■1-3 新世界への扉
風間所長と名乗る人物が待っていた応接間は、ほとんど音がなかった。
扉を越えた瞬間、空気の質が変わったのが分かる。足音が床に落ちるはずなのに、吸い取られる。靴底が触れている感触はあるのに、反響が返ってこない。衣擦れの微かな音すら、空気の途中で溶けてしまうようだった。
白すぎる壁のせいか、呼吸さえも吸い込まれていく気がした。光は確かに満ちているはずなのに、明るさという実感がない。ただ“白”という情報だけが、視界のすべてを支配している。
空調の風も感じない。暑くも寒くもない。温度の存在感そのものが希薄で、皮膚が自分の輪郭を見失いそうになる。
俺はただ困惑していた。
椅子に腰掛けているはずなのに、立っているのか座っているのか、一瞬分からなくなる。背もたれに体重を預けているはずなのに、支えられている感触がない。
思考が滑る。掴もうとした考えが、指の間から抜け落ちていく。脳が信用できない。考えようとした瞬間、白い霧が立ち込める。
今まで何度も経験してきた――
薬が効きすぎた朝の、あの鈍い浮遊感とよく似ていた。
正面に座る風間所長は、微動だにしていなかった。背筋を伸ばし、両手を机の上で軽く組んでいる。その姿勢は、待っているというより、最初から“そこに在る”という印象に近い。
目を合わせようと視線を上げかけた、その瞬間だった。
「睡眠導入剤。指示されてる用量の三倍……あら、四倍だったかしら?」
綾瀬龍華の声が、静寂に割り込んだ。
乾いた声だった。感情の起伏を削ぎ落とし、事実だけを運ぶ音。彼女は視線をレポートに落としたまま、淡々と数字をなぞっている。
パラパラと紙をめくる音が、やけに大きく聞こえた。
その瞬間、胸の奥で固まっていた何かが割れた。
鈍く、しかし確かな音がした気がする。
点と点がつながり、つながった線が脳を貫いた。逃げ場のない理解だった。
「……四倍、ですね」
返事はしたが、顔は上げられなかった。
喉の奥がひりつく。視線は自然とテーブルの一点に落ち、木目の中に走る小さな傷ばかりを追ってしまう。そこに意味はない。ただ、他を見る余裕がなかった。
「そう」
綾瀬龍華は軽く相槌を打つ。
憐れむでもなく、責めるでもなく。ただ“確認した”という声だった。
彼女にとって、これは感情を挟む場面ではないのだと、はっきり分かる。
「……バスルームですか?」
声が、自分のものとは思えないほど軽かった。
まるで他人事を尋ねているみたいで、そのことが余計に怖い。
「正確には、その手前の脱衣所ね」
彼女はレポートから目を離さず、淡々と答えた。
ペン先が紙に触れる音が、また静寂を切り裂く。事実を書き留める、その機械的なリズム。
「……そうですか」
気の抜けた返事が、勝手に口から滑り出た。
数秒遅れて、深い深い溜め息が漏れる。肺の奥まで使い切るような、逃げるための呼吸だった。
やってしまった。
言葉にするまでもなく理解した。不眠症との長い付き合い。眠れない夜を薬でごまかし続けた十年間。
そして、多幸感を求めて許容量を超えた使用に走った日々。危ないと分かっていながら、それでもやめられなかったこと。
全部が一本の線になって、ここへたどり着いたのだ。
「なんでその状態でバスルーム行くかなぁ……俺」
自嘲が漏れる。
笑うつもりはなかった。ただ、そう言うしかなかった。
「危ないのは薬の使い方でしょ」
綾瀬龍華が、ほんの少しだけ肩をすくめた。
叱るでもなく、突き放すでもなく、感想すら挟まない。ただ事実を述べただけの動作。
続けようと、彼女が口を開きかけ――
「そこで平衡感覚を失って転倒し、後頭部を強打。神楽坂君は死んだ」
それまで黙っていた風間所長が、綾瀬龍華の言葉に被せるように“結論”を落とした。
声量は低く、抑揚もない。
それなのに、その一文は、この部屋のすべてを確定させる力を持っていた。
白い部屋に、重い静寂が降りた。
音がないのではない。音が“止まった”。
「……ここまでで何か分からないことはあるかな?」
風間所長の問いは事務的だった。
確認事項を読み上げるような声が、現実を固定する。
俺は、小さく首を振った。その動きすら、どこか借り物のように感じる。
「……ないです。はい」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
風間所長は、机の上に出されていたコーヒーを手に取った。
白い指先がカップの取っ手をなぞり、ほんの一瞬だけ温度を確かめるように止まる。その動きは慎重というより、習慣に近い。彼は一口だけ飲み、ゆっくりとカップを戻した。
湯気が細く立ち上る。その様子を見ていると、こちらの意識が、なぜか一歩引いた場所へ追いやられる気がした。現実感が薄れ、他人事の映像を眺めているような感覚だ。
感情の読めない顔。
自分が「死んだ理由」を語り終えた直後とは思えないほど、風間所長は静かだった。眉一つ動かさず、呼吸すら一定で、こちらの言葉を「処理済みの情報」として棚に収めたように見える。
「さて。死因の確認は終わったし、次の話に移ろうか」
淡々とした声。区切りのいい調子が、場を次の段階へ押し流す。
「次に、って……?」
思わず聞き返した自分の声は、少しだけ上ずっていた。質問というより、時間稼ぎに近い。
「転生だよ」
風間所長は短く告げる。説明するというより、決定事項を読み上げる口調だった。
「ただし、魂がどの世界に適応できるかは個体差が大きい。記憶の強度、精神の癖、生前の執着、未練……。これらが魂の“形”を決める」
彼は机の上に置いたままのカップから、視線だけをこちらに戻す。
魂の形……?
言葉自体は抽象的なのに、風間所長の声には妙な重みがあった。白い部屋と同じだ。余計な装飾を削ぎ落とし、必要な情報だけを残した響き。理解できていないはずなのに、「そういうものなのだ」と思わされる。
「君の魂は比較的きれいだ。濁りが少ない。壊れていない。転生プロセスに乗せることは可能だ」
評価を下すような言い方だった。良いとも悪いとも断定しない、しかし結論だけは揺るがない。
「俺はその……いい状態ってことなんですか?」
恐る恐る尋ねる。自分でも、何を基準に「いい」と言っているのか分からない。ただ、否定されるのが怖かった。
「表面上はね」
唐突に、綾瀬龍華の声が割り込んだ。
椅子に深く腰掛けたまま、彼女は腕を組み、わずかに顎を引いている。姿勢は崩れていない。表情も冷静そのものだが、声には細い針のような硬さがあった。
「表面……?」
視線を向けると、彼女は一瞬だけこちらを見て、すぐに風間所長の方へ目を戻した。
「魂は外から見える部分と、内側の核で全然違うの。見た目の強度と、実際の適応力は別問題よ」
言葉は簡潔で、感情が混じらない。その距離感が、逆に胸に引っかかる。
風間所長が、補足する形で口を開いた。
「だから我々は監視官を置く。転生直後の魂は不安定で、何かのきっかけで簡単に崩れてしまう。そのためのフォロー役として、綾瀬君が同行する」
“我々”。
その一言で、彼がこの状況を個人の問題ではなく、研究所のシステムとして捉えていることがはっきりする。
「同行……するんですか?」
思わず綾瀬を見る。彼女は微動だにしない。
「ああ。彼女は優秀だからね」
風間所長はそう言って、ほんのわずかに口元を緩めた。それが評価なのだと分かるのが、かえって奇妙だった。
俺は思わず質問を投げた。
「監視官って……その、何をするんですか?」
「あなたを見張るのよ」
即答。
間も、ためらいもない。
「え、見張るって?」
言葉のきつさに、思考が一拍遅れる。
「言葉の通りよ。魂が崩れないように誘導するし、危険行動は止めるし、精神が沈んだら介入するし……まあ、色々よ」
彼女は淡々と指を折るように説明する。その仕草が、職務内容を列挙しているだけだと強調していた。
「色々って……」
「あなた、危なっかしいもの」
断言。
そこに個人的な感情が含まれているのか、それともデータに基づく判断なのか、判別がつかない。
風間所長が、そこで少しだけ笑った。声を出さない、目元だけの変化。
「綾瀬君の判断は的確だ。神楽坂君は魂自体の質は良いが、内側に不安定さを抱えているタイプだろう。だからあなたの転生は、私が担当するの」
“担当”。
まるで案件の割り振りだ。
「新世界における魂の適応を見届ける。それが監視官である私の仕事よ」
そして、風間所長は区切りをつけるように淡々と話を進める。
「これが我が研究所の転生システムの概要だ。何か質問は?」
白い部屋に、再び静寂が落ちた。
説明が終わったことで、空気がゆっくり冷えていく。自分だけが取り残され、理解できないまま先に進んでいく感覚。
「いえ、ないです」
他に選択肢はなかった。
本当に納得したわけじゃない。ただ、ここで立ち止まれる立場じゃないと、本能的に分かっていた。
「では──準備を始めようか」
所長が軽く指を鳴らす。乾いた音。
それを合図に、部屋の中央に円形の光が浮かび上がった。白ではない。研究所の冷たさとは異なる、どこか温度を感じさせる淡い銀色。
「これは第3転生シュートだ。神楽坂君、ここを通れば新世界に着く」
喉が鳴った。
自分でも驚くほど乾いた音が、耳の奥で反響する。言葉が出ない。
そのとき、綾瀬龍華が静かに前へ出た。
足音はほとんどしない。彼女は光と俺の間に立ち、振り返らずに言う。
「大丈夫よ。あなたがどう転んでも、当面は私がついているわ」
彼女は表情を変えない。ただ、まっすぐ俺に視線を向けている。
距離は近いのに、心までは踏み込まない。その立ち位置が、彼女の役割そのものだった。
銀色の光が、ゆっくりと強くなる。温かいのに、触れたら消えてしまいそうな光。
「さ、行きましょう」
俺は深く息を吸った。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ動く。これは第二の人生なのだろう。けれどご褒美ではない。まだ何も始まっていない。
俺は光の中へ、一歩を踏み出した。




