03 深夜
父の声で起こされたのは、私がベッドに横たわって二時間程度が経過した頃のことだった。驚きつつ目を凝らして壁の時計を見ると、なんと深夜零時を回っている。
「どうしたのですか、お父様……こんな時間に」
「すまない、ジャンヌ。どうしても話したいんだ」
胸の奥でざわざわと嫌な予感がした。
父ダフマンへ、結婚を取りやめたいと話をしたのは昨日の夕食後だったはず。イーサンはとっくにヘルゼンの屋敷に戻っていたし、部屋にはアマンダと父とメイドしか居なかった。
最初は驚いた様子だった父親も、私の不安な気持ちを汲んでくれたのか、最終的には承諾してくれた。もちろん、ヘルゼン伯爵夫妻への誠心誠意の謝罪をするという前提で。
その父が今、ベッドの脇に立っている。
神妙な面持ちで、申し訳なさそうに。
「考えてみたんだが、ジャンヌ……」
「何をです?」
逸る気持ちを抑えて問い掛けると、ダフマンは眼鏡の下で目を左右に泳がせた。何か言いにくいことを口にしようとしている顔だ。
「イーサンほどの好青年を断るのはやはりもったいないんじゃないか?お前があんなに想っていた相手を、こうも簡単に切り捨てるのはどうかと思う」
「私だって申し訳なく感じています。だけど、自分の気持ちを偽って結婚する方がよっぽど失礼だと思うのです」
「どうして急に心変わりを……?」
縋るように尋ねる父の姿を見て胸が痛む。
彼は浮気をするので早めに離縁しておくのです、と答えても誰も信じてはくれないだろう。この非常識な話に信憑性を持たせる、もっともらしい言い分が必要だ。
「イーサンは伯爵令息です。私とは歩んできた人生が全然違う…… ヘルゼンのお屋敷では何十人もの使用人が働いていました。適応出来ると思えません」
これはあながち嘘ではない。
ヘルゼンではクレモルン男爵家の数倍規模の使用人が働いていた。我が男爵家はとにかく余裕がないので、使用人と呼べる存在は平日の昼間に掃除と夕食の準備をしてくれる女性のみ。あとのことは各自が自分でこなす。もちろん、目配せしただけでお茶を淹れてくれるメイドも居ない。
だけど、おかげである程度の料理は出来るようになった。最初こそ失敗をすることもあったが、慣れてからは自分自身がメイドとして働きに出ることも可能なのではないかと自信が持てるほど、上達した。
仕事人間の父はからっきし家事が出来ず、アマンダも何かと忙しそうだったため、男爵家ではほとんど私が料理当番だった。これらのスキルは結婚後多少役に立つのだが、味付けに関しては義母ペチュニアからお直しがたびたび入ったっけ。
本音を言うと、私が適応出来なかったのはヘルゼンの屋敷ではなくペチュニア自身だった。近付けば頭痛を覚えるぐらいには、苦手だったのだ。
「きっとイーサンにはもっと相応しい方がいらっしゃいます。お父様もそう思いませんか?」
「ジャンヌ………」
眉尻を下げて父は困った顔を作る。
だけど私だって引き下がれない。
「実はあれからヘルゼン伯爵夫人から電話があったんだ。破談のことを大層驚かれていたよ。彼らはお前の部屋までもう準備してあったらしい」
「あぁ………それは……」
頭の中で五年の年月を過ごした自室を思い返す。
客室を改装したとされるその部屋は、どう見ても倉庫だった。蜘蛛の巣が張った天井を箒で掃除したのも今となっては良い思い出。
「ジャンヌ……どうかよく考えてほしい」
「結婚のことでしたら無理です。こんな気持ちで式には挑めません。お父様にも迷惑を掛けることは承知ですが、」
「アマンダの学費が必要なんだ……!」
「え?」
予想外の答えに私は言葉を失った。
アマンダの学費?いったい何の学校?
従姉妹のアマンダは私が王都ダリアのアカデミーに進学を選んだ際、短期の音楽学校へ進んでいた。ピアノ奏者になりたいという話だったけれど、一年足らずで中退して、今の勤務先である病院で事務として働いていたはず。
「アマンダは看護師になりたいそうだ。彼女の両親のように不遇の事故に遭った患者を救いたいらしい。前々から相談を受けていたが、資金繰りが難しくて良い返事が出来なかった」
「それが私の結婚と何の関係が……?」
「ジャンヌ、お前の母親……キャサリンはアマンダを実の娘のように思っていた。きっと今回だって力になりたいと考えたはずだ」
「お父様……?」
可能性が浮かんでいた。それでも私は父の口から語られるのを待った。最後の最後まで、自分の勘を信じたくなくて。
「ヘルゼン伯爵家はうちの金銭事情も知っている。援助しようと言ってくれていたんだ。ヘルゼンと婚姻を結ぶことはつまり、我が家の今後の安泰を意味するんだよ」
「私の人生を犠牲にしろというのですね」
小さく呟いた独り言は届かなかったようで、父ダフマンは何度も「本当にすまない」と繰り返していた。
私一人が我慢すれば、家族は救われる。
アマンダは希望の医療学校で勉強をして夢を叶えることが出来る。父はヘルゼン伯爵の機嫌を損ねることなく良好な関係を続けることが可能。
私一人が、この運命を受け入れれば。
「………明日の朝一番にイーサンに電話します。愚かな発言をしたことをお詫びして、予定通り挙式するように伝えます」
「その必要はない。私が夫人に娘を説得すると伝えた。彼らは予定通り式場に来てくれるだろう」
「そうですか……」
父は最初から私が断らないと踏んでいたのだ。
母の名前を出されると、受け入れざるを得ないと。




