには変化が訪れる。
アジナ=ウェムクリアのこれからは、波乱万丈であることが約束された。