25 はじまり1
「ジャンヌ、まだ食堂に居たのか。僕はもう眠るから後片付けはほどほどに」
「ねぇ、イーサン……」
私は静まり返った食堂の中で、すでにバスローブに着替えた夫と向き合った。来客はとっくに捌けて、部屋の中は人気がない。小さなゴミを拾い集めて掃き掃除をすれば私も眠る予定だった。
だけど、なかなか作業が進まないのだ。
同じ考えがグルグルと頭の中を回って、集中することができない。
「今日来てたお客様はみんな同期なの?」
「いいや。先輩や後輩も居る。仲が良い奴らにはみんな声を掛けたからね」
「髪の短い女性は誰?」
「ヘザーのことかな。彼女は同期で騎士団に入ったうちの一人だ。同じ第三部隊で、女性だけど腕はかなり良い」
それがどうかした、とでも言いたげな目で私を見下ろすので、何も言わずに首を振った。
まだ何も確証は得ていない。
ヘザーという名の女が挑戦的な発言をしたところで、彼女がイーサンの浮気相手だとは言い切れない。もっと、確実な証拠が必要だ。
管理人に聞いた情報では、騎士団の宿舎は男女で棟が分かれていたはず。つまり、容易に出入りは出来ない。
だけどあの日確かに、イーサンの部屋には女が居た。
私は去って行く夫の背中を見送りながら、これからのことを考える。二十歳のジャンヌ・ヘルゼンが取るべき行動は何か。どうすれば夫に近付く女の影を見抜くことが出来るのか。
◇◇◇
結局、目撃したわけではない浮気についてイーサン自身に問い詰めることは出来ずに私は月曜日を迎えた。また一週間、夫は宿舎で寝泊まりをする。
「あぁ……考えるべきことがたくさんあるわ」
手伝わせてほしいと言った以上、商会の仕事でも成果を上げないといけない。やる気があるだけの無能だとバカにされることだけは避けたい。
そしてこれは、無実のベーカリーを守るためでもある。現在の場所で一定の売上を叩き出せば、バッカス・ヘルゼンは移転など考えないだろう。加えて、コリーナ洋裁店と上手く連携まで持っていけようものなら、現在の立地の方が良いとさえ思えるはず。
しかし、問題は時間が足りないという点。
「ジャンヌ」
「はい、何でしょう。お義母様」
私は箒を片手に声の主を振り返る。
廊下の先ではペチュニアと副メイド長のイボンヌがぴったりと寄り添ってこちらを見ていた。
「二階の部屋の掃き掃除は終わったのかしら?」
「はい。イーサン様の部屋以外は、」
「イーサンの部屋も掃除するのよ」
「えっと……しかし、彼は平日宿舎に……」
部屋の主人が居ないというのに勝手に中に入って良いものなのか。返答に困る私の前で、ペチュニアはフンと鼻を鳴らした。
「こういうことってすべて言わないと伝わらないのねぇ。良い?ジャンヌ。使われていない部屋であっても毎日掃除はするのよ。クレモルン男爵がどういう教育をされたのかは分からないけれど、これは一般的な常識なの」
私は自分の顔が熱くなるのを感じた。
今の発言は私だけではなく、父のことも侮辱している。分かっているのに、震えるのは拳だけで、言い返すことは出来ない。そんなことを今すれば、後々自分と父ダフマンがどうなるか明白だった。
「………すみません、お義母様。後ですぐに」
「ええ。なにも説教をしたいわけじゃないから、悪くは思わないでね。貴女がどこに出でも恥ずかしくない淑女で居てほしいからこそよ」
「ありがとうございます」
耳に障る高笑いが過ぎ去るのを待って、私は立ち上がる。集まった小さなゴミたちを袋に捨てると、そのまま階段を上がって行った。
イーサンの私室は二階の突き当たりにある。
鍵の施錠だけ心配していたけれど、意外なことにドアノブを回すとすんなり開いた。
カーテンが閉まった薄暗い部屋を突き進み、窓を開く。涼しい秋の風が吹き込んでエプロンの裾を揺らした。何度か入ったことはあるものの、こんな風に家主が不在の状態で中を見るのは初めてだ。
部屋の中には、イーサン・ヘルゼンという男の二十四年間が詰まっていた。壁には幼少期から現在に至るまで、友人や両親に囲まれて笑うイーサンの写真が並べられている。一番直近に撮られたと見られる騎士団の仲間との写真では、昨日出会ったショートヘアの女も映っていた。
(仲が良いのね………)
二人はどんな風に話すのだろう。
いつ出会って、どんな風に仲良くなったのだろう。前回の人生でも彼女は確かに存在していたはずなのに、私は何の疑念も抱かなかった。
自分のことに必死だったから。
毎日毎日終わらない家事に追われて屋敷の中を駆け回り、ペチュニアの機嫌だけを気にして生きていた。ヘルゼン伯爵家において、夫人はそれほどまでに絶対的だった。
先ずはガラスを磨こうと窓に近付いたところで、何かが反射した。振り返ってみれば、ソファの下に輝くものが落ちている。カフスボタンだろうか、と手を差し込んでみたが、出て来たものは想像と違った。
「………イヤリング?」
手のひらに載っている小さなそれは、どう見ても男性向けのカフスボタンではなく、女性が身に付けるアクセサリーだった。小さな赤い宝石が連なった美しいイヤリング。
夫以外の人間が立ち入らない部屋に女性もののアクセサリーが落ちている。そしてその落とし物の主人は、妻である私ではない。
考える必要はもうなかった。
イーサンの浮気はすでに、始まっていたのだ。




