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銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第二章 新世界の中の中
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■2-3 旋律をめぐるアレコレ

マルセラに来てから、俺の朝は遅い。

いや、正確には“昼飯の時間帯に朝食をとる生活”が続いている、という方が正しい。太陽が頭上に差しかかり、街が完全に目を覚ましてから、ようやく俺は簡素な寝台から這い出してくる。


理由は単純明快だ。

毎晩のように綾瀬さんの屋台へ顔を出しているから。夜の冷えと出汁の温度差に身体を慣らし、他愛のない会話を挟み、気づけば日付が変わっている。「毎日来なくていい」とは言われている。分かっている。分かってはいるが、夜になると、足が自然とあの方向へ向いてしまう。

俺の中で、あの屋台は“帰る場所のひとつ”になりつつあるのかもしれない。認めるのは少し癪だが、否定するほど意地も張れなくなってきた。


一方で、俺よりよほど夜更かしをしているはずの綾瀬さんは、どうやら完全な夜型人間というわけでもないらしい。昼間には“監視官としての本業”があるとのことだ。夜のマルセラに生活基盤を作っている理由はそれ――そんなことを、以前さらっと口にしていた気がする。

監視官という仕事も、聞く限りでは楽なものじゃない。街の表と裏、その境界を歩くことは当たり前。俺みたいな半端者が想像するより、ずっと神経を使うのだろう。


俺はパン屋で買った固めのパンをかじりながら、こじんまりとした我が家から抜け出した。

焼き目の硬さが歯に返り、乾いた音が口の中で鳴る。噛みしめるたびに、麦の匂いが鼻腔に残った。味は素朴だが悪くない。少なくとも、空腹をごまかすには十分だ。


昼過ぎの街は人の往来が多い。

靴底が石畳を叩く乾いた音、商人の呼び声、値段交渉の甲高い声、遠くで鳴る馬車の軋み。革と木と金属が擦れ合う雑多な響きが、街全体を覆っている。

さらによく耳を澄ませば、建物の隙間を抜ける風の低い唸り、屋根の上で鳴る何かの羽音、排水溝を流れる水のかすかな音まで混じっている。音は多層的で、濁っている。だが不思議と、どれも俺の中を素通りしていった。


そんな中で、不意に――温度を持った音が、耳の奥に触れた。


それは、街の騒音の上に乗るでもなく、下に沈むでもなく、ほんのわずかな隙間に忍び込むように存在していた。気づかなければ、きっと聞き逃していた。

冷えかけた指先に、ぬるい湯をかけられたような感覚。音なのに、触れられた気がして、俺は思わず足を止めた。


……なんだ、この音。


周囲の雑音は相変わらず鳴っているのに、その音だけは輪郭を保ったまま、静かに存在を主張している。

管楽器……フルート、だろうか。だが、俺の知っているフルートの音よりもずっと柔らかい。金属のはずなのに角がなく、音の端が丸い。息の形がそのまま空気に溶けていくようで、演奏というより呼吸に近い。


音は線ではなく、薄い布のように揺れながら街に広がり、俺の肩に、背中に、そっと掛けられる。

触れた場所だけが、ほんのりと温かい。街の喧騒の中に、小さな避難所が生まれたみたいだった。


不思議だった。

その音色が不思議だったわけじゃない。俺にはそこまでの音楽的な見識はない。そもそも、俺は音楽を嗜むような人間じゃない。

それなのに、心が動いている。この事実そのものが、妙に引っかかった。


何なんだろうか、この感覚は。

あえて言うならば――郷愁、な気がする。しかし郷愁……? 俺が?

思わず鼻で笑いそうになる。俺が使うには、あまりにも似つかわしくない感情だ。だってそうじゃないか。こんな音が、いつ俺の人生に登場していたというのだ?

ぜひ教えてほしいものだ。俺自身に。


そりゃあ、前世において流行した楽曲は耳にしていた。テレビやラジオ、街中のスピーカーから、否応なく流れてきた音楽だ。だが、今うっすらと響いているものとは、まるで合致しない。記憶の棚をいくら探っても、該当する引き出しが見当たらない。


一体いつ聞いたんだか。

少し脳を動かしてみるが、すぐに馬鹿らしくなってやめた。どう考えても答えは出ない。出たところで、今さらどうなるものでもない。

短く溜息をついて、「チッ」と小石を蹴り上げる。乾いた音が一瞬だけ響き、すぐに他の雑音に飲み込まれた。


「気になるじゃねーかよ、バカヤロー」


誰に向けた言葉でもない。自分自身への悪態だ。

音の方角へ視線を向けると、街角の向こうに、かすかに人だかりが見えた。ストリートミュージシャンが増えてくる時間帯だ。


マルセラは武闘派ばかりじゃない。

楽器、大道芸、魔物使い、よく分からない劇団……芸術と呼んでいいのか怪しいものまで含めて、雑多で荒削りな表現が溢れている街だ。秩序はないが、排除もしきれない。

そういう場所だから、俺みたいなのが紛れ込める。


職探しは、まあ、後回しでいい。

どうせ見つからん。

そんな諦観を胸に抱えながら、それでも俺は、無意識のうちにその音のする方へ、ゆっくりと歩き出していた。


と、思った矢先――俺は演奏者より先に、見知った顔を見つけてしまった。


人の流れの端、雑踏と雑踏の隙間に器用に収まるように立つ男。

黒いスーツでピシッと着飾り、皺ひとつない襟元。革靴はきちんと磨かれ、街の埃を踏んでいるはずなのに不思議と汚れて見えない。口元には、貼り付けたみたいな営業スマイル。誰に向けても同じ角度で、同じ柔らかさを保つ、あの手の笑顔だ。


道行く人々の端で、何やら小さな密談をしている。声を落とし、身を寄せ、指先だけがやけに忙しい。

ブルーノ。本名ではない。初対面のとき、自分でそう名乗った。

情報屋――とかいう、怪しさ全開の職業で生計を立てている男だ。


……ああ、いるよな。こういうの。

街の空気に溶け込むのが異様にうまい。危険な匂いを消すのも、利益の匂いを嗅ぎ取るのも。

軽薄で、口が回って、信用できるかどうかは常に五分五分。だが不思議と、生き残るタイプでもある。


「あ、神楽坂さーん!」

商売を終えたらしいブルーノが、こっちまで軽やかに駆け寄ってくる。

足取りは軽く、まるで散歩の延長みたいだ。今日も笑顔は絶好調。声のトーンは一段高く、周囲に敵意を持たせない配慮が行き届いている。


……害はない。今のところは。


「どーも。仕事中ですか?」

「仕事ってほどのもんでも……まあ就活中」


フルートの音色を耳に残したまま、俺は曖昧に返す。

するとブルーノは、その言葉を逃すまいとするみたいに、少し前のめりになった。目が輝く。完全に“嗅ぎつけた”顔だ。


「それは面白い! 郊外で青い鳥が大量発生してるっていう――」

「いや、面白くねーから」

一秒で断ち切る。

間を与えたら最後、話が勝手に膨らむタイプだ。


「そういう大層なことは性に合わないの。そうだ、ブルーノ、単発の依頼ない? 現地集合、現地解散、支払いその場のやつ」

俺の条件はいつも同じだ。

深入りしない。後腐れを残さない。


「残念! 今は無いんですよね。あ、でもトマスさんが何か――」

「却下。トマスはロクでもねえ仕事しか持ってこない」

即答する。

あの男の案件は、だいたい“割に合わない”か“危険が後出し”だ。


「なに贅沢を言っているんですか、神楽坂さん。今のあなたは仕事選べる立場じゃ――」


そこまで言いかけたところで、ブルーノの背後から声が飛んだ。

客だ。声色が変わる。瞬時に。


「──失礼、一分ほど!」


ブルーノはくるりと身を翻し、両手を広げて大げさに宣言する。


「どーも裏から裏の裏まで網羅する情報屋! ただいま参りまーす!」


……本当に、軽い。

だがその軽さで、命を繋いできた男でもある。


情報屋の背中を、俺はぼんやり眺めた。

この得体の知れない職業、わりと繁盛しているのだ。金も人も情報も、すべて“足りない”この街では、こういう存在が重宝される。

みんな、どうかしているぜ。

俺はパンの残りを口に放り込み、咀嚼しながら奴が戻ってくるのを待った。


「……でさ、この音だよ。どこから聞こえてんの?」

小走りで戻ってきたブルーノに尋ねる。

息一つ乱していないあたり、さすがだ。


「ええっと、それは情報屋への依頼ということでよろしいでしょうか?」

よろしくない。

「いいよ。音を頼りに自分で近づいていく、じゃーな」


俺はそう言って、情報屋に背を向けた。

金を払わずに聞けるなら、それに越したことはない。


「ちょーと、待って下さい、神楽坂さん!」

背後から、歯切れの悪い声。

「何て言うんですかね、あまりそれは推奨しないというか何というか……」

その曖昧さに、俺は足を止めて振り返った。

「何というかってなんだよ? シャキッと頼むわ」


追い詰めると弱い。

ブルーノは一瞬だけ視線を泳がせ、それから観念したように口を開いた。


「……マイシカ橋の下あたりです!」


もったいぶるのを諦めたのか、ブルーノは人差し指を歩道の向こうへ向けた。

「イシス地方独自のフルートの音です」

情報屋が折れた。


「へえ。初耳だ。いい音だな」

俺は素直に感心した。

だが、その横でブルーノの表情は、はっきりと険しくなっていた。営業スマイルが剥がれる、ほんの一瞬。

「ただ、あそこ近づくのは……あまりおすすめしませんけどね」


「なんで? それも売り物の情報?」

ブルーノは大げさに肩をすくめてみせた。

商売あがったり、ってやつか。


「演奏してるお姉さん――シルヴィアって方ですがね。人気はあるんですけど、ただ客がちょっと。ガラが悪いというかというか……」

「ああ、そんなことか。気にしないよ。俺も人相悪いって言われる側だし」

軽く返す。

「たしかに」

「たしかにってなんだよ。否定しろよ」

「あはは、そうですよね。……さて、仕事に戻ります!」


逃げ足も速い。

ブルーノはまた、人通りの多い場所へと溶け込んでいった。


「お疲れさまだね」

小さく苦笑。俺はフルートの音を追いながら、マイシカ橋へ向かって歩き出した。


 シルヴィアなる女の子の演奏は、噂に違わず――いや、噂以上だった。

 音は冷たい金属から生まれているはずなのに、どこか人肌に近い。吐く息の湿り気、指が孔を塞ぐときのわずかな擦れ、身体の重心がわずかに揺れる気配。その一つひとつが過剰に主張することなく、しかし確かに存在を刻みながら溶け合い、ひとつの「ぬくもり」になっていた。

 技術が高い、という評価では足りない。彼女は音を操っているのではなく、音に居場所を与えている。


 気づけば、橋の下という半端な空間が、彼女を中心に円形に再編成されていた。

 音の主が誰で、誰が主役なのかを、説明なしに理解させる空気。これがカリスマというやつか、と内心で舌を巻く。無理に人を引き寄せているわけじゃない。ただ立って、吹いているだけなのに、視線も呼吸も、すべてが彼女の指先に揃えられていく。


 音に引き寄せられた観客のほとんどが、黒多めの衣装をまとっているのが少し気になった。革や布の質感は荒く、体格も総じてごつい。表情は硬く、笑顔なんてものとは縁がなさそうだ。

 だが――ブルーノの言うガラの悪い客、という印象とは裏腹に、彼らは静かだった。

 誰一人、私語をしない。野次もない。足を鳴らす者すらいない。

 無骨な外見の奥で、全員が等しく音に身を委ねている。まるで同じ布に包まれているかのように、個の輪郭が薄れて見えた。


 こういう連中ほど、こういう音に弱いのか。

 俺は勝手にそう結論づけながらも、その中に混じっている自分を意識して、少しだけ苦笑した。結局、俺も同類か。


 演奏は無事に終わり、音は名残惜しそうに空気から剥がれ落ちた。

 余韻が完全に消えるまで、誰も拍手をしない。

 一拍、二拍、呼吸を整える時間が置かれてから、ようやく控えめなざわめきが戻ってくる。その間すら、彼女の計算のうちなんじゃないかと思えてくるから恐ろしい。


 俺は周囲にならってチップを投げる。

 金属音が地面で鳴ったが、さっきまでの笛の音に比べると、ずいぶん冷たい。現実に引き戻された、というより、現実の温度を再確認させられた感覚だ。


 そこへ――


「仕事にあぶれているのに、割と余裕があるのね」


 振り返ると綾瀬さんがいた。

 いつからそこにいたのか分からない。だが、彼女の視線もまた、ついさっきまでシルヴィアに向いていたのは確かだ。


「さっき、わんさかいた黒服。あれ、治安維持部隊を自称してるチンピラね。ああいうのが明るいうちから群れてるときは、何かあった証拠よ。別の団体と衝突でもしたのかしら」


 淡々とした口調。だが、情報の質は重い。

 俺は肩をすくめるしかなかった。


「そう言われましても、俺の生活圏とは距離がありすぎて……」


 正直なところだ。

 俺は厄介事から逃げるために生きている。危険を嗅ぎ取る嗅覚だけは、嫌になるほど鍛えられてしまった。


「そうね。関わらないに越したことはないわ」


 その一言に、微妙な含みを感じたが、突っ込む前に時間が流れた。


 気がつくと、長話になっていた。

 客がはけたのを見計らったのか、フルートの演奏者――シルヴィアが、こちらへ歩いてきて笑った。


「ふふ。お喋りはおしまい? そっちのお兄さんは初見さんだね。せっかくだから新曲聴いていってよ。最近は硬い顔の人ばっかりでさ、疲れちゃうの」


 軽い。驚くほど軽い。

 さっきまで空間を支配していた人物と、同一だとは思えないほどだ。

 だが、その軽さが嘘だとは感じなかった。演奏と同じで、無理がない。

 この切り替えもまた、彼女の才能なのだろう。


 そう言って笛を構える。

 俺と綾瀬さんは、マイシカ橋の下で、ふたたび音色に耳を傾けた。


 橋の上の雑多な喧騒を切り裂いて――いや、切り裂くのではない。

 騒がしい日常の音から、俺たちだけをそっと隔離するように、透明な膜が張られていく感覚。外界の音は聞こえているはずなのに、意味を失っていく。


 シルヴィアが奏でる旋律は、決して派手ではない。

 むしろ、少し掠れたような、寂しげな響きだ。

 だが、その寂しさが妙に心地いい。誰かに寄り添うための音じゃない。ただ、そこに在るための音だ。


 俺が最初に感じた郷愁という言葉は、やはり間違いだった。

 俺の人生に、こんなにも美しい思い出など存在しない。

 けれど、この音の温度は知っている。それが魅力的だ。


 俺だけじゃないはずだ。

 彼女の元に集まる人間はみんな、きっと同じものを求めて足を運んだんじゃないのか?


 寂しいのは嫌さ。孤独は苦痛だ。なによりみっともない。御免被る。

 ……けどよ、これほど美しければ話は別だ。

 不要なのだ、何もかも。言い訳も、肩書きも、未来への言葉も。


 孤高。

 それは何も持たざる者だった俺が、かつて無意識に描いた最後の理想像だったはずだ。


 賭けてもいい。この子は、そんな意図で演奏はしていない。

 俺も、半端者の意思を押し付けたりはしない。

 聴くだけだ。


 俺はただの「聴衆A」になりきって、その音に身を委ねていた。

 嫌な予感も、将来への不安も、この冷たく澄んだ音の中に溶けて消えていくようだった。

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