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銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第五章 月明かりが照らす場所
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■5-2 真に孤独な時間

「ただいま」


 声は、思っていたよりも小さく、天井に届く前に消えた気がした。

 俺は誰もいない家に、いつもの調子で挨拶をする。返事が返ってくるはずもないと分かっているのに、喉と口が勝手にその言葉を選んだ。意識してやっているわけじゃない。気づかないうちに、そうするのが当たり前になっていた。


 玄関の扉を閉める。木が合わさる低い音が、夜の静けさの中でやけに大きく感じられ、俺は反射的に動きを止めた。誰に聞かれるわけでもないのに、しばらくそのまま立ち尽くす。


 家に着いた頃には、もう日をまたいでいた。

 復活したブルーノが語り上戸全開で、こちらの相槌を餌に話を広げ、なかなか帰してくれなかったのだ。途中から、店主の綾瀬さんは営業用の笑顔を完全に捨て、カウンターに肘をついたまま、明らかに「勘弁してくれ」という顔をしていた。それでも追い出さなかったのは、あの人なりの情なのだろう。


 思い返すと、少しだけ可笑しい。

 だが、口元が緩むことはなかった。ブルーノ……いや、それだけじゃない。モニカやシルヴィアは、もしもあの屋台が、ある日突然、煙のように跡形もなく消えたら、何を思うのだろう。

 驚くのか。それとも、「やっぱり」と、どこかで予感していたとでも言うのか。


 ……あと数日って、具体的に何だ?

 二日後なのか。三日後なのか。あるいは、そんな区切りすら意味を持たないのか。


 考えながら、無意識に机の前へ行き、コップに水を注ぐ。水面がわずかに揺れ、すぐに静まる。その様子を、俺はしばらく眺めていた。

 机の上に水を置き、そのまま身体を椅子に沈める。背もたれが、静かに、抗議するように軋んだ。


 いや、もしかすると、明日にはもう無いのかもしれない。

 だったら、俺は今、何を考えているのだろう。疑問があったのなら、あの場で聞けたはずだ。言葉にする機会はいくらでもあった。それでも、口を開かなかったのは――開けなかったのは、俺自身だ。


 水を一杯飲む。喉を通る感覚が、やけに現実的だった。

 机の引き出しに手を伸ばし、取っ手を引く。少し引っかかり、力を加えると、素直に開いた。


 中には、この世界では貴重とされる、上質な紙が一枚入っていた。

 正確には白紙ではない。一番上に「綾瀬龍華様」とだけ、丁寧な文字で書かれている。

 その下には羊皮紙。これも変わらない。上部に「綾瀬龍華様」とのみ。

 さらにその下にも、また羊皮紙があった。


 俺は一枚一枚を指で揃え、角を合わせてから、まとめて引き出しに戻した。

 閉めるとき、少しだけ力が入った。机の上に残ったのは、白い紙が一枚だけだった。


 もう一度、水を煽る。コップを傾けすぎて、最後は空気を吸う音がした。

 月明かりが、ちょうどいい具合に机の表面を照らしている。その淡い光に引き寄せられるように、俺は首を上げ、月をぼんやりと見上げた。理由は分からない。ただ、やけに綺麗に見えた。


 どれくらい、そうしていたのだろう。

 ずいぶん長いあいだ、月を眺めていた気がする。数分だったのか、それとももっと長かったのか。時間の感覚は曖昧だった。

 気づけば月はゆっくりと位置を変え、さっきまで俺を照らしていた光は、いま机の上の白い紙を照らしていた。


 促されるように、俺は視線を落とし、椅子ごと身体の向きを机へ正面に戻す。

 反射的にコップを掴んだが、中身はもう空だった。小さく息を吐き、コップを元の位置へ戻す。その代わりに、引き出しの脇に置いてあったペンを手に取る。


 紙に向かい、ペン先を落とす。

 考えながら書いているはずなのに、考えている感覚は遠かった。意識の外側で、手だけが淡々と動いていく。言葉が選ばれるというより、すでに決まっていたものが、順番に流れ出てくるようだった。


 白い紙は、いつの間にか半分ほど文字で埋まっていた。

 その頃には、月明かりもさらに移動し、机を照らすことはなくなっていたが、もう気にならない。明るさが足りなくなることも、夜が深まっていくことも、意識に上らなかった。ただ、書くことだけが続いていた。


 薄暗さは苦ではなかった。

 遠くで野犬が吠える声が聞こえたが、それも不思議と耳障りではない。俺は椅子に腰を下ろしたまま、背筋を伸ばし直し、黙々と文字を重ねていく。頭の奥に溜まっていたものが、順序を保ったまま外へ流れ出ていく。そんな感覚が、確かにあった。


 途中でペン先が、紙の繊維にわずかに引っかかることはあった。

 だが、書き直すことはしなかった。それでいいと思えた。整っている必要はない。うまく伝わらなくても構わない。ただ、ここに残しておくこと。それだけが、今の俺には重要だった。


 最後の行を書き終え、ほんの少しだけ間を置いてから、自分の名前を書き入れる。

 その名前を書くのは、ひどく久しぶりに感じた。書類でも契約でもなく、誰かに向けた言葉の締めくくりとして自分の名を書くのは、いつ以来だろう。


 インクが乾くのを待つあいだ、俺は紙から目を離さずにいた。

 立ち上がると、身体のあちこちが静かに軋む。腰を伸ばし、肩を回し、それから台所へ向かう。水を一杯汲み、コップを持ち直す。冷たさが喉を通り、腹の奥へ落ちていく。その感覚を確かめるように、ゆっくりと飲み干した。


 部屋へ戻る前、無意識に深呼吸をひとつしていた。

 机の上に紙があることを、もう一度だけ確認する。そこにある。きちんと、そこに存在している。それで十分だった。


 俺はそのまま玄関へ向かった。

 靴を履き、紐を結び直し、戸口に立つ。振り返る理由は特になかったはずなのに、自然と一度だけ室内を見渡していた。


 誰もいない部屋。

 物音ひとつしない空間。それでも、ここで過ごした時間の重みだけは、確かに残っている。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に告げる。

 これもまた、知らないうちに身についていたクセだった。







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