■5-1 青年が求めていたもの
綾瀬さんの店を覗くと、最初に鼻を突いたのは、澄んだ出汁の匂いだった。
昆布と鰹が溶け合った、余計な主張のない、それでいて芯のある香り。鼻腔の奥を、ゆっくりと温度を伴って満たしていく。匂いだけで、ああ、今日は静かな夜だな、と分かる。
奥の鍋の中で何かが静かに煮えている気配が伝わってきた。ぐらぐらでも、ぐつぐつでもない。火加減を完全に掌握している人間の音だ。
その奥、年季の入った木製カウンター席に、ちょこんと腰掛けたスーツ姿が見える。
背広の肩線は崩れ、背中はわずかに丸まり、椅子に預けた体重が、そのまま床へと逃げていくような座り方。
信頼と安全の情報屋、ブルーノ。顔を見なくても分かる。あれは完全に、仕事の鎧を脱いだ背中だ。
背中越しに漂ってくる、張り詰めていない空気。あの緩み方は、ここを「安全地帯」だと認識している証拠でもある。見ているこっちまで、無意識に肩の力が抜けそうになる。
「おーす、こんばんは」
声をかけると、ブルーノは弾かれたように振り返った。
椅子がわずかに鳴り、上体だけが先に動く。
「あー、神楽坂さーん!」
屋台に響く大声。
木と陶器に囲まれた空間が、一瞬だけ共鳴するように震えた。
そのタイミングで、綾瀬さんが何も言わず、新しいコップをカウンターに置く。置く位置は、ブルーノの利き手側。ほんの少しだけ、手前に寄せてある。
ブルーノはそれを受け取ると、迷いなくビールを注ぐ。
黄金色の液体が勢いよく流れ込み、白い泡が盛り上がり、縁からこぼれそうになる。綾瀬さんはそれを横目で確認しつつも、止めない。
あふれる寸前で注ぐのをやめると知っているからだ。
微細な泡がはじける音が、妙に生々しく耳に残る。
「はい、座って、座って! こいつは僕のおごりっすよ!」
ブルーノは足で木の椅子を引き寄せる。
脚が地を擦る、低く鈍い音。
その動作を見て、綾瀬さんが一瞬だけ視線を落とし、椅子の位置関係を確認する。倒れない距離、ぶつからない角度。全部、無言で処理している。
馴れ馴れしい手招きは大きく、雑で、酔いの勢いそのままだ。
ブルーノはすでにいい具合になっている。
もともと軽いノリの男だが、今はそれが浮力を得たみたいに、地に足がついていない。頬は赤く、目は据わっているというより、焦点が少し先に抜けている感じだ。
言葉より先に感情が溢れ出しそうな、不安定さ。
俺は一度、カウンターの向こうに立つ綾瀬さんへ視線を送った。
「今日は語り上戸の日みたいよ」
そう言いながら、綾瀬さんは空になっていたブルーノのどんぶりを引き上げる。
手首の返しが滑らかで、余計な音を立てない。
だが、陶器同士が軽く触れ合い、乾いた澄んだ音がひとつだけ鳴る。
その音が、不思議と店の空気を少しだけ引き締めた。
――あれは、注意喚起だ。
「聞くなら聞くけど、ほどほどにしなさい」という合図。
「ふーん……じゃあ、はいからネギ多めで」
無難に、そして安い品を選ぶ。
余計な気を使わせないための注文。こういうところは、もう半ば癖だ。
椅子に腰を下ろすと、肘が木の感触を拾う。
この店のカウンターは、角が丸く、長年の手入れで表面が滑らかだ。触れるだけで、落ち着く。
俺は一応、話を聞く体勢を整えた。
身構え半分、流し半分。
本気で聞くと長くなる。流しすぎると拗ねる。その中間。
「神楽坂さん! いいですか!」
「はい、なんでしょ?」
声のトーンを一段落とす。
こういうときは、真正面から受け止めすぎないのがコツだ。
「あのね! 僕はこれでも人一倍、よそ様の冒険譚や武勇伝みたいな話を聞いてきているんです!」
ブルーノは胸を張る。
確かにその通りだろう。情報屋という稼業上、彼のもとには、取引のついでに語られる話が集まる。
酒の席の与太話。
血と汗の匂いが染みついた体験談。
誇張も、嘘も、後悔も、真実も。全部が絡み合ったまま、価値ある情報のオマケとして転がり込んでくる。
「だろうねぇ。分かる、分かる」
可もなく不可もない返事。
箸を手に取る。木の箸が指先に馴染む。
綾瀬さんが、そのタイミングを見計らったように、鍋に蓋をする音を立てた。
話に集中させすぎないための、わざとらしくない生活音。
「そうなんですよ! こんなこと今更言うことでもない気がしますけど、あんなの全部ウソなんです!」
そう言って、ブルーノはビールを一口。
喉が鳴る音が、やけに大きく、湿った響きで耳に届いた。
「なんだ、なんだ? また半年前の自分の雄姿を語りたくなってきたのか?」
軽く突く。
否定ではなく、誘導。
俺と団長の視覚者として、ゴロツキどもの巣に侵入した話。
直後は大いにビビり散らかしていたが、命が無事だと実感し始めたあたりから、ブルーノはこの話を誇らしげに持ち出すようになった。
人は、恐怖を越えた記憶を、武勇譚に変換しないと消化できない。
それは弱さじゃない。
生き残るための、正しい歪みだ。
「あー、惜しい! 神楽坂さん! そこはキッカケなんですよ、冒険譚の本質に気づいてしまったキッカケに過ぎないんです!……とは言ってもまぁ、あのくらいの修羅場をくぐらないと説得力はないですがね」
前半は力が入り、後半になるにつれて、いつものブルーノの調子に戻っていく。声の張りが少しだけ落ち、言葉の端が軽くなる。
あの夜の出来事が、この男にとって一種の勲章になっているのは間違いない。
巻き込んだ側としては、結果が良かったという事実に、わずかな安心感を覚える。
「で? ウソっていうのはどういうこと? お前のところに入ってくる話だ、ガセもあれば本物もあるだろ――」
「ウソです!」
食い気味の即答。
ブルーノは勢いそのままに、俺の肩をバシンと叩いた。
思った以上に力があり、箸が指先から跳ねる。器の縁に当たり、軽い乾いた音がした。
――痛ぇな。
いや、それ以上に、勢いがある。
「そこには燃えるような感情も、涙を流すような感動もないんです! あくまでその経験をした人間一人でしか持てないモノなんすよ!」
語尾が熱を帯びる。
ブルーノの目は、俺ではなく、どこか宙を見ている。自分の内側にある何かを、無理やり言葉にしようとしている目だ。
「あなただって、物語に心を動かされていた無垢な時代はあったわけでしょう?」
綾瀬さんが、どんぶりを俺の前に置きながら、自然に話に割り込んでくる。
その動きは実に静かで、肘も袖も、周囲の物に一切触れない。
湯気がふわりと立ち上り、出汁の香りが一段と濃くなる。
彼女の視線はブルーノに向いているが、声の調子は感情を含まない。
問いかけというより、確認に近い。
とりあえずは、いただきます。
今は、食べないと話が長引く。
「もちろんですよ、綾瀬さん! 何なら僕はそうしたものを求めていたし、探していましたよ! そう……」
勢いよくまくし立てていたブルーノが、ふっと言葉を失った。
音が消える。
声が途切れ、言葉にならなかった何かだけが、その場に残る。
綾瀬さんとブルーノの目が、短く交差する。
綾瀬さんは、それ以上何も言わない。
ほんのわずかに視線を落とし、体の向きを変え、そのままカウンターの奥へと下がっていった。
鍋をかき混ぜる音が戻る。
一定のリズム。感情の入らない、作業音。
――話を続けるか、やめるか。
選択を、ブルーノに委ねた動きだ。
「でもね、僕が求めていたのは、僕だけの、僕だけによる、僕だけのための……何かだったんすよ」
声が一段落ちる。
熱が冷めたわけじゃない。ただ、熱の向きが内側に変わった。
「なんだよ? 何かって」
夕食を噛みしめながら、短く聞く。
麺は柔らかく、出汁がよく絡む。
ネギの香りが鼻に抜ける。――うまい。今はそれだけが救いだ。
「それが……ちょっと分からないですね。たぶんあれっすよ。言葉にしたら陳腐になるもんだから、出てこないんですよ」
――分からない、か。
情報屋の口から聞くには、妙に正直な言葉だ。
「人の冒険譚も武勇伝も陳腐なのか?」
問いかけると、ブルーノはしばらく黙り込んだ。
視線がテーブルの木目をなぞるように落ち、指先が、何もない場所を撫でる。
それから、弱々しく口を開いた。
「僕はね……そういうものに触れるたび……冒険譚が大掛かりなら大掛かりなだけ……燃えるような武勇伝ならその熱量だけ……心の底が冷えるようになっていったんすよ」
「半年前からかよ?」
「ええ、あの廃屋の冒険は…………」
一転。
ブルーノは、馬鹿みたいに高い声で笑った。
そのまま、食事中の俺の背中をバンと叩く。
咳き込みそうになるのを、必死にこらえる。
そして次の瞬間、ひとりで背中を丸め、深い溜息を吐いた。
……かと思ったら、そのまま机に突っ伏す。
寝た。
本当に、唐突に。
規則正しい寝息が、店の静けさに溶け込んでいく。
「……まぁ、こんな日もあるか」
そうつぶやいた、その瞬間だった。
刺すような視線を感じた。
顔を上げると、綾瀬さんがこちらを見ている。
表情は、いつも通りだ。感情は読み取れない。
「どうしたんですか? 綾瀬さん」
「神楽坂。私ね、あと数日で研究所に戻るわ」
一瞬、言葉の意味を処理できなかった。
「え? 何かあったんですか?」
「何もないわ。戻るだけよ」
「え? どういうことですか?」
「どうもこうも無いわよ。あんたがこの世界で自立できるようになったから、私は用済みなの」
――用済み。
事務的で、感情の乗らない言葉。
それが余計に、胸の奥に引っかかる。
「え? じゃあ綾瀬さんは帰って何するんですか?」
「何って……次の転生者を見守りにいくの! 研究所の監視官として! 全部最初に説明したでしょ!」
「え? はい、聞きました。もちろん覚えていますよ」
本当だ。
説明は受けた。理解もしたつもりだった。
「ならよし」
それだけ言って、綾瀬さんは鍋に向き直る。
火加減を調整する指先が、いつもよりほんの一拍だけ遅れる。
「………」
鍋の音も、
客の少ない店内の気配も、
すべて、いつもと同じだ。
それなのに。
まるで、音程の合わない楽器がひとつ混じったみたいに、
どこか一音ずれているような沈黙が、確かにそこにあった。




