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銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第二章 新世界の中の中
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■2-2 監視官の独特な日常

中央公園の端の端。

昼間は人の流れもそこそこはあったであろう場所も、夜になると嘘のように静まり返る。魔導石が作る光はまばらで、円を描くように地面を照らしては、すぐに闇へと溶けていく。石畳の凹凸が淡く浮かび上がり、わずかな段差が影となって足元に滲んでいた。空気は冷え切り、頬に触れる風は鋭い。呼吸をするたびに肺の奥まで冷気が入り込むのが分かる。

この時間に残るのは、歩くたびに乾いた音を立てる靴音と、木々を揺らす風の気配だけだった。その静けさは、耳鳴りがするほどに濃い。


そんな闇の縁に、まるで夜そのものから滲み出してきたような屋台式のうどん屋が、いつもの場所に腰を据えている。

灯りは必要最低限。粗雑な魔導石は、過剰に主張することなく、周囲の闇に溶け込みながらも、不思議と近づく者の視線だけは確実に捉える。光の輪の内側だけが、別の時間を刻んでいるかのようだ。冷たい夜気の中で、そこだけが静かに息をしている――そんな存在感があった。


側面は用途に合わせて改造され、外から見れば無骨な箱に過ぎない。角ばった金属板に、最低限の装飾。だが中を覗けば、簡素ながらも手入れの行き届いたカウンターが据えられている。木目は丁寧に磨かれ、長年の使用で角がわずかに丸くなっている。触れればほのかに温もりが残り、手のひらに安心感を伝えてくるだろう。鍋や器を支える金属部分には曇り一つなく、灯りを受けて控えめに光っていた。

清潔さと実用性。その両立が、この屋台の空気を形作っている。


ここが──異世界における、綾瀬龍華さんのホームだ。


本来はもっと人通りが多く、小銭が落ちやすい場所を狙っていたらしい。しかし陣取り合戦にあえなく敗北。口約束と無言の圧力に押し出される形で、やむなくこの人通りの少ない一角に落ち着いたという。結果として、    夜の静寂が色濃く残る場所になった。

「監視官としての任務が第一。生活はそれに合わせるだけよ」

そう言って、綾瀬さんはいつも通り肩をすくめてうそぶいていた。その仕草もまた、ここでは自然に馴染んでいる。


近づくにつれ、冷たい空気の中に出汁の香りが混じり始める。鰹と昆布が溶け合った匂いが、鼻先をくすぐり、体の奥に溜まった冷えをじわじわとほどいていく。静まり返った通りの中で、そこだけ空気の密度が違う。まるで透明な膜で外界と隔てられているようだった。

この境界線を越えると、緊張が一段落ちる。無意識のうちに、肩の力が抜けているのが自分でも分かる。


カウンター奥の下から、小さな頭がひょいと覗いた。

綾瀬さんはしゃがんだ姿勢から、鍋の火加減を確認していたらしい。顔を出すと同時に、指先で鍋蓋を軽くずらし、湯気の立ち方を一瞬だけ確かめる。その動きは無駄がなく、長年の癖が染みついている。布巾で手を拭いながら、視線だけをこちらに向ける。


「ああ、神楽坂! やっと来たね!」


声と同時に、彼女はすっと立ち上がり、カウンター越しに身を乗り出した。髪がわずかに揺れ、耳元で留めたピンが小さく光る。片手は自然に器の位置を直し、もう片方は湯気の逃げ道を作るように鍋の向きを調整している。

その一連の所作を見ただけで、この屋台の内側が外とは別の世界だと分かる。声には温度があり、硬さがない。夜の冷気を断ち切る合図みたいなものだ。


俺も綾瀬さんも、最初は名前が珍しいと言われる。だがそれも一度きり。大陸の外から来た流れ者など、この街にはいくらでもいる。もっと奇妙な名前の者だって、数えきれないほどだ。この店では、名前よりも「いつ来るか」「何を頼むか」の方が重要だ。それが、少しだけ心を軽くしてくれる。


「何でしょうか、綾瀬さん」


俺は小走りで駆け寄った。靴底が石畳を叩く音が、屋台の灯りの手前で自然と吸い込まれていく。冷え切った通りの空気から、一歩で温度が変わる。肌を刺していた冷たさが引き、代わりに穏やかな暖かさが包み込んできた。

――ああ、帰ってきた。

そう思ってしまう自分に、少しだけ驚く。それほどまでに、この場所は俺の中で「安全圏」になりつつあった。


待ち合わせでもなく、義務でもない。ただ、自然と足が向く場所だ。ここでは何かを証明する必要も、身構える必要もない。鍋の音と湯気の向こうに、綾瀬さんがいる。それだけで十分だった。

現状報告は後回しにして、ひとまず夕食をとることにする。関東風の天ぷらうどんをオーダーすると、綾瀬さんは小さく頷き、手際よく動き始めた。衣を油に滑らせる音、麺をほぐす箸の動き、そのすべてが一定のリズムを刻む。

差し出された丼から立ち上る湯気ごと啜る。舌に触れる出汁の熱が、内側から体を温めていった。胸の奥に溜まっていた不安が、少しずつ溶けていく。

ここにいる間だけは、大丈夫だ。

そんな根拠のない安心感を、俺は疑うことなく受け入れていた。


すると背後で、のれんが静かに持ち上がった。

風に揺れたわけでも、誰かが雑に掻き分けたわけでもない。必要最低限の動きで、音を立てずに、布がほんの数センチだけ浮かぶ。その控えめさが、かえって異物感を際立たせていた。


「――あら、お二人さん、失礼しますわ」


闇夜からすっと抜け出すように現れた影。

通りの静けさを切り裂くことなく、気配だけを連れて屋台に滑り込んでくる。足音は聞こえなかった。灯りの外側にあったはずの存在が、気づけばもう内側にいる。ヴィクトリアンメイド風のコスチュームを揺らしながら、この街の衛兵たちと毎晩ナワバリ争いを続けている魔導石の商人が、屋台の灯りの下へ自然に溶け込んだ。


「はーい、メイドさん一名いらっしゃーい」


綾瀬さんがパチンと軽くハイタッチする。

掌と掌が触れ合う音は乾いていて、短い。それだけで、外の闇と内の賑わいを隔てる合図としては十分だった。この世界に来てから、何度も見てきた光景だ。


俺の隣の席に腰を下ろしたのは――モニカ。

言うまでもなく、メイドではない。椅子に腰掛ける動作一つとっても、膝の角度や重心の置き方が妙に洗練されている。ただの衣装好きでは出てこない落ち着きだ。


大それた話はない。色々な服を試し続けた結果、一番売れ行きが良かったのがこのメイド服だったというだけだ。それを本人はすっかり気に入ってしまい、そのまま定着した。

安い魔導石を露店で売り、取り締まる衛兵に怒られる毎日。追われては逃げ、逃げては戻る。その繰り返しを、まるで日課のようにこなしている。

自称・魔導石の第一人者らしいが、それがどの分野なのかは誰も知らない。本人も説明しない。説明する気がないのか、説明できないのか――あるいは、説明する必要がないのか。


……ただ、一度だけ見せてもらった高純度の魔導石は、確かに本物の匂いがした。

ぞくりとするほど、力の輪郭が明確だった。曖昧さがなく、加工も誤魔化しもない。魔導力という概念そのものを、硬質な結晶に押し固めたような存在感。

その一度で、俺はモニカの話を信じることにした。

どうせ買わないのだ。深入りする気もない。だからこそ、構える理由はなかった。信じた上で距離を取る――この世界では、そういう関係の方が長続きする。


「モニカ、調子はどうよ」

俺は雑に声をかける。

親しげとも無関心とも取れる、ちょうど中間のトーンだ。


「あら、神楽坂さん。ねえ、たまには何か買ってみなさらない?」

口調、身のこなし。すべてメイドっぽさに寄せている。

首を傾げる角度も計算されている……ように見えるが、たぶん少し違う。演技というより、もはや生活様式だ。

本人が心底楽しんでいるのが分かる分、突っ込まないのが正解だ。突っ込んだところで、返ってくるのはさらに完成度の高い“設定”だけだろう。


この偽メイドの戦闘力は、見た目以上に高い。

……いや、戦っているところを見たわけじゃない。だが、彼女が指先でどんぶりを受け取る瞬間の、まったくブレない重心。あるいは、背後を通る風の音に耳がピクリと反応する速度。

そうした些細な所作の端々に、ただの露天商ではない「匂い」が染み付いている。

俺の借り物の身体が、本能的に彼女を「警戒対象」だと告げているのだ。理由は分からない。ただ、油断するな、と。


モニカが差し出したビロードの布の上には、様々な色をした魔導石が並んでいる。

赤、青、緑、透明に近いもの。光を受けて、それぞれが異なる反射を返す。俺は適当に一つをつまみ、ひょいと持ち上げた。

指先に、かすかな熱が伝わった。生き物みたいだ、と思う。嫌な感じじゃない。だが、好ましくもない。


「いらないねぇ。俺の生活には必要ないもん」


「まあ! それはいけませんわ。大した魔導力をお持ちでないのに、そんな強気でいて大丈夫ですの?」

挑発するような口調だが、視線は俺の反応を冷静に観察している。

――やっぱり、ただの商売じゃない。

皮肉が混じった笑みの裏で、相手の力量を測る目をしている。


「いいんだよ。見くびられても困る。人には人のスタイルがある。不要なんだよ、俺には」

強がり半分、事実半分。

この世界で生きていく上で、魔導石は確かに便利だ。だが、便利さに寄りかかりすぎると、最後はそれを失った瞬間に詰む。

――諦め、というより覚悟だ。俺は俺のやり方で行く。それで駄目なら、そのときはそのときだ。


モニカは大げさに両手を広げ、空を仰いだ。

屋台の天井が、少し狭そうに見える。


「まぁ! 徹底して拒否なさるのね。分かりませんか? この可もなく不可もない出来の素晴らしさ。ああ……神楽坂さんがダンジョンのど真ん中で万策尽きる姿が目に浮かびますわ」

呪いのような予言を、冗談めかして吐く。

だが、その言葉には、現実をよく知っている者特有の重みがあった。

――そうなる可能性は、否定できないし、否定しない。


そのとき、前方から綾瀬さんの声が飛ぶ。

「はい、きつね普通盛り天かすマシマシ一丁! 七味は後悔のない範囲でお使いください」

どんぶりがモニカの前に差し出される。

湯気が立ち上り、出汁の香りが一気に広がる。その匂いが、会話の緊張をやわらかく断ち切った。


「わお、すごい店ね神楽坂さん。何も頼んでないのに私好みの一品が出てきたわ!」

大袈裟にはしゃぐモニカ。

なんてことはない。“いつものやつ”だ。好みも、食べる量も、綾瀬さんは全部把握している。


「そりゃ良かった。……ついでに、うちの店は商売禁止だよ」

綾瀬さんが、出汁の温度を確かめながら忠告する。

声は軽いが、線は引いている。こういうところが、この人の凄さだ。


「分かってますわ。押し売っているわけじゃありませんもの。では姿勢を正して――いただきますわ」

「しゃーないね、どうにも」

綾瀬さんは肩をすくめた。

モニカは幸せそうに湯気を吸い込み、うどんを啜る。その表情は、露店で衛兵とやり合っているときのそれとは別物だ。

その瞬間、外の通りの静けさが、急に遠いものに感じられた。


こういう“何でもない時間”に、俺は綾瀬さんの監視官としての経験を感じる。

誰とでも自然に馴染み、どんな危うい人物でも、ひとまず同じテーブルにつかせる。軽口を叩きながら、決して気を抜かない。

モニカの裏の顔にも気づいているだろう。それでも排除しない。


――綾瀬さんがいなかったら、俺はこの世界で、どう立ち回れていたんだろう。

仲間と呼ぶには頼りすぎているし、依存と呼ぶには少し違う。

それでも、この屋台に灯りがある限り、俺はなんとかやっていける。

そんな諦観混じりの安心感を、俺は今日も丼の底に沈めていた。

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