表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第三章 反社会的勢力の巣
8/28

■3-1 舞い込んだ仕事

 昼から中央ギルドの掲示板の前を、何度目になるか分からないほど往復していた。数歩進んでは立ち止まり、また戻る。そのたびに、靴底が石床を擦る感触が同じ場所で繰り返されていることに気づき、無意識に歩幅を変えてみたりもする。木枠にぎっしり貼り付けられた羊皮紙を、端から端まで一枚ずつ目でなぞり、指先で紙の端を軽く押さえては溜め息をついた。

 掲示板の裏側では、伝書鳩が落ち着きなく羽をばたつかせていて、その羽音がやけに近く聞こえる。周囲を行き交う冒険者たちの鎧が擦れ合う金属音や、武器の柄が腰当てに当たる鈍い音も、今日は妙に耳についた。普段なら気にも留めない雑音が、頭の中で無駄に反響している。


 貼り出されている依頼は、相変わらず極端だった。魔獣討伐や未踏遺跡の調査といった、一歩踏み出せば命がいくつあっても足りなさそうなものか、あるいは下水掃除や荷運びといった、報酬の割に手間と時間だけを奪われるものばかりだ。羊皮紙の表面に滲んだインクの文字を追うたび、自然と眉間に力が入り、顎の奥がきしむ。

 金額、条件、期限――視線を滑らせるごとに、胸の奥がじわりと冷えていくのが分かる。腕は確かに余っている。それなりに経験もある。依頼をこなすだけの技量は、自分なりに積み上げてきたつもりだ。それなのに、どうにも噛み合わない。運だけが、致命的に足りない。そんな感覚が、埃と獣脂の混じったギルド内の重たい空気と一緒に、肺の奥へ沈殿していく。思わず深く息を吸い込み、余計にむせそうになって、小さく咳払いをした。


 これ以上ここにいても状況は変わらない。そう自分に言い聞かせるように息を吐き、俺は踵を返した。足取りは重かったが、向かう先だけは自然と決まっていた。仕方なく、俺はいつも世話になっている綾瀬さんの屋台へと足を向ける。


 石畳の路地を抜けると、まだ準備中の屋台が並ぶ一角に出る。昼の早い時間帯で、静けさが辺りに残っていた。鼻先をくすぐるのは、昨日使った油の残り香や、干し肉と塩気が混じった匂いだけだ。屋台の布が風に揺れて、小さく擦れる音を立てている。

 だが、あまりに早い時間に顔を出したせいで、案の定、こっぴどく怒られてしまった。


 開店前だというのに客扱いしろなど虫が良すぎる――そんな説教を、包丁をまな板に打ち付ける乾いた音と一緒に浴びせられる。綾瀬さんの手元では、野菜が一定のリズムで刻まれていて、その音が怒声の合間に小気味よく挟まる。毎度のことだと分かっていても、肩がすくみ、背中に無駄な力が入った。

 もっとも、今日は珍しく機嫌が良かったらしい。腰に手を当て、ため息混じりに俺を一瞥するその視線には、いつもの棘が少ない。目つきは相変わらず厳しいが、口元がわずかに緩んでいるのが分かる。


「屋台の掃除でもしてなさい」


 そう言って、仕事とも雑用ともつかない役目を与えてきた。追い返されなかっただけマシだが、これを喜ぶべきかどうかは微妙なラインだ。報酬の有無は不明だし、それを聞ける空気でもない。喉まで出かかった言葉を飲み込み、小さく頷くだけで応じる。

 それでも、何もしないよりはマシか、と自分を納得させた。達成感は薄いが、空腹を紛らわすには体を動かすしかない。袖をまくり、屋台の脇に置かれた古いバケツに手を伸ばす。


 屋台の掃除は、まず川へ行って水を汲むところから始まる。この辺りの川は水質が比較的安定していて、屋台の洗い物に使うにはちょうどいい。

 何度も通った道を歩き、川縁へ下りる。靴底が湿った土に沈み、わずかに足を取られる。水面を叩く小さな流れの音が、背後の街の喧騒を少しずつ遠ざけてくれた。

 バケツを沈めると、冷たい水が縁を越えて指先を濡らす。思わず指をすくめるが、その冷たさが頭を冴えさせる。水をたっぷり含んだバケツはずしりと重く、その重みが腕から肩へと伝わった。その感覚に、なぜだか妙な安心感を覚える。この一連の作業も、今となってはすっかり体に染みついていた。


 たっぷり水の入ったバケツを下げて屋台へ戻ってくると、カウンターの前に女の子がぽつんと立っているのが目に入った。肩から提げたバケツの水が揺れ、縁を叩いて小さく波打つ音がやけに大きく聞こえる。

 風に揺れる垂れ布の擦れる音と、遠くから断続的に届く馬車の蹄の音。その中で、彼女だけが切り取られた絵のように動かず立っていた。足先を揃え、背筋を伸ばそうとしているのに、わずかに重心が定まっていない。客にしては早すぎる時間だし、常連の顔でもない。その場に存在しているだけで浮いている感じがして、違和感がじわりと胸に広がった。


 紺のブレザーに、落ち着いた色合いのチェックのスカート。胸元に留められた校章を見て、すぐに分かる。中央ギルドの向かいに建つ、ヒルデガルト魔導学院の制服だ。

 あそこはエリート育成で有名だが、同時に規律の厳しさでも知られている。寄り道や単独行動にも口うるさいはずで、この時間帯に生徒が一人で立っているのはかなり珍しい。


 化粧っ気はまるでなく、童顔で小柄。ブレザーの袖から覗く手首は細く、指も華奢だ。立ち姿もどこか心許なく、風が吹けばそのまま押し流されてしまいそうな印象すらある。

 湿った路地の匂いと、油の残り香が漂うこの場所は、彼女にはあまりにも場違いだった。こんな時間、こんな場所にひとりで立っていたら、少女趣味の怪しいおっさんに目をつけられてもおかしくない。治安がいいとは、とても言えない地区だ。――学院は何を考えているんだか。いや、そもそも学院が把握していない可能性の方が高いか。


「神楽坂、この子お客さんだよ。魔導学院のディアナちゃん」

 綾瀬さんが、まるで今思い出したかのような調子で唐突に紹介してきた。包丁を置き、布巾で手を拭きながら、ちらりとこちらを見る。その動きに無駄がなく、慌てた様子もない。


「え?……お客?」

 思わず間の抜けた声が出る。こんな子が、屋台に何の用があるというんだ。バケツを足元に置くと、水面が揺れて、俺の戸惑いをそのまま映しているように見えた。


「そう。そんでディアナ、この男が神楽坂」

「あ、はい……」


 互いに紹介されはしたものの、少女――ディアナは俺と目を合わせられず、すぐに視線を床へ落とした。靴の先を見つめるようにして、肩がわずかにすくんでいる。

 緊張しているのか、それとも人見知りなのか。指先が制服の裾をぎゅっと掴み、無意識に力を込めているのが見えた。布地がきしむ微かな音が、彼女の不安を雄弁に物語っている。

 ……年齢は、十四か十五くらいか。魔導学院の中等部、といったところだろう。こんな子が、よりにもよって俺に何の用だ? 嫌な予感だけが、腹の底でゆっくり形を成していく。


「神楽坂。この子、ナイフを探してるんだってさ」

「ナイフ?」

 聞き返すと、ディアナが一歩だけ前に出た。ほんの一歩だが、それでもさっきよりは勇気を振り絞った動きに見える。

「アゾットナイフとも言います」

 と、小さな声で補足した。その声は、屋台の裏で炭がはぜる音にかき消されそうなくらい細かったが、言葉自体ははっきりしていた。

 言い切ったあと、彼女は一度、浅く息を吸う。胸が上下し、その仕草でようやく「話せた」という安堵が伝わってくる。少しずつだが、緊張が解け始めているのが分かった。


 それを受けて、綾瀬さんが腕を組む。肘を張るでもなく、指先を軽く脇腹に当てるだけの控えめな所作だ。

「昨日、この辺りで置いておいたら盗まれたらしいのよ」

 ……置き引きか。この界隈では、正直そこまで珍しくもない話だ。油断した方が悪い、と切り捨てられて終わるのが常だし、被害届すら出されないことも多い。

 どうせ見つからない。どうせ泣き寝入りだ。そんな結論が、経験則として先に頭を占領する。俺は気の抜けた声で「困ったね」と言ったのだが、その言葉に自分でも驚くほど感情はこもっていなかった。


「ありがとうございます」

 ディアナは、やけに純粋な調子で礼を言った。深く頭を下げるでもなく、けれど真っ直ぐな声音だった。

 助けた覚えもないのに、胸の奥が少しだけむず痒くなる。――ああ、こういう反応をされると、一番困る。期待されても、応えられないのが分かっているからだ。


「だから神楽坂、この子のナイフ、一緒に探してやりなさいよ」

「はあ!? 無理無理無理無理!」

 思わず即答する。声が裏返りかけたのを、自分でも自覚した。

 盗品なんて、普通のルートに出回るわけがない。闇ルートで流され、早ければその日のうちに隣の地域へ消える。そんなもの、個人で探し出せるはずがない。俺はその理屈を、必要以上に長々と説明してやった。

 説明しながらも、内心では分かっている。――言っても無駄だ、と。


 案の定、綾瀬さんは眉ひとつ動かさず、まったく動じない。口元だけをわずかに歪め、包丁を定位置に戻す。その落ち着きぶりが、逆に嫌な予感を確信に変えてくる。

「お嬢さん、私の役目はここまでね。このプータローの始末、任せるわ」

「ふぇっ!?」

 ディアナは驚いて、慌てて姿勢を正す。背筋を伸ばし、両手を体の横に揃えた。その動きはぎこちないが、学院で叩き込まれた作法なのだろう。

 さっきまで縮こまっていた空気が、少しだけ引き締まる。緊張は残っているが、怯え一辺倒ではなくなっていた。


「任務、全ういたします!」

「いや何を任務にしてんだよ!」

 俺が思わずツッコむと、ディアナは一瞬きょとんとした顔をしたあと、くしゃっと笑った。

 肩の力が抜け、目元が柔らぐ。さっきまで張りつめていた緊張が、音を立ててほどけていくのが分かる。年相応の、無邪気な笑顔だった。

 炭と油の匂いが漂う屋台の前で、その笑顔だけが不思議と明るく、やけに目に焼き付いた。その表情は、さっきまでの怯えたものより、ずっと良かった。


 ……ああ、もう駄目だ。

 こういう流れになった時点で、俺に拒否権なんて最初からなかったんだ。諦めにも似た溜め息を、誰にも聞こえないように胸の内で吐き出しながら、俺は次に来る面倒事を、半ば受け入れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ