最高の聖剣(6)
「――っ!!」
落ちる。落下する。このままでは、死ぬ。
全身に強烈な風圧を感じながら、アジナは瞼をこじ開けた。
渓谷の底はまだ見えない。咄嗟に、腰に吊るしていた小さな袋へ手を伸ばす。口を開いて中身を取る余裕はない。アジナは身体を捻り、袋そのものを直下へ投げ飛ばした。
遠くで、キィン、と不思議な音がする。直後、アジナを包み込むように、柔らかな風が巻き上がった。耐衝石の効果だ。アジナがこの先、受けるであろう衝撃を少しでも緩和するべく、破砕した耐衝石の欠片が、上方向に風を生み出している。背中からの重力。前方からの風。アジナは腕を交差し、身体を丸め、どうにかそれらを耐え凌いだ。
徐々に全身に掛かる負荷が消え、身体はゆっくりと降下する。
両足を地に付けて、アジナは無意識の内に止めていた呼吸を再開した。
「……持ってきておいて、本当に良かった」
足元の巾着を見て、アジナはポツリと呟いた。
「結構落ちたな。どこだろ、ここ……」
上を見上げても、何も見えない。真っ暗だ。左右を見渡せば、自分よりも先に落下した岩の破片と、元からそこにあったらしい、地味な植物。
そして、何者かの足跡。
「うわっ!?」
再び大きな地響きが起きた。
だが、それは先程のモノと比べ、更に大きい。――いや、違う。自分が、震源に近づいたのだ。あまりの震動に、アジナは尻餅をつく。
「……近い」
何があった。或いは、何か――いるのか?
震源の方へと足を伸ばす。だが、ふと、その足を止めた。どこからか声が聞こえる。人間の呻き声だ。恐る恐る、アジナはそちらへ向かう。
足跡の先には、一人の男子生徒がいた。
「誰か、いるのか……?」
頭部から血が垂れている。意識が朦朧としているのか、視覚が正常に働いていないようだ。見れば身体も傷だらけで、その生徒は座り込み、片腕を抑えながら呻いている。アジナはその姿を見るなり、すぐに掛け寄って傷の様子を確かめた。
「あぁ、すまねぇ。目に血が入って、見えねぇんだ……」
「……大丈夫。死にはしない。待ってて、今、手当てを――」
「いや、いい……」
掠れた声で拒否される。アジナは眉間に皺を寄せた。
「それよりも、早く、俺を連れて――」
再び、大地が揺れ動いた。三度目の震動。だが、それに混じり、何かが聞こえたような気がした。地響きだけではない。何か、大きな叫び声のようなものが。
「あ、あぁ、あぁぁっ!!」
目の前の生徒が、恐怖に顔を歪ませる。そして、傷だらけの身体に鞭を打ち、這いずるように、震源から離れた位置へと逃げようとしていた。その只ならぬ様相に、アジナは一瞬だけ気圧される。だが、すぐに事態を把握した。
震源の方へ、身体を向ける。
何か、そこにいるのだ――。
「何が、いるんだ」
「早く。早く、逃げないと……」
「何がいるんだ!」
逃げようとする生徒に、アジナは怒鳴りつける。生徒は、驚いたように肩を跳ね上げたが、すぐに絶望した表情に戻り、震える唇で告げた。
「……オールドナイトだ」
「オールド、ナイト……」
知らない名では、無かった。
迷宮『霊樹の墓』でも、一際強力な魔物だ。その強さはゴブリンや、ウィップモンキーの比ではない。力も硬さも素早さも、何もかもが桁違いだ。
「まさか、起こしたのか……?」
オールドナイトは、基本的に眠っている。先程、橋の上で交戦した蝙蝠型の魔物と同じだ。オールドナイトは特定の場所に位置取り、自分からは決して動かない。探索者が近づかない限り、オールドナイトはただの石像のようなものだ。オールドナイトは交戦しなくとも、遠回りすれば簡単に回避することができる。迷宮探索において、オールドナイトを態々自分から起こすことは、自殺行為に等しい。
だというのに、この男は――。
「……あぁ。起こした」
自業自得だ。高等部一年の生徒で、どうこうできる相手ではない。
「早く、逃げないと。……あいつは、巨体だ。階段を上ることは、できない」
上の層へと、男は逃げようとする。だが、その動きではいつになるかわからない。困惑するアジナは、咄嗟にその男の肩を担ぐ。自分も早く、逃げなければならない。
その時、背後から、悲鳴のようなモノが聞こえた。
「今のは……」
確かに人の声だった。その声は言葉を発していた。
「早く。早く。……あいつが、狙われている内に」
助けてくれ――と。後方から、声が聞こえる。
直後、アジナは担いでいた生徒の肩を下ろした。驚愕に目を見開く生徒を無視して、アジナは後方へ振り返る。今のは、幻聴ではない。
誰かが、取り残されている。
「お、お前、何を……どこに行く」
「助けないと」
「馬鹿、野郎……奴は、今、俺を見失っている。お前にも、気づいていない。だから、早く、見つかる前に。俺を連れて、奥へ……早く!」
縋るような目つきに、アジナは一瞬躊躇する。だが、振り払った。
「ここに隠れていて」
絶望に浸った男の目を、アジナは真正面から直視する。
「大丈夫。その内、僕の仲間が助けに来る」
そうだ。自分には仲間がいる。ジックにサイカにファナ。何れも、自分とは比べ物にならないほど強い。今は別れているが、彼らならすぐに駆けつけてくれるだろう。
「は、はははっ」
アジナの言葉を聞いて、目の前の生徒は笑い出す。
「な、なんでそんな、自信あるんだよ……」
「自慢の仲間だからね」
「それだけじゃ、ねぇだろ。くそっ……お前、強いなぁ」
「ありがとう。滅多に言われないよ、その台詞」
会話しながら、アジナは剣の様子を確かめる。今日は特に戦闘に参加したせいか、刃に欠けが生じている。ゼリアスが誇る機能性抜群の学生服も、ボロボロだ。
それでも――行く。そう決めた。
「じゃあ、行ってくるよ」
アジナは鞘に手を添え、震源の方へ向かった。
◇
去り行くアジナの後方で、傷を負った男子生徒も覚悟を決めた。
逃げることはできない。こうなった以上、自分に声を掛けてくれた「誰か」の指示に従うべきだ。
視界を蝕んでいた視界が、少しずつ回復する。男は手の甲で、瞼の上を拭った。
そして、復活した視覚で、自分の元から離れていく「誰か」の姿を見る。
「おい、嘘だろ……」
男の霞がかった意識が徐々に晴れる。
去り行く少年の、腰に吊るされた一振りの剣を見つめて、男は、声を震わせた。
「今の……剣無し、なのか?」
その声は届かない。
剣無しのアジナは、決して振り返らなかった。