26 はじまり2
本当は、心のどこかで期待していた。
一度目の失敗を繰り返すことはないのではないかと。二度目の人生でもっと懸命に夫に尽くせば、その努力を彼も評価してくれるんじゃないかと。もしかしたらあの浮気自体が夢で、私はまだ幸せになる権利があるかもしれないと。
「ジャンヌ!まだ降りて来ないの?」
苛立ちを含んだペチュニアの声が階下から聞こえて、私は我に帰った。
「今行きます……!」
「そろそろ夕飯の支度を始めなさい。常に時計を見ながら動くのよ。そうすれば、」
続く言葉は頭に入って来なかった。
右手に握ったままだったイヤリングを慌ててポケットに仕舞って、私は階段を降りて行く。今日の夕食の下ごしらえをどこまで済ませたか思い出そうとするものの、考えることができない。
「ジャンヌ、どうして返事をしないの。何度も貴女の名前を呼んでいたのよ。バッカスが今日はいつもより早く帰るから、夕飯の時間は早めないと」
「お義母様、」
「それから冷蔵庫の中が片付いていないわ。あんな状態じゃあ何が何処にあるのか誰にも分からないわよ。古くなったものがないか確認はしているの?」
「あの……お義母様」
二度目の呼び掛けで、ようやくペチュニアは喋ることをやめた。怪訝そうな表情でこちらを見る。
私は震える手を握りしめて、その双眼を見つめた。今私が見たもの、感じた思いをすべて打ち明けたらこの人は共感してくれるだろうか。「それは辛かったわね」と慰めてくれる?
「………すみません、体調が悪いのでクレモルンの屋敷に少し帰らせてください」
「なんですって?」
「具合が良くなったら戻ります。どうかご心配なく、週末にイーサンが戻るまでには、」
「待ちなさい!どうして急にそんなことを?水曜日には刺繍仲間がここに集まるのよ。貴女をイーサンの妻として紹介しようと思ったのに」
「ごめんなさい」
ペチュニアが口を開いてさらなる不服を伝えようとしたので、私は胃を押さえながらその傍をすり抜けた。
胸の奥がムカムカする。
内臓がひっくり返ったみたいだ。
倒れ込むように自分の部屋に入って、薬箱を探した。目当ての粉末を見つけて水で流し込む。アマンダにもらった胃薬は効きが良いのに眠くならないから、重宝している。
(お母さん………)
目を閉じればいろいろなものが浮かんでグルグルと回る。ヘザーの挑戦的な視線、イーサンの部屋で見つけたイヤリング、そしてどこまでも追いかけてくる義母の声。
大きく息を吐いて必要なものを手当たり次第トランクケースに詰めると、私は部屋を出た。
◇◇◇
「えぇっ、それで帰って来ちゃったの!?」
「うん………」
アマンダは驚いたように目を見開いて、口を閉じたり開けたりした。前回の訪問からそんなに日は経っていないものの、やはり自分の屋敷は安心する。
「お父様は……?」
「書斎でお仕事をなさってるわ。貴女が到着する前にヘルゼン伯爵家から電話があったみたいなの、話してるのが聞こえたけど」
「きっと良い内容じゃないでしょうね、」
私は俯いて自分の靴を眺める。
ここに滞在できるのもせいぜい金曜日まで。イーサンが帰って来るときは迎えられるようにしないと。何も知らない顔で、お疲れ様と笑うために。
「………ジャンヌ?」
「アマンダ、どうしよう……っ、」
ぽたぽたと涙がスカートの上へと落下した。堪えていたものが堰を切ったように溢れ出る。
やっぱり、こんな結婚断れば良かった。
なんとしてでも破談にして、まったく新しい生き方を選べば良かった。だけどそうしたら、アマンダは自分の夢を諦めることになる。
(いいえ……そんなのダメだわ)
まだ落ち込むには早い。イーサンがどんな気持ちなのかは分からないけれど、ヘザーと名乗る女がこちらに敵意を持っていることは確か。浮気相手の妻に好意があるはずはない。
私が邪魔者ならば、喜んで消える。だけど、イーサンから離縁の話は出て来ない。父ダフマンとの関係なんかもあるから、離婚は望んでいない可能性もある。良いように使える駒が減ってしまうから。
うなだれる私の頬を、白く柔らかい手が包み込んだ。
「大丈夫よ、ジャンヌ」
正面からアマンダを見る。
慈愛に満ちた優しい双眼を覗き込んだ。
「貴女はイーサン様の妻なの。もしそんな無礼な態度を取る女がいるなら、近付かないようにすれば良いだけよ」
「どうやって……?」
「ロゼリア騎士団の上長たちに報告するの。夫に色目を使う女が居るってお伝えしましょう」
「証拠がないわ、それに家庭の話だし……」
困惑する私を宥めるように、アマンダは穏やかに微笑みかける。薄ピンクに彩られた唇が弧を描くのを見た。
「部隊長のリンクスさんを頼ってみて。実は以前病院で会ったことがあって知り合いなの。きっと貴女の助けになってくれるわ」
私の名前を出してね、とアマンダは笑顔で言う。聞けば、彼女が働いていた病院に負傷したリンクスが運び込まれた関係で縁があるらしい。
気は進まなかったが、とりあえず頷いた。宿舎で、ヘルゼンの屋敷で、イーサンは自分の同僚と堂々と逢瀬を重ねていたのだろうか。もしかするとあの晩餐会の夜だって、私の目を盗んで。




