30 カモミール
「第三部隊は本日東部で国王陛下の警備に当たっているようです。お戻りは夜とのことですが、列車が遅れているようでして……」
「中で待つことはできますか?」
「団員が不在の場合は、ご家族であっても宿舎内に入ることはできません」
申し訳なさそうにそう言う管理人の男に、私は頭を下げる。門の前で待っていたら、戻ってきたイーサンと少しでも話す機会はあるだろうか。
そんなことを考えながら立っていると、ポツリと頬に何かが当たった。空を見上げれば、小雨が降り出している。屋敷に帰るだけだからと軽装で飛び出してきたことを後悔した。
胃の奥がぎゅっと痛んで、同時に忘れていた吐き気が戻ってきた。ストレスからくるものだと分かっているが、出先で襲われると困る。
息苦しさからお腹に手を当ててしゃがみ込む私の前に、黒い影が差した。
「第三部隊はあと一時間は帰らない。通過駅で事故があって線路の修復待ちだ。こんな場所で待たれると迷惑だから帰れ」
思いやりの欠片もないこの声には聞き覚えがある。わずかに見上げた先には案の定、ユーリ・バレンタインが立っていた。
「……一時間だけお許しください。それ以上掛かるようならば大人しく帰宅します」
「急用か?」
「急用……です」
ユーリの後ろではいつもの大男が立っていて、黒い傘を彼に差している。当の騎士団長は、しばらく考え込んだ後、口を開いた。
「ついて来い」
「え?」
「言っただろう。こんな場所で待たれたら邪魔なんだ」
迷惑だの邪魔だのと言われて内心良い気分ではなかったが、夫が不在と知らずに押し掛けた自分にも非はある。私は前を歩くユーリと大男ゴードリーの後ろをすごすごとついて行った。
突然来たと知ったら、またイーサンは嫌な顔をするだろうか。それでさらに浮気の話なんて持ち出したら、良い反応はされないに決まってる。
落ち込む私をユーリは客室のような場所に案内した。向かい合う二人掛けのソファの間には長方形の机が置かれている。
「ゴードリー、悪いが俺と彼女に温かい飲み物を」
「コーヒーでよろしいでしょうか?」
「いや。カモミールのハーブティーで頼む」
一連の会話を座ったままで聞きながら、私は呟いた。
「意外とおしゃれなものを飲むんですね」
「睡眠の邪魔になるものは避けたい」
「なるほど、」
「それで、用件はなんだ?」
手に持った書類をパラパラと捲りつつそう尋ねるので、どこまで正直に伝えるべきか困った。家庭内のことを夫の上司に明け透けに言うべきではないだろう。それこそ、無駄話となって彼の睡眠時間を削るだけ。
「ヘルゼンの問題なんです。二人で解決します」
「そうか」
幸い、それ以上追求するつもりはないようだった。読んでいた書類を整えて立ち上がるユーリの背中を追いかけながら、いつか海沿いの街で会った際に彼が言っていた言葉を思い出す。
「あの、団長様」
振り返ったエメラルドの双眼を見つめた。
「以前団長様は、周りの人間を信用していないと仰っていました。あの時は分かりませんでしたが……今はその考えが正しいと理解できます」
親しい間柄でもない私を前に、彼は自分なりの人との付き合い方を教えてくれた。疑い続けるのは疲弊するだけだと思っていたけれど、それは一種の防衛でもあったのだろう。
期待して、信頼して。
結果はいつだって変わらない。
「……気付けて良かったな」
「はい。時間は掛かりましたけれど」
何があったとか、どうしたのかとか、そんな質問はなくユーリはただ頷いただけだった。
その時、席を外していたゴードリーがカップを二つ盆に載せて戻って来た。何やらこちらを見ながらそわそわとユーリの方へと顔を寄せて耳打ちする。報告を受けて「そうか」と答える冷ややかな横顔を見守った。
「線路の修復は長引くらしい。第三部隊は途中下車して宿泊するそうだ。今日は帰った方が良い」
「分かりました。教えていただきありがとうございます」
「ヘルゼンに伝言はあるか?」
「………いいえ、また来ます」
飲み物を持ったまま困惑した表情の大男に頭を下げて私は足早に部屋の扉へと向かう。こんな気持ちのままで屋敷へ帰るなんて、と胸の内は落ち着かなかった。だから、部屋を出る際、ドアノブに鞄の紐を引っ掛けて盛大に中身をひっくり返した。
「………っ、すみません、」
散らばったハンカチやペンをおろおろと拾い集める。そばに来たゴードリーも手伝ってくれたが、私は再度頭だけ下げてそそくさと立ち去った。
この時は気付いていなかった。
自分がとんでもない忘れ物をしていたことに。




