■1-2 不鮮明な世界と明瞭な彼女
カラン。
乾いた金属音が、妙に澄んだ形で鼓膜を叩いた。
それは間違いなく、俺が子どもの頃から何千回、いや何万回と聞いてきた、実家の安っぽいドアベルの音色だった。指先の力加減も、押し込む角度も、身体が覚えているはずなのに――鳴った瞬間、胸の奥で何かがずれた。
音が、軽すぎる。
生活の重みが、まるで削ぎ落とされている。
鍋の煮える音も、テレビの音も、奥から聞こえる足音も伴わない。まるで「音」というデータだけを切り取って、真空のガラス越しに再生したような、不自然な透明度。違和感を自覚した途端、胃のあたりが反射的にきゅっと縮んだ。条件反射だ。理屈より先に、身体が危険を察知している。
俺は開いた玄関の向こうを覗き込む。
そこにあったのは、俺の知る無造作に靴が散乱した玄関ホールではなかった。
白。
視界を埋め尽くす、圧倒的な白。
壁も、床も、天井も、境界線が分からないほど均一な白。ペンキを塗ったような白ではない。光そのものが固体化し、空間に張り付いているかのような白だった。
俺は無意識に一歩引きかけて、踏みとどまる。
引いた足が、外なのか内なのか、分からなくなる。
埃も、染みも、傷もない。生活の痕跡が一切存在しない。そして何より――影がない。
試しに手をかざす。指の間にできるはずの影が、どこにも落ちない。上下左右、全方向から均等に照らされているせいで、輪郭だけが切り絵のようにくっきりと浮かび上がる。その不自然さに、喉の奥がひくりと鳴った。
肌に触れる空気は冷たくない。むしろ温度という意味では、快適ですらある。
それでも寒い。
温度ではなく、「温もり」という概念そのものが、この空間からごっそり抜き取られている。立っているだけで、俺という存在が持つわずかな熱量まで、この白い虚無に吸い取られていくような錯覚。
その隣で、綾瀬龍華は一切立ち止まらなかった。
俺が玄関の段差を確かめるように足元へ視線を落とす間にも、彼女は半歩前へ進み、当然のようにこの白の中へ体重を預けている。靴底の感触を確かめる様子すらない。
「安心してついてきて。外観だけよ、あなたの魂が最後にしがみついた記憶は。中身はこちら側の事情に合わせてもらうわ」
綾瀬の声は、反響もしなければ、吸い込まれもしない。
この空間に最適化された音量と質感で、きっちり耳に届く。
魂。
記憶。
こちら側。
単語としては、どれも知っている。日常でも、物語でも、何度も触れてきた言葉だ。
なのに、こうして現実の文脈に並べられると、意味が繋がらない。理解しようとすると、頭の奥で歯車が空回りする感覚だけが残る。音はないのに、「噛み合わない」という感触だけが、やけに生々しい。
俺が玄関の敷居を越えられずにいるのを、綾瀬は横目で一瞥した。
ほんの一瞬。確認するような視線を投げるだけで、心配も催促もない。
次の瞬間、彼女は何も言わず、白い指先でこちらを招いた。
肘から先だけを使った、ごく小さな動作。それなのに、その仕草だけが周囲の白の中で妙に際立って見えた。迷いのない人間の動きだ。
「入るわよ。あなたの状況を説明しないと、余計に混乱するでしょう?」
俺は喉を鳴らし、一歩踏み出す。
踏み出したはずなのに、床に触れた感触がない。一歩目は驚くほど軽く、足が宙に浮いたまま、次の位置に移動したような錯覚。思わず体勢を崩しそうになり、肩に力が入る。
二歩目で、背筋をぞわりとした違和感が這い上がった。
ここに長くいてはいけない。
引き返した方がいい。
そう思ったのに、足は止まらなかった。止まる、という選択肢が最初から用意されていないかのように、身体が勝手に前へ進む。
背後で、玄関の扉が閉まる。
きしみも、衝撃音もない。ただ「閉じた」という事実だけが、静かに確定する。
俺は振り返りかけて、やめた。
見ても、もう戻れないと分かってしまう気がしたからだ。理由も理屈もなく、ここが戻れない場所だということだけは、はっきりと理解してしまった。
「……ここ、本当に俺の家の中ですか?」
自分の声が、どこまで届いているのか分からない。
それでも、言葉にしないと足元がさらに不安定になりそうで、口を開いた。
綾瀬龍華は歩みを止めず、振り返りもしない。
「違うと言ったでしょう。あなたの記憶の“外側”はこっちが用意してるの。内側は白紙みたいなものよ。必要な機能だけが残っている」
俺は一瞬立ち止まり、彼女との距離がわずかに開く。
慌てて歩幅を合わせるが、その差は完全には埋まらない。彼女がこの空間の速度を知っていて、俺が知らない。それだけの違いが、はっきりと身体感覚に表れていた。
「必要な機能……って、何のために?」
「魂の管理。転生の準備。あなたの安全。いろいろよ」
彼女は白い通路をすいすいと進む。
足音はない。それなのに、進んでいることだけは確かに分かる。俺は置いていかれないよう、無意識に腕を振り、床を踏みしめる。踏みしめているはずなのに、反発がない。
白い壁に沿って歩いていると、すれ違う人影が現れ始めた。
白衣のような、スーツのような無彩色の服装。顔の輪郭は分かるのに、印象が薄い。誰も俺を見ない。視線が、最初から俺を避けている。
俺は思わず歩調を落とし、彼らを目で追う。
「この人たち……何してるんです?」
「研究員。魂や転生の仕組みを扱う人たちよ」
綾瀬は一度だけ足を止め、こちらを振り返った。
その視線は冷静で、必要な情報だけを渡すための角度をしている。
「あまり気にしなくていいわ。あなたには用はないから」
「俺には……?」
「あなたは調査対象じゃなく、転生プロセスの当事者。彼らの仕事はあなたを観察することじゃない」
分からない。
分からないことだらけだ。
けれど、一つだけはっきりしている。
この場所で、俺は迷い、足を確かめながら進む側だ。
そして綾瀬龍華は、最初からここを知っている側の人間だ。
その立ち位置の違いだけが、やけに鮮明だった。
少し歩くと、透明なガラスで仕切られた部屋が並ぶエリアに出た。足を止めた瞬間、思わず首を巡らせてしまう。右にも左にも、同じような構造の部屋が等間隔に続いている。中には機器が整然と配置され、ケーブル一本、端子一つ乱れることなく収まっていた。
モニターは無音のまま淡く点滅し、無数の図形や数値が白の中に浮かび上がっては、形を変えて消えていく。その様子を目で追おうとして、すぐに諦めた。理解する以前に、情報量が多すぎる。まるで世界そのものが、ここで解析され、分解され、部品単位にまで落とし込まれているみたいだった。
俺は無意識にガラスへ半歩近づき、反射的に映る自分の姿を確かめる。そこに映る自分が、本当に「実体」なのかどうか、自信が持てなかった。
「ここは……?」
声を出すと、わずかに喉が掠れた。質問というより、確認に近い。
綾瀬龍華は立ち止まることなく、視線だけを横に流して部屋の一つを見る。その仕草は、ここが特別な場所ではないと言わんばかりに淡々としていた。
「魂の状態を測定する部屋ね。脳波に近い部分も測るけど、基本は魂の在り方を分析する場所よ」
「魂……」
その単語を口にした瞬間、舌の上に違和感が残る。
何度も聞いているはずなのに、未だに現実の単語として馴染まない。頭の中で反響するばかりで、意味が形にならない。
歩みを緩めていた綾瀬龍華が、そこで初めて完全に足を止めた。かかとを揃え、体の向きをこちらに向ける。
俺は反射的に背筋を伸ばし、視線を合わせる。彼女の動作一つで、場の空気が切り替わったのが分かった。
その表情は、さっきまでのような冷たさとは少し違っていた。感情があるわけではない。それでも、角が取れたような、わずかな柔らかさが滲んでいる。
「神楽坂十郎。これから話すことは、あなたにとってとても受け入れにくい内容かもしれないわ」
名を呼ばれた瞬間、肩がぴくりと動いた。
自分が“呼ばれる側”であるという事実を、改めて突きつけられた気がした。
「……はい」
短く答えながら、指先に力が入る。何かを掴みたいのに、掴めるものがない。
「でも事実よ。だからそのまま聞いて」
喉が鳴った。ごくり、と小さな音がした気がする。
白い空間が、さらに体温を奪っていく。心臓の鼓動すら、この場所に吸収されて消えてしまいそうで、無意識に胸元へ手をやりかけて、途中でやめた。
綾瀬龍華は、間を置かずに言葉を落とした。
「あなた、死んだの」
一言だった。
強調も、溜めもない。なのに、その言葉は音も衝撃もなく、確実に胸の奥へ沈んだ。
「……え?」
声が出たのは、完全に反射だった。
自分でも、なぜそんな言葉を選んだのか分からない。ただ、何かを返さないと、この場に立っていられなくなりそうだった。
綾瀬龍華は、まばたき一つせず俺を見続けている。視線を逸らさない。その態度が、かえって逃げ場を塞いだ。
「死んだのよ、神楽坂十郎。自分で覚えていないのは珍しくないわ。理由も状況も、そのうち思い出すかもしれないし、あるいは思い出さない方がいいケースもある」
頭が、完全に真っ白になった。
白より白い研究所に、さらに白が降り積もっていくような感覚。思考が止まり、言葉が霧散する。
「……本当、なんですか」
ようやく絞り出した声は、情けないほど小さい。
「嘘をつく理由がないでしょう?」
即答だった。
「それに――あなた自身が一番分かってるはずよ」
呼吸がうまくいかない。胸がひゅっと縮み、冷たい空気が肺を通り抜ける。それなのに、不思議と倒れそうにはならなかった。
どこかで、冷静な自分が頷いている。
――ああ……そう言われてみると、確かに。
綾瀬龍華は、ほんのわずか視線を落とした。床を見るでもなく、ただ焦点を下げただけの動作。それが、言葉を選んでいるようにも見えた。
「でも、あなたの魂は壊れていない。こうして立っているのが、その証拠よ」
俺は自分の足元を見る。
確かに立っている。けれど、地面を踏んでいる感覚は相変わらず薄い。
「魂が残っている限り、次に進むことができる」
「次……?」
問い返すと、声が少しだけ震えた。
「転生。あなたにはその資格がある。今ここにある、あなたの魂――」
彼女はわずかに微笑んだ。
口元だけがほんの少し緩む、皮肉とも慰めともつかない、微妙な表情。
「無様な死に方をした魂にしては、上等な状態よ」
胸がどくんと鳴った。
無様な死に方。その言葉が、白く冷たい世界の中で、異様な重さを持って引っかかる。記憶はないのに、感情だけが反応している。何かが始まり、同時に、何かが静かに壊れ始めている感覚。
綾瀬龍華は、俺の反応を待たなかった。踵を返し、歩き出す。その動作は変わらず一定で、迷いがない。
「続きは所長がいる場所で話すわ。ついてきて」
俺は一瞬、立ち尽くし、それから重い足を引きずるように後を追った。
白い世界はひどく不鮮明で、どこまで行っても現実味がない。
それなのに――
彼女の背中だけは、異様なほどはっきりと、現実感を持ってそこに存在していた。




