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煌鋒の勇者  作者: サケ/坂石遊作
一章『覚醒』
21/22

最高の聖剣(7)

 走り続けた先にあったのは、巨大な部屋だった。

 天井は高く、その果ては暗闇で包まれている。迷宮らしい入り組んだ地形はどこにも見当たらず、寧ろ人の手によって造られたような空間だ。何もないが、それ故に広さが強調される。相対的に自分が縮んでしまったような錯覚を味わう中、アジナはソレを見た。


「――オールドナイト」


 巨兵が吠えた。

 歪な長槍を片手に持ち、暴れ回っている。その身の丈はアジナの三倍近く、成人男性が二人と、子供一人分はあるだろう。全身を薄汚れた甲冑が覆っており、本体と思しき部分は一切見えない。二足歩行に、人間の四肢と同じ体躯。にも関わらず、その雄叫びは獣が放つような、理性を一切感じさせないものだった。


「だ、誰か――!! 誰か、助けてくれぇ!」


 助けを呼ぶ声が聞こえる。雰囲気に呑まれていたアジナは、意識を取り戻した。

 叫びの主は、すぐそこにいる。槍を振り回し、地面や壁を、見境無く破壊するオールドナイトの足元。そこに、瓦礫に足を挟まれ、身動きの取れていない生徒がいた。


「……え?」


 だが、その顔を見た瞬間、アジナは思わず足を止める。

 見覚えのある顔だ。金髪に、茶色の瞳。それは普段、人相の悪い笑みを浮かべている筈だが、今ばかりは恐怖で満たされていた。だからだろうか。見覚えがある筈なのに、その人物が、自分の記憶の中の人物と一致しない。

 けれど、その突発的な不一致は、すぐに解消される。


「ア、ジナ……?」


 向こうも、こちらのことを覚えていた。

 否。忘れているワケがない。なにせ彼は、常日頃、自分に陰湿な嫌がらせを繰り返してきたのだ。席次試験が始まるよりも以前から、あの男は自分を貶めていた。


 ――ハンス。


 自分を憎み、自分もまた憎んだその人物が、こちらを見上げている。


『本当に助けるの?』


 瞬間、景色が一変した。アジナを中心に暗闇が世界を支配する。だがそれは、恐怖を煽るものではなく、どちらかと言えば安らぎを与えるような、静かな世界だった。自分とハンスと、オールドナイトのみが色を持つ世界。そこで、何者かの問いが耳に届く。


「だ、誰だっ!?」

『そんなこと、今はどうでもいいでしょう。それよりも、質問に答えなさい』


 女性の声だった。彼女の声のみが、この世界に響き渡る。

 ハンスもオールドナイトも、時が止まったかのように動かない。いや、本当に、アジナ以外の全ての時が静止していた。或いはそう見紛う程に、時の流れが遅れている。

 ここは、自分の心が生み出した世界だ。

 なんとなく、アジナは理解する。

 だとすれば先程の問いは――自分が、自分に向けたモノに他ならない。


『その男は、かつて、あなたを苦しめた存在よ。落ちこぼれと蔑み、剣無しと罵り、あなたを弱者と見下した張本人。それでも、あなたは助けるの?』


 心の奥底に眠っていた疑問が、湧き上がった。

 アジナの脳内で、これまでの記憶が反芻される。模擬戦では多くの生徒たちの前で貶められた。脅迫じみた手紙が部屋に届いた。退学しろと何度も迫ってきた。

 気づかないフリをしていた、自分の負の感情。それが強引に発露される。そうだ。ハンスを助けることに意味はないし、義理もない。彼は自分にとっての害だ。

 だがアジナは、首を横には振らなかった。


「……助ける」

『何故?』

「侮辱されたくらいで、命を見捨てるのは割に合わない」

『そう』


 女性は、興味無さげに相槌を打った。


『でも、あなたに助けられるかしら? その貧弱な腕で、彼を救うことはできる?』


 続けて、問い掛けてくる。問われたくないことを、的確に突いてくる。


「……やってみなくちゃ、わからないだろ」

『いいえ、わかるわ。誰でも理解できる。あなたは勝てないし、救えない。それこそ――何か、特別な力でも、与えられない限り』


 声の主が、笑みを浮かべた気がした。


「だったら、お前が、その力をくれるというのか?」

『ええ。私なら、与えてやれる』

「寄越せ」

『素直ね。どうしようかしら』


 中身の篭っていない唸り声で、女性は悩む。そうして、回答を待っている間に、時は少しずつ動き出していた。オールドナイトは腕を振り上げ、その真下にいるハンスは、自らの死を悟り、目を閉じようとしている。


『よし、決めたわ』


 妙に軽快な口調で、女性は言った。


『――駄目。あなたに力は、与えない』


 下された判決は、あまりにも冷酷だった。

 だが、アジナの感情は揺れない。


「そうか。――――ならいい」


 力は、与えられないらしい。――だから、なんだ。

 それが、ハンスを助けることに関係あるのか。

 時が戻る。迷宮の景色が。崩れた瓦礫が。オールドナイトの雄叫びが、蘇った。

 アジナは疾駆した。オールドナイトが槍を振り回す。その足元でこちらを見上げるハンス目掛けて、全力で駆けつける。恐怖はある。だが足は竦んでいない。

 ピシリ、と。胸元から音が聞こえた。


「お、お前――」

「いいから、待ってて!」


 ハンスの下半身を覆い隠している瓦礫を、必死になって持ち上げる。ゆっくり、ゆっくりと、ハンスは這いずるように瓦礫の下から抜け出した。


「走れるか!?」

「だ、駄目だ……足が、動かねぇ」


 最悪の展開に、思わず舌打ちをかます。すぐに肩を貸すべく、手を差し伸べた。ハンスの腕を掴み、強引に立ち上がらせようとしたその時――再び、黒い世界に誘われる。


『驚いた。本当に、助けるのね』

「お前――」

『落ち着きなさい。――右よ』


 その言葉に、反射的に顔を右に向ける。その動きにつられるように、止まっていた時も元に戻ろうとする。緩やかに振り向く自分と、緩やかに迫るソレ。

 アジナは、抜刀した。

 その刃が――オールドナイトの長槍と、衝突する。


「く、ぉ、おおぉおぉおぉおぉぉおおお――!?」


 刃と槍が触れた瞬間、時が正常に戻る。緩やかに衝突した筈のそれらは、火花を散らす程の荒々しい鬩ぎ合いを披露した。――重い。受けるのは無理だ。

 吹き飛ばされそうになりながらも、片膝をつき、どうにか槍を受け流す。

 ピシリ、と。――また、胸元から音がした。


「ハンス! 少しでも遠くに行け!」

「お、お前は、どうするんだよ」

「僕は――」


 今のハンスの身体では、そう遠くまで逃げられない。仮に逃げられたとしても、別の魔物と遭遇すれば、生存は絶望的だろう。それに、この部屋の近くにも、傷だらけで身を潜めている生徒がいる。彼の救助も考えなくてはならない。

 この場で唯一、自分だけが戦うことを許されている。

 なら、やるべきことは、一つだけ。


「救助が来るまで――時間を稼ぐ」


 身体の中心線に沿うように、アジナは剣を縦に構える。

 反応がない。ハンスを一瞥すると、唖然とした様子でこちらを見ていた。先程の傷だらけの生徒も、同じような目をしていた。今日はよく、驚かれる。


「はぁぁ――」


 肺に溜まっている酸素を全て吐き出す。そして、再度、酸素を吸う。多くもなく、少なくもなく。息苦しくない、最適な酸素量を見極めて――その瞬間に、息を止める。


「――ッ!!」


 巨兵が槍を持ち上げる。対し、アジナはその懐へ飛び込んだ。一歩踏み込むだけで、巨兵の図体の大きさを実感する。だが、その動きは鈍い。甲冑は身を守る代わりに、関節の駆動を妨げ、長槍は獲物を逃さない代わりに、向かって来る相手には弱い。巨兵が槍を振り下ろすよりも先に、アジナは屈んで背後へ回り込む。甲冑と甲冑の隙間に、使い慣れた刀剣の刃を挿し込んだ。巨兵が僅かに、動きを鈍らせる。


 今の自分は、相当集中できている。

 ファナと模擬戦をした時と、同じくらい。――いや、それ以上だ。

 視界の片隅で、ハンスの位置を捉えた。まだ近くにいる。だが、あの身体では無理もない。今のハンスは、自力では移動することすら困難だ。

 なら、自分のやるべきことは。少しでも、この巨兵を引き付けることだ。


「ぐうっ!?」


 オールドナイトの槍が肩を掠める。それだけで肉が削がれる。槍だけではない。頑丈な甲冑は斬りつける度に強い反動を返し、足踏みによって飛び散る床の破片は、さながら弾丸の如く、頬を撫でる。切り傷は次第に増していった。――だが、問題ない。


 目的はあくまで時間稼ぎ。倒れさえしなければ、何をしても構わない。基本は防御と回避のみ。オールドナイトは既に、ハンスからアジナに、狙いを変更している。

 殺されないことだけに注意していれば、そう簡単にやられはしない。


 いける――このまま、粘り強く耐えていれば、いつか必ず、仲間がやって来る。

 ジック、サイカ、ファナ。彼らさえ来れば、自分の役目は終わりだ。肝心なところを任せるのは申し訳ないが、ならせめて、自分の役割だけは全うしたい。

 胸中に、自信が湧いてくる。――その時だった。


「え……?」


 突如、オールドナイトがその動きを止める。

 槍と地に付け、無防備に仁王立ちするその姿は、アジナからすれば逃げ出す絶好の機会だ。しかし、動けない。オールドナイトの威圧感が、沸々と膨れ上がっていく。

 嵐の前の静けさ。第六感が、目の前の光景をそう判断する。


「まずい、まずい、まずいまずいまずい……っ!!」


 床を這いずっていたハンスが、全身を恐怖に震わせていた。切迫したその様子に、アジナも疑問を抱き始める。この男は、何に怯えているのか。

 その答えは、すぐに示された。


 オールドナイトが、大きく吠える。同時に、甲冑に赤い模様が走った。

 赤い模様は瞬く間に頭から爪先まで、そして長槍の先端にまで行き届く。遂には甲冑を飛び出て、羽衣の如く宙に揺れていた。巨兵は燃え盛る炎に包まれているようで、所々が角張ったその輪郭は、陽炎の如く歪んでいる。


「そんな……」


 低く、身体の芯にまで響いてくる重たい轟音が、延々と放出されていた。

 それは、悲痛の叫びでもなく。呪いの怨嗟でもなく。自身を鼓舞する雄叫びでもない。


 ――呼んでいる。


 オールドナイトの声に呼応するかのように、何処からか地響きが聞こえてきた。その震動と音は、徐々に大きくなっていく。目の前の景色が揺れて見えた。

 足音が止み、一瞬の静寂が生まれる。

 嵐の前の静けさは、終焉を迎えようとしている。

 なら、これより先に訪れるのは――――災厄だ。


「ま、さか……」


 強烈な音と共に、壁と天井が突き破られる。壁から、一体の巨兵が。そして、天井から一体の巨兵が。それぞれ、この場に現れた。飛び散る瓦礫。巻き上がる砂煙。それらを呼び寄せたオールドナイトは、依然として真紅の輝きを灯していた。


「……変異個体」


 計三体のオールドナイトが、アジナたちを睥睨する。中心に鎮座する赤い巨兵は、紛れも無く、オールドナイトの変異個体だった。


「――ぁ」


 完全に、思考が停止した。

 興奮状態から醒める。冷水を頭から掛けられたように、全身が凍てつく。

 恐怖。絶対的強者を前にして、人間の生存本能が悲鳴を上げている。これは、勝ち負けの領域ではない。行けば死ぬ。確実に。絶対に。進んだ先には、死のみが存在する。

 目の前で、「死」が右腕を振り上げる。

 変異個体は、白と赤が混在する長槍を、強く地面に打ち付けた。


「がァ――っ!?」


 地面が抉れ、爆風が襲い掛かる。アジナは為す術もなく、後方へ吹き飛んだ。二、三度と背中を地面に打ち、苦痛に顔を歪める。全身を石に引っ掻かれた。

 床を滑った先。すぐ傍には、同じように横たわるハンスの姿があった。


「く、そ……」


 拙い。このままでは、二人とも殺される。同じ場所にいては駄目だ。救助が来るまでの間、どうにかして時間を稼ぐ必要がある。ハンスは今、動けない。なら、自分が無理にでも敵の気を逸らし、一分一秒でも長く生き残るしかない。


「……もう、いい」


 起き上がろうとするアジナに対し、ハンスが隣で、言った。


「お、俺を囮にして、さっさと逃げろ……」


 今度は、アジナが唖然とした目でハンスを見た。


「なんだよ、それ。……今までの、謝罪のつもりか?」

「違う。そうじゃ、ない。そうじゃ、ないんだ……」


 首を振る気力もないのだろう。ハンスはただ、後悔に塗れた顔で、続けた。


「あいつは――俺が、呼んだんだ」


 感情が消えた。幸か不幸か、オールドナイトに対する恐怖も薄れた。代わりに、抑え難い疑問が脳内を占める。――待て、おい。コイツ、今、なんて言った?


「お前を退学させるために、俺が用意した魔物なんだ。たとえお前がスフィリアを仲間に引き込んだとしても、勝ち目が無いような相手を選んだ。――それが、あいつなんだよ」


 気力を振り絞り、ハンスは訥々と真相を告げる。

 そんなこと、可能なのか。アジナたちよりも遥かに早く探索を開始し、攻略し、この層に訪れて。オールドナイトを起動し、この場に誘導する。普通に考えれば無理だ。実現するには、膨大な時間を要する。――もしかして、『変動』後の迷宮の中身を、知っていたのか? 仮にそうだとすれば、短時間で条件を整えることも、不可能ではない。


『どうするの?』


 景色が変わる。迷宮の内装が、黒一色に塗り替えられる。


『結局、最後の最後まで、この男のせいだったわね。……自業自得じゃない。自分のしたことなんだから、自分の命で精算する。当然のことよ』


 暗闇で、その声はアジナの感情を揺さぶろうとする。

 アジナは無言で佇んでいた。


『……ねぇ、あなた。気づいているんでしょう? 私が、聖剣だってこと。これは、あなたが待ちに待った試練よ? なのに、無視とはあんまりな話じゃないかしら?』


 声の主が、自らの正体を告げる。

 だが、知っていたことだ。過去にこのような経験はない。しかし、第六感が。強いて言うならば勇者としての感性が、彼女を聖剣だと断定する。

 確かに彼女の言う通り、これはアジナにとって、待ちに待った機会だ。

 けれど、何故だろうか。高揚感はない。

 鏡の前で、未熟な自分と向き合っているような気分だけが、渦巻いていた。


『憧れていたのでしょう? 喉から手が出るほど、欲しいのでしょう? だったら、私の言うことを聞きなさい。――その男を囮にして、逃げるのよ』


 悪魔の囁きか。天使の導きか。名も知らぬ声の主は言う。


「……それが、試練なのか?」

『ええ。難しいことでは無い筈よ。……それに、聖剣だって命あっての物種だもの。大切な使い手の命を、護ろうとすることはおかしいかしら?』


 甘美な言葉だった。

 全てが正論だ。提案の根拠も、その正当性も。声の主は、その選択肢が間違っていない理由を延々と述べる。狂気はない。論理的で理知的な考えだ。


『……今まで、よく頑張ってきたわね。けれど、もう大丈夫よ。これであなたは、念願の力を手に入れることができる。……さぁ、早くここから逃げましょう?』


 背後から、真っ白な二本の腕が伸びる。首を覆うそれは暖かく、すぐ傍からは優しい香りがした。首筋が少しこそばゆい。誰かの髪が、肩に乗っているようだ。


「――お断りだ」


 振り向くことなく、アジナは答えた。


『あなた、言っている意味、わかってる?』

「わかってる」


 次は即答する。これ以上、彼女の戯言に付き合う気はない。


「確かに、僕は聖剣が欲しい。けど、聖剣に媚びるつもりはない。それに――僕が欲しいのは、最高の聖剣だ。君じゃないんだよ」


 思い出せ、あの業火に囲まれた日のことを。

 あの日の光景が頭の中で蘇る。焼けた大地。焦げ落ちる草木。真紅の災厄が、全てを包み込んだあの日。自分は、何を見た? ――その全てを、覆す力を見た。

 決めたのだ。今ではない。あの日から決意していた。絶対に、諦めないと。


『あは、あはははは! 言うじゃない!』


 心底愉快そうな笑い声が、頭に響いた。


『――なら、見守らせてもらうわ。精々、頑張りなさい』


 首元から腕が離れ、温もりが消える。優しい香りも遠退く。でも、それでいい。振り返り、呼び戻すような真似だけは絶対にしない。


「ハンス」

「……なんだよ」

「死んで終わりと思うな。それで納得するのは、お前だけだ。……罪悪感があるなら、生きて報いを受けろ。そうだな……奴隷だ。暫く僕の奴隷になれ。それで許してやる」

「は、はははっ。……いいぜ。生きて帰れたら、好きなように使ってくれよ」

「あぁ。今までの恨み、存分に晴らしてやる」


 世界が彩りを取り戻す。緩やかな時の流れは正常に戻り、巨兵の放つ威圧感が蘇る。

 ハンスは、口を挟むことを止めた。全てを頼る代わりに、全てを委ねたのだ。ハンスが決めた覚悟を無駄にはしない。自分の死は、ハンスの死でもある。

 力強く、自身の左胸を叩いた。

 心臓よ動け。鼓動よ加速しろ。――震えよ止まれ!


「行くぞおおぉおぉおぉおおおぉおおぉお――ッッ!!」


 ピシリ、と胸元で、何かが割れるような音がした。

 絶対的強者の咆哮に混じる、弱者の咆哮。ただの剣を構え、アジナは疾駆する。

 できる限り、三体の巨兵を常に視野に収める。立ち回りに注意するべきだ。どの方向から接近して、どの方向へ離脱するのか。その際、相手はどの位置にいるのか。何を目的に動こうとするのか。自分が与える影響は? 相手が取る反応は? 全てを予測する。


 巨兵の動きは鈍い。だが、数でそれは補われる。単純に計算して、視野が三倍になっているわけだ。全体の撹乱は難しい。なら、三体の「和」を乱すか?

 個々を撹乱する。そうすることで、全体の足取りを鈍らせる。


「おおぉぉぉぉおぉおおぉぉぉぉ――ッ!!」


 重圧は、声を出して吹き飛ばす。

 全体の視線を引き付けるべく、三体の中心へ向かう。手前の変異個体が槍を構えた。移動よりも先に、攻撃が来る。回避か防御か――あの重たい攻撃を防御できる筈がない。限界まで動きを目視する。五感と本能は回避へ。思考と理性は、次の推測へ専念する。

 長槍は回避し、その後、放たれる衝撃波をも回避する。片腕を顔の前に置き、飛び散る石礫から守る。同時にアジナは、変異個体の背後へ回りこんだ。


『無駄よ』


 二体のオールドナイトが、こちらを睨む。兜から覗く火の玉のような瞳が、揺れたような気がした。右の巨兵に狙いを絞り、外回りに接近する。しかし、目の前で長槍が横に薙がれた。首の高さに振るわれたそれを、屈むことで回避する。

 目の前から、鋼の塊が接近していた。


「ご、ぁ――っ」


 巨兵の蹴りがアジナに直撃する。左腕の感覚と、剣の鍔を失った。

 良かった。死んでいない。なら問題無しだ。


『無理よ』


 起き上がった直後、目眩がして体勢を崩した。左に倒れそうになる。その時、何かが横合いを通り過ぎるのを感じた。――刹那、強烈な爆風が全身を襲う。

 だらしなく伸びた右腕で、剣を地面に突く。床を滑っていた自分の身体が止まり、霞んだ視覚で、先程自分がいた位置を見た。巨大な槍が、地面に突き刺さっている。捲れ上がった床の傍から、自分が倒れているこの位置まで、真っ赤なレールが伸びていた。

 剣を杖代わりにして、アジナは起き上がった。


「――っ!!」


 変異個体が、ハンスに狙いを定めている。骨の軋みを感じながら、アジナは走った。


「こっちを、見ろォ!!」


 右腕だけの、見るに堪えない拙い剣筋で、赤い甲冑を斬りつける。

 バキン、と――刀身が、真ん中から折れた。

 赤い巨兵が、ゆっくりと振り向く。そうだ、それでいい。お前の相手は僕だ――口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべてみせる。

 真紅の波動が、アジナを吹き飛ばした。


「あ、ぁ……」


 変異個体を中心に、爆心地のようなクレーターができていた。瓦礫諸共、壁に打ち付けられたアジナは、呻きながら立ち上がろうとする。

 しかし、力が入らない。


『まだ、やるわけ?』


 時が止まり、静寂の世界が訪れる。随分と久し振りな気分だ。一瞬一瞬が、命を失いかねない瞬間なのだ。それだけ、濃度の高い一秒を送っていたのだろう。


「うるさい、な。見守るんじゃ、無かったのか?」


 痛みが消えている。問答を妨げる要素は、排除されるらしい。

 ここは現実。けれど、別の世界でもある。痛みは向こうの世界のモノだ。


『このままだと、死ぬわよ』

「死なないかもしれない」

『頼りの仲間も、間に合いそうにないわね』

「間に合うかもしれない」


 暗闇で、意味の無い問答が繰り返される。


『ねぇ、あなた。どうして、そんなに頑張るの?』


 その問い掛けは、これまでのそれとは少し違った。軽快で、人を小馬鹿にするような口調ではない。慎重な物言い。だからこそ、アジナも簡単には返答できなかった。

 そう言えば、と思い出す。先日、あの銀髪の少女も、同じことを聞いてきたものだ。

 暗闇の世界が、少しずつ明るさを取り戻す。

 表と裏。二つの世界が、重なりつつ在る。


「……最高の聖剣とは、なんだろうか」

『は?』


 誰かに向けたものではない。しかし語り掛けるよう、アジナは言った。


「どんな作品よりも美しく、どんな武具よりも頼もしい。あらゆる神秘を司り、森羅万象にさえ届き得る存在。それが聖剣だ。けど、その上で更に最高峰のモノとなれば、それは一体、どんなものなのだろうか。……答えは、かつての英雄たちが示している」


 言葉を紡ぐアジナに、聖剣は黙った。

 どこか、満足そうな雰囲気が伝わる。だが、アジナは口を止めない。

 そう難しい話ではなかった。ただ、決意を口にすればいいだけだ。ずっと、ずっと、何時如何なる時も頭の中に在ったのだから、言えない筈がない。


「剣聖オルガが使っていた、聖剣ベルスリュート。竜騎士ラグナが使っていた、聖剣マグナイース。そして、血閃騎カティナが使う、聖剣ラフェストラ。これらはまさに、最高の呼び声が高い聖剣だ。……しかし、なら何故それらは、最高の評価を受けているのか。切れ味か、色合いか、それとも拵えられた装飾か? ――いいや、違う」


 続ける。核心に迫る回答を、丁寧に吐き出す。


「それらの共通点は、ただ一つ。――使い手が、英雄であることだ」


 暗闇に、自分の声が響いた。


「鈍らでも、人々に賞賛される剣がある。無骨でも、人々に羨望される剣がある。最高の聖剣は、それに相応しい勇者が手にすることで、初めて成り立つモノなんだ」


 最高の聖剣とは、何なのか。それを手に入れるためには、どうすればいいのか。

 そのために自分は、何をしているのか。

 少しずつ、元の世界に戻りつつある暗闇の中。アジナは立ち上がって、告げる。


「最高の聖剣が欲しい。だから、僕は――最高の勇者になる」


 絶対に退かない。絶対に諦めない。

 最高の勇者になるために、あの日からずっと、決めていたことだ。

 言いたいことは全て言った。これで聖剣も満足だろう。認めてくれたことは嬉しい。けれど、その想いに応えることはできない。自分は退かないと決めたのだから。ハンスを見殺しにしなくては、手に入らない聖剣……そんなモノに、興味は無い。


 時が動く。彩りが還る。全身の痛みが、返って来る。

 だが、これまでの「回帰」とは何かが違う。引き戻されるような感覚はない。暗闇で手に入れた感触が、引き継がれている。――二つの世界が、重なっていた。


「――え?」


 真っ先に疑問を抱いたのは、巨兵が動かないことに対してだった。時の流れは元に戻っている。光景も、表の世界そのものだ。しかし、巨兵は一歩も動かない。甲冑の隙間から覗く目玉は、どこか、怯えているようにも見えた。


 何に怯えている? いや――何を見ている?

 巨兵たちの視線を追って、漸く、アジナは気づいた。

 ピシリ、ピシリと。音を立てて割れるソレを。

 胸元で、真っ白に輝くソレを――。


『――乖離石』


 現実の世界で、女性の声が響く。両肩に彼女の腕が乗っていた。温もりと、安らかな香り。そして、頼もしい力を、間近で感じる。

 襟元から飛び出た、銀色のネックレス。

 その先端についている宝石を、彼女は掌で、アジナの目の前に持ち上げた。


『三大魔石が一つ。人間の、魂の系譜に働きかける、悪魔の器具。あなたはこれを、ずっと身に着けていたのよ。……初めてこれを付けた頃、何度も気を失ったでしょう?』


 真相が告げられる。信じられる、ワケがない。

 だが、すぐにアジナは、核心へと至った。

 人類の力の源である『生命の根幹』。乖離石は、その一端である魂の系譜を、削り取る効果を持つ。三分の一とは言え生命の源だ。満足に生きられる筈がない。魂が強く輝けば輝く程、この魔石はより多くの力を吸い取ろうとする。だから――いつも、アジナは戦う度に、邪魔されてきた。魔王が生み出した、この魔石によって。


 このネックレスを初めて付けたのは、あの日、業火の中でのこと。アジナはそのまま一ヶ月近く、目を覚ますことなく眠り続けた。目が覚めても、気絶と覚醒の繰り返しだ。歩けるようになるまで、長い時間を要した。同年代の友人たちは、その間に、次々と成長していった。自分はその後姿を、窓を通して見ることしかできなかった。

 それは苦痛の連続だった。それは、悪夢でしか無かった。

 けれど――聖剣は笑う。アジナも笑う。


『魔王は人類の強さを砕くために、魔石を創造した。けれど、一つだけ誤算があった。時に、人間は――追い詰められるほど、強くなる。削られたら削られるだけ、更に力を増そうとする。……魔王はそれを知らなかった。だから、勇者に負けた』


 世の中の全ての人間が、その力を宿すとは限らない。だが、極稀にいる。圧倒的な脅威にも、耐えうる精神を持つ人間が存在するのだ。彼らは、どんな苦痛にも、どんな誘惑にも負けない。情けなく、惨めに醜態を晒しながらも、生きて、生きて、生き抜いて――強くなって返って来る。それが、人間の持つ、進化の強さだ。


『魔王は滅び、勇者は崇められ、そして魔石は――現代に引き継がれた』


 戦禍に包まれ、混沌を耐え忍び、残された世代。

 魔王の敗因である、その石は――現代の勇者に、託された。


『勇者アジナ。あなたは、七年にも渡りその石を身に付けてきた。それは愚行と呼ぶに相応しいのだけれど――決して、無駄ではない。自らの意志で、魔の力を退けたこと。それは勇者にとって、何にも勝る宝となる。長い間、あなたは失い続けてきた。だから、今のあなたには――その全てを取り返すための、とても強い力が宿っている』


 この七年間の記憶は、きっと生涯、色褪せることはないだろう。

 長い間、苦しめられた。ベッドの上で覚醒と気絶を繰り返す日々。気がついたら、立ち上がっても倒れないくらいには回復して。それからは、歩く度に気絶する日々があり。走る度に気絶する日々が生まれ。やがて、剣を握る度に気絶するようになった。


 回復は順調だと思われた。――だが違った。

 アジナの魂が、乖離石に対抗するべく、強くなっていたのだ。

 如何なる困難にも耐え得る人間――即ち、英雄。アジナが掲げる、最高の勇者像。その入口を垣間見る。


 自分を誇らしく思える日が来るなんて、想像もしなかった。

 乖離石が、その役目を終える。アジナの魂の強度を、限界まで引き上げて、ソレは遂に砕け散った。恩人から受け取った、大切な代物。光の粒子と化して、空気に溶けていく宝石を前にする。

 そしてアジナは、自らの内側に蠢く、膨大な力を感知した。


 最高の聖剣を、手に入れたい。その一心で、ここまで辿り着いた。諦めないと決意したから、どれだけ魂を削られようと立ち上がって来た。その酬いが、漸く支払われる。

 乖離石でも削りきれなかった、強靭な魂が此処にある。


『さぁ、解き放ちましょう。今まで眠らせていた、あなたの魂を』


 感じる。自分の内側に存在する、生命の大樹を。養分を奪われ、伸びる枝葉は全て切り取られ、燻り続けていたその生命力が、今、解放されようとしている。根は、これまで以上の脈動を始め、枝葉は瞬く間に伸びていく。繁栄を妨げるモノは何も無い。アジナ=ウェムクリアの魂は、際限なく膨れ上がっていく。


 眼前で、変異個体のオールドナイトが雄叫びを上げた。纏わり付く恐怖を拭うように大きく叫んだ巨兵は、明確に、アジナを敵として定める。槍の鋒をこちらに向け、巨兵は地面を踏み砕きながら、接近してきた。


『そうね。取り敢えず――睨んでみなさい』


 迫り来る巨兵に対し、アジナは眦を吊り上げ、敵意を向けた。

 魂が、意志を増幅する。通常ならば、到達できない高みへと導かれたアジナの魂が、膨れ上がり、波動となって外部へ漏れた。信念を糧とした感情が、大気を滑って巨兵へと伝わる。――巨兵が、その足を止めた。のみならず、一歩、二歩と、後退る。


『上出来よ』


 満足そうに、聖剣が言った。


『でも、それだけじゃ倒せない。鍛え抜かれたのは、あくまで魂のみ。形なき力で、形あるモノを壊せる道理はないわ。なら後は――その力に、形を与えればいいだけのこと』


 その言葉の意味を、アジナはすぐに理解する。


「いいのか?」

『ええ。十分よ』

「随分と、ねちっこい試練だったな」

『でもお陰で、あなたを認めることができたわ』

「はっ。言っとくけど、さっきの言葉、撤回しないからな」

『あらそう。なら、意地でも撤回させてやるわ』


 自分も巨兵も動かない。時が止まり、全てが硬直しているようだ。

 嵐の前の静けさが、次は自分を中心に巻き起ころうとしている。


『誇り高き勇者よ。その揺るがぬ意志に。抗う勇気に。そして何より、研ぎ澄まされた魂に。全霊の敬意を表すると共に、ひとつの誓いを立てましょう』


 聖剣は唱え、アジナは聞き届ける。

 自分が応える番は終えた。なら次は、聖剣がそれに応える時だ。


『勇者アジナよ――あなたを私の、使い手として認めるわ』


 瞬間、あまりにも膨大な力が、アジナに流れ込んだ。

 歩くだけで身体が破裂してしまいそうな、圧倒的な力の奔流が、内側で暴れ回る。天空を切断する力が。大地を断割する力が。血潮に混じって駆け巡る。その気になれば、簡単に人を殺せる力だ。――でも、暖かい。こんなにも優しい力を、誰か怖がろうか。

 一切を抑えず、全てを制する気概で応えねばならない。

 けれど、その強大な力を前にして、笑わずにはいられなかった。


「凄いな」

『凄いのはあなたよ』


 互いが互いを、認め合う。

 黄金の輝きが、アジナの右腕に収束する。天蓋の星々が、一点に集うような、幻想的な光景だった。肩に乗せられた腕が消える。その腕は、剣となってアジナの掌と重なる。

 煌めきが一層強くなる。アジナを介して、遂に、ひとつの聖剣が現界した。

 照らされたその顔を、目の前の巨兵に向ける。


 刹那――アジナは剣を抜いた。

 目にも留まらぬ速さで、オールドナイトに肉薄する。二歩もいらない。一歩で十分。床を踏み抜き、低空を飛ぶようにアジナは疾駆する。強烈な衝撃波によって、踏み抜かれた床には亀裂が走り、破片が空中へ飛び散った。その破片が、地に落ちるよりも早く、アジナは巨兵の目の前へと辿り着く。その火の玉のような瞳は、まだアジナの姿を認識していない。遅い――いや、自分が速過ぎるのか。

 そして、アジナは、斬った。


 続く一歩で、巨兵の身体を縦に割る。僅かに硬い手応えがした。だが、抵抗はなく、アジナの剣筋は滑るように、巨兵の頭蓋から股下へと辿る。

 飛び散る破片が、漸く床に落ちる頃。

 分断された巨兵の身体が、それぞれ左右に倒れ伏し。

 その背後に佇むアジナの右腕には、一振りの剣が握られていた。


「これが――」


 ――聖剣。


 白く聖なる衣を纏い、常に煌々と輝く、聖なる剣。

 勇者にのみ与えられた、魔を打ち払う力。それが今、自らの手にある。

 第一階梯の聖剣は、特徴が薄い。だが、その剣だけは異なった。形状も見た目も、一瞥する分には他の例に漏れない。しかし今、この手に握る聖剣は、他の剣と比べて、格の違いのようなモノを見せつけている。美しい銀色の刀身や、均整の取れた形。そして黄金の輝き。目を凝らせば凝らすほど、違いがわかる。剣としての完成度が高い。存在感がまるで違う。この剣には、第六感に働きかける何かがあった。


 感激はそれほどない。心は踊らず、寧ろ静まり返っている。

 圧倒的な力を手に入れたことで、覚悟と使命感が浮き彫りになった。精神に余裕が生まれ、冷静でいられる。己を突き動かすのは、魂に刻まれた決意のみ。渇望が叶えられたからこそ、その持続に専念する。――これは、最高の勇者で在るための、闘いだ。

 まるで世界が静止しているようだ。これまでにないほどの回転をしてみせる思考に、頭が処理しきれないほど広がっていく視野。巨兵の動きが赤ん坊よりも遅い。かつてない集中力がアジナに見せたのは、静寂の世界だった。


『来るわよ』


 聖剣の声に、アジナは剣を真っ直ぐ構える。死骸と化した巨兵を踏み越えて、別の巨兵がアジナへ接近した。振り上げられた長槍を、アジナは刀身の腹で受ける。


「軽い――」


 この剣も。巨兵の槍も。何もかもが軽い。まるで、羽を振るっているようだ。


『そのまま。横に流して』


 身体を左へ流し、剣を右に流す。巨兵の槍が、アジナの右隣に降ろされた。目の前には巨兵が伸ばした腕がある。アジナは屈んで、肘の内側にある鎧の隙間を突いた。剣が通った感覚を確かめつつ、そのまま、肘から掌の方へ刀身を翻す。

 腕を斬られた巨兵が、呻きながらも左腕でアジナを押し潰そうとする。それを、背後へ回るように避けたアジナは、眼前に、無防備な鉄の塊を見た。


「――今」

『――今』


 二人の声が、重なり合う。

 次の瞬間、巨兵の胴体が斜めに切断された。

 二つの鉄塊が、綺麗な切断面を残して地面に転がる。その斬撃は薄汚れた甲冑を斬るだけでは物足らず、床を滑り、やがて壁に大きな爪痕を刻んだ。


「……すげぇ」


 遠くから、ハンスの感心した声が聞こえてくる。

 残りは一体。赤い巨兵――変異個体の、オールドナイトだ。

 その実力は未知数。通常の巨兵を容易く倒せたとしても、変異個体も同様に倒せるとは限らない。それはゴブリンとの一戦にて、十分、学んでいる。


 赤い巨兵が吠えた。大気を揺らし、全身に殺気が突き刺さる。

 陽炎のように揺らめく巨躯を小さく丸め、巨兵は槍を前方に突き出した。長槍の先端に赤い粒子が集う。穂を中心に空間が歪み、その度合が増す毎に、放たれる圧力も増す。やがてそれは震動となって部屋中へ響き渡り、アジナの全身にも伝わった。

 先程、アジナが吹き飛ばされた、赤い波動による攻撃。間違いなくアレが来る。通常のオールドナイトには存在しない特殊な攻撃手段だ。それだけに威力は計り知れない。

 だが、恐怖は無かった。


「防げる?」


 冷静に、相棒へ訊く。


『防ぐ? 何を馬鹿なことを言っているのかしら』


 返ってきた言葉には、どこか冷笑が含まれていた。

 一瞬、意味を理解しかねたアジナだったが、すぐに察した。ほくそ笑み、無言で聖剣を前方へ突き出す。


『思いっきり、貫きなさい。どんな脅威があったとしても、あなたと私なら、必ず全てを乗り越えられる。――あなたが最高の勇者である限り、私は最高の聖剣よ』


 揺らめく赤い影と、真正面から対峙する。

 業火に囲まれたあの日の光景が、脳裏を過ぎった。あの時ほど、力に焦がれたことはない。あの時ほど、無力を嘆いたことはない。七年という決して短くはない、自分にとっては狂おしい程の時が過ぎた。決意のみで突き進んできた日々。自らの渇望に責め立てられる毎日。周囲への劣等感。悪意への嫌悪感。ありとあらゆる物事と戦い、時に勝ち、時に負け、それでも耐え続けてきた。――そして今、過去との決別が迫っている。

 瞼から、熱い何かが零れた。それは頬を伝い、顎先へ流れ、足元へと垂れ落ちる。


『前を見据えて。意志を込めて。自信を持ちなさい。――想いの刃は、裏切らない』


 アジナの背中を押すように、聖剣が力強く告げる。

 無数の光の帯が、優しく腕を包み込む。

 滲む視界の中、アジナは唱えた。


「――穿(つらぬ)け」

『第二階梯、解放――』


 一際眩しい輝きが、一帯を照らした。

 光に包まれていた右腕が、徐々に露わになる。

 細く長く、丹精な模様が拵えられた金色の刀身。捻れた銀が螺旋を描くような鍔。白と金と銀、三色が混在する柄は、遠目から見れば宝石そのもの。各々の自己主張が控えめだからか、その剣は、絢爛豪華でありながら、清楚な雰囲気を醸し出す。剣よりは長く、槍よりは短い。繊細なその外見は、触れるだけで手折れてしまいそうな、一輪の華を彷彿とさせる。だが、そんな見かけとは裏腹に、嵐のように荒れ狂う力を感じる。外見ほど複雑な代物ではない。この剣は純粋に、力の塊を凝縮したモノだ。


 赤い巨兵が、その巨躯を揺らしながら、アジナへと迫る。

 迫り来る巨人を見据えて、アジナは膝を曲げ、腰を捻った。

 柄を握る右腕を腰の位置へ。左腕を右腰へ伸ばし、二本の指で刀身を鍔から鋒まで撫でる。指の動きに合わせて、刀身の根本から先端に燐光が灯された。同時に、聖剣を覆う光の束が、渦を巻いた。最初は荒々しく、次第に穏やかに。柄から鋒までを、薄く包み込むように光は集束する。溢れ出していた聖剣の力が、更に圧縮された。


 巨兵が、真紅の槍を解き放つ。

 紅蓮の刺突が、爆風で地面を刳りながら、アジナの元へと突き進んだ。赤い太陽が迫っているような、その光景。アジナは呼気を放ち、そして――。


 ――金色に輝く聖剣を、真っ直ぐ突き出した。


 ヒュン、と風を斬る音がする。

 同時に――或いは、それよりも先に。光の閃光が、巨兵の胸を穿った。

 迫り来る衝撃波を一瞬で霧散させ、向けられていた長槍を先端から塵へと還し、赤い甲冑を貫いた光線は、尚も勢いを緩めること無く、迷宮の壁面へと突き刺さる。

 破壊音は一切響くことなく、光が通った跡には、何も残らない。光線が大気に溶けた頃には、巨兵の胸と、迷宮の壁面に、拳三つ分の穴が在るだけだった。

 人型を成していた金属の塊が、音を鳴らして床に転げる。

 今、最後の巨兵が、倒れた――。


「……」


 戦いは終えた。自身が落ち着くと共に、聖剣の輝きも大人しくなる。

 静かだ。つい先程まで死闘を繰り広げていたというのに、今は平穏を感じている。荒々しかった空気は既に消えており、迷宮の中とは思えない、平和な時が流れていた。


『撤回する気になったかしら』


 聖剣の声が、頭の中に響く。


「……さぁ、どうだろ。でも、まぁ、満足だ」


 虚空を眺めながら、アジナは応えた。

 不思議な気分だ。骨は軋み、肉は断絶し、全身が悲鳴を上げている。しかし、程よい疲労感と、全力を絞り出した後の爽快感が、それらを打ち消している。もう、一歩も動けない。それほどまでに力を出し切ったのは、果たして何時ぶりか――。


「ありがとう」

『どう致しまして』


 無意識の内に零れた言葉に、聖剣は返す。

 安堵の息を吐く。――直後、身体が大きく傾いた。意識は朦朧とし、身体の奥底から溢れ出していた力も唐突に途切れる。疲労感が閾値を超えて、頭の回転が停止した。


『限界ね。身体の方もそうだけれど、魂の方も、反動が来ている。……暫く休みなさい』


 その場で倒れ、冷たい床を頬で感じ取るアジナに、聖剣は優しく告げた。

 黄金の聖剣が己の手から消えていく。だが、決して失ったわけではない。あくまで、自分の中に還っただけだ。胸の奥が温かい。安心できる。心残りも、後悔もない。これまでの乖離石による強制的な昏睡とは、全てが異なった。最早、この疲労感に抗う理由はどこにも無い。アジナは、休息を求める己の本能に、身を委ねる。


『それじゃあ、最後に一つ。良いことを、教えてあげましょう』


 意識を失う直前、聖剣が、含みのある声色で言った。


『あなたが今まで聖剣に選ばれなかったのは、あなたの魂が強過ぎるからよ。……皆、尻込みしていたの。自分如きじゃ、あなたの足手まといに成り兼ねないって』


 戦闘中、なんとなく考えていたことだ。

 恩人から手渡された宝石が、乖離石であるという真実は飲み込めた。しかし、ならば何故、自分は今まで聖剣に選ばれなかったのか。聖剣は、より強い勇者に使われること本望としている。ならば、人一倍魂が強いアジナを選ばないのは、筋が通らない。

 その回答が。もうひとつの真相が、今、明かされた。


「……はは、はははっ」


 なんてことはない。その、あまりにも下らない真実に、アジナは力無く笑う。


『ショックで気でも触れた?』

「いや」


 笑いながら、アジナは否定した。


「聖剣も、そんな風に考えるんだな……って」


 その言葉を最後に、アジナはゆっくりと瞼を下ろした。


『……お休みなさい。小さな勇者さん』


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