11話 安心
結ちゃんが落ち着いた後、やはりお湯を沸かしてお茶を作った。
少しまだ話していたいという彼女の希望である。
お互いに温かいお茶が入った湯呑にそっと口をつけて傾けた。
そして一息吐いた彼女は少しの笑みを見せてから言葉を発した。
「私ね、やっとスタートラインに立ったのかもしれない。こうやって夜に落ち着いておっぱいあげられるのも、初めてかもしれない。こんなに夜泣きしたり、私が失敗しても声を潜めなくてもいいのが」
「うん。たくさん暴れていいから」
一軒家だから周りに気を遣うこともあまりない。
気を張ることなく二人には時間を過ごしてほしい。
俺ができることはそれくらいだ。
「結が生まれてから数日はやっぱり出にくかったんだ。でも、一生懸命頑張ったよ。だって二人きりだもん。生きていかないといけないから」
遥さんは結ちゃんの頭を撫でながら話を続けた。
「数日してお金も払ってないんだけど退院したら、安めのホテルで過ごしてたんだけど、やっぱりなかなか出にくくて結構つらかったよ。そしたら、おっぱいがパンパンに張って痛くなって。それがもう、痛くって、痛くって」
「ちゃんと専門家に見てもらって……ないか」
「……本当はちゃんと相談したほうがいいの分かってるけどお金もなくて。ホテルに無料のパソコンあったから自分で調べたよ。打開策を」
お金がないのと病院嫌いが相まって相談はできなかった。
しかし、今トラブルも少なくなっているのは彼女の努力である。
「そしたらおっぱいに熱持っちゃって、氷買って冷やしたり、調べて飲んでいい薬を買ったり、搾ってみたり何とかね。二週間過ぎた位でいい感じに出て飲んでくれるようになったんだけど、ある時飲ませたまま寝ちゃって……飲み過ぎたのか、吐き戻しちゃってさ。いや~、焦ったよ。びっくりだ。多かったのかなってちょっと量減らしたら、次はそしたら次は何もしてないのに出てたり、分泌過多になってね……洋服とかベッド濡らしちゃったり……参ったよ。結は満足したら離すからさ、もうよくわからなくなった。挙句の果てには乳首切って、痛いし血が出て、布に擦れて治らないし。いや~、哺乳類って不思議だ」
彼女は誰にも言えない、相談できなかったことを、専門家でもなんでもない俺に話している。
解決はしなくてもいいから、ただ誰かに話を聞いてほしかっただけだ、と言わんばかりに。
「ある時ね、本当に疲れちゃって。孤独……結がいるから一人じゃないんだけどね。ほったらかしちゃいそうになったけど。やっぱりかわいくてね。目を離せなかったよ」
本当に子供を放置してしまう親もいることは事実だ。
子供から目を離さない、当たり前のことかもしれない。
でも、遥さんは一人で、お金もなく限界ギリギリまで結ちゃんをここまで抱えてきた。
このことは遥さんの結ちゃんに対しての愛情の表れである。
「でも、こうやって話せる相手がいると安心するよ。結のこと見てくれるから、少しは目を離して肩の力抜けるし。ちゃんと育児ができそうだなって。やってあげられることも多くなりそうだし。ありがとね」
澄んだ彼女の瞳は俺の方を向いている。
◇◇◇
「ねぇ、遥さん?」
「なに。優さん」
「自分で言うのもおかしいかもしれないんだけど、知らない兄ちゃんの家に入って怖くないの? 警戒しないの?」
「う~ん、あんまりないかな。むしろ、ありがとうが強いよ」
あまりにも警戒心なく接しているから聞いてみたのだ。
「うん。大丈夫。優さんはいい」
「そうかな?」
「うん。本当だよ」
遥さんの目線は俺から結ちゃんに移った。
「多分、結がこの家を選んだんだと思う。この家がいいなって」
「どういうこと? 結ちゃんが選んだって?」
「あのね、この家にお世話になる前も他の家にもお世話になったんだ。たぶん五回ぐらいは家に入ったかな?」
「どんな人だったの……ってあんまりいい予感はしないな」
ピンポン先が良かったら今ここにはいないだろう。
「ある一人は70代ぐらいのおばちゃんだった」
「ん、まぁ……悪くなさそうだけど……」
「うん、言葉悪いけど、当たりかなって思ったよ……子育てもしてたのかもしれないし安心した。でも、結にべたべた触ってくるんだよ。土いじりした後とかトイレの後とか。何時代だって話だよ」
結ちゃんが寝ているから声量は大きくないけど口調はなかなか強い。
もしかしたら普段はすごく優しい温厚な人柄なのかもしれないが、怒ったら本当に怖いのかもしれない。
今まで言えなかったけど、心の中ではすごく怒りを持ったエピソードである。
「でも、優さんは、結に触るのにわざわざ手を石鹸で洗ってきてくれたじゃん」
「当たり前のことだろ。季節的にも」
「その当たり前ができない人がいるんだよ」
俺の言葉を真似た。
最初に、事情を聞いているときに俺が彼女に言った言葉。
俺があの時言わなくても、彼女の価値観や常識は高い、特に娘である結ちゃんに関して。
「だから、その家には六時間ぐらいで出てきちゃった。挨拶もそこそこにね」
ここまで不愉快な家なのであれば仕方がない。
「ある家にいたのは若い男の人と女の人だった。やばそうだったけど寒かったし入っちゃった」
彼女は震えている、その家で何があったかはなんとなく想像がつく。
「最初は優しくしてもらった。結に危害がなければ、暖かければ、それでいいと思っていたから、怖くても我慢できた。口出しもしなかったからさ、大丈夫かなって」
「……」
「でも、結がギャン泣きで、端っこのほうでおっぱいあげようとしたら……」
「その男が何かしたのか。大丈夫だった?」
「いや、最初に目をつけられたのは女の人のほう……怖かったな……」
「ん。女の人?」
「うん。私もまさか女の人から先に目を付けられるとは思わなかったよ……勝手なイメージなのかな?」
「『おい、姉ちゃんよう、人の家でパイ出してミルクやろうってか。本当はガキは苦手なんだよ』なんて言われちゃって」
物まねでどんな人だったかわかる気がする。
確かに小さい子供が苦手な人は案外いる。
「まぁ、仕方ないとは思っているよ」
「うん。まぁ、うん」
「案外ね、男の人は手を出さなかったんだよ。危ないかなって思ってたんだけど」
「そりゃあ、同居人がいるのに手は出さないでしょ。そこで色目使ったらその同居の女の人と修羅場るよ」
遥さんはクスクスわらってる。
「すごいイケメンだったからそんなことしないのかなって思っていたら、チラチラ見ていた。変な目で。気持ち悪かったよ」
「そっか……嫌な思いしたな……」
◇◇◇
俺の目をまっすぐ見て遥さんは口を開く。
「でもさ、優さんは私のことをそういう目で見てないでしょ。女の人は視線に敏感らしいからわかるよ」
「そうだな」
「うん、目を見ればわかるよ。目がそう言ってる。見られていても気持ち悪くない。私が結におっぱいあげるために出していてもさ、そういう風に感じない」
彼女を見るときに思っていることは、次にどんなトラブルを起こすのかというハラハラ感が強い。
「出していても気にしてないよね。気は使うかもしれないけど。見ていてもチラチラ気持ち悪い感じじゃなくて……ガン見? でも、私じゃなくて結のことだよね、見てるの」
「そうかもな、遥さんを変な目でみることないから。安心してください」
「それは私に興味がないってことなのかな?」
頬っぺたを膨らませている。
そういう若々しくて可愛らしい姿もあることが分かった。
「今はそういう話題じゃないでしょ」
「ごめんごめん、でもお母さん心配だな。若い男性なのに」
俺はもう笑うしかない、かくいう遥さんも楽しそうだ。
少しするとまた結ちゃんのほうに目線を移した。
「でも何よりもここに居たがってるのは結なの」
「うん、ん? どういう事?」
「今までの家ではこうやって泣き止むことはなかったの……私が家をピンポンする前から泣いてたの。いわゆるギャン泣き、いやギャンギャン泣き。もう大炎上」
今日出会ってから結ちゃんがギャン泣きしている姿をまだ見てない。
もちろん泣いている姿は見ているが、赤ちゃんとあまり接したことのない俺の想定範囲内だ。
「でもこの家の鐘を鳴らす時から結は落ち着いていた。ここだって思ったのかな」
「それはよかった」
「でも違ったよ」
「うん?」
手を伸ばして俺の腕に手を添えた彼女は、安心しきった声で言った。
「この家にいる優さんなんだよ」
「俺?」
予想外の答えに声が裏返ってしまった。
「優さんが近くにいないとダメなんだよ、せっかく貸してもらった部屋に入っても泣いちゃったし。まぁ、まだ一か月だからだけど……なんか寂しそうだった。昼はさ、明るかったから怖くないけど、夜はまだ怖いんだよ」
「……」
「でも、今はすやすやしてる。安心してるんだよ。赤ちゃんはわかるんだよ。守ってもらえてるって」
もしかしたら大人には分からない感覚があるのかもしれない。
俺は彼女たちに何かしてやれているわけでない。
ただ、結ちゃんが安心して眠れる場所を提供しているだけだ。
「私さ、人の見る目がないからかな、入れてくれるだけで満足しちゃって……でもそれが結にどれだけ辛い思いをさせてしまってたのかなって。危ない思いもさせちゃったかも」
結ちゃんの頭を撫でながら話している、本当に悔いているようだ。
我が子の身に何かあったらと思ったら。
「でも、守ったんでしょ」
「へ」
「その最初のバーさんは意図的に害を加えるつもりはなかったとして……ほかの変な輩からは自分を盾に指一本触らせなかったんだろ。結ちゃん、お母さん頑張ったね」
「うん……がんばったよ」
「遥さん」
「なに」
「お母さんだよ。結ちゃんにとって、そばにいてほしいと思われる」
俺がそういうとにこっと笑った。




