■4-9 夜空に輝く
マルセラの夜空は、一面の星で埋め尽くされていた。
雲一つない澄んだ空気が肺の奥まで冷たく通り、吸い込むたびに喉の奥が少しだけ痛む。冷気が気管をなぞり、胸の内側をきゅっと締め付ける感覚がある。
見上げれば、星々はやけに近い。瞬きのたびに、白く、青く、時折わずかに赤みを帯びて、まるで手を伸ばせば掴めそうなほどの密度で瞬いている。夜の静けさを破らぬよう、星だけがひそやかにざわめいているようにも見えた。
時刻は夜九時。
体内時計が、そろそろだと告げてくる。
ついさっき通ってきた中央通りは、まだ一日の熱をしつこく抱え込んだまま、騒がしさを失っていない。石畳から立ち上る微かな土と汗の匂い、昼間にこぼれた酒や煮込みの名残が、夜風に乗って鼻先をくすぐる。
仕事帰りのおじさま方は肩を落とし、靴音を引きずるようにしながら酒場へと吸い込まれていく。その背中を追うように、声を張り上げる居酒屋の呼び込みが路地に反響し、壁にぶつかっては跳ね返る。
家に帰る気のない不良少年たちは街灯の下にたむろし、光に照らされた顔は幼さと苛立ちを同時に浮かべていた。これから仕事を始める夜の人間たちは、視線を合わせることもなく、影のようにすれ違っていく。
混沌としていて、猥雑で、それでいてどこか生き物の鼓動を思わせる活気がある。
――悪くない。
胸の奥で、そんな感想が静かに転がった。
だが、それは本心のほんの表層に過ぎない。もっと奥、胃の裏側あたりでは、別の感情がじわじわと広がっている。得体の知れない予感。嫌な胸騒ぎ。
そして……そろそろだ。
無意識に息を詰め、夜空を見上げる。
視界の端がわずかに揺れた気がして、反射的に肩に力が入る。心臓の鼓動が一拍、速くなる。
…………。
一瞬の閃光が夜空を裂いた。
まぶたの裏に白い残像が焼き付き、反射的に目を細めた次の瞬間、星々は消え失せ、夜空全体が巨大な黒い真円に覆われる。
風の音も、遠くの喧騒も、どこか薄くなる。音が遠のくというより、現実そのものが一段階、後ろへ引き下がったような感覚だ。
――来た。
あれはスクリーンだ。
写し出されているのは、俺の目の前に立つ、喪服のようなスーツを着た男。その後ろ姿だった。布地は光を吸い込み、夜の中に溶け込むように黒い。
それなのに、肩のラインだけは妙にくっきりしている。背筋が真っ直ぐで、微動だにしない。何もしていないのに、そこに「立っている」という事実だけで圧を放っている。
『ああ、首尾は上々のようだ』
低く、湿った声。
団長はそう呟くと、ほんのわずかに首を傾け、それからゆっくりとこちらへ振り返ってみせた。
その動作には無駄がなく、急ぐ素振りもない。自分が注目されていることを、完全に理解した上で、わざと間を取っている。
映像越しでもわかる、口角の歪み。
笑っている。だが、喜びや楽しさとは無縁の、獲物を前にした捕食者のそれだ。
『ごきげんよう、マルセラの諸君。こちらはマルセラ治安維持隊……といっても私設だがね。自称治安維持隊と言うべきかぁ?』
団長は軽く肩をすくめ、両手を広げる。
ジェスチャーは大げさだが、動き自体はやけに洗練されている。見せるための動き。見られることを前提とした所作だ。
男は、くくく、と喉を鳴らして笑った。
歪んだ笑い声が、拡声されたように街全体へと響き渡り、壁や屋根にぶつかって増幅される。胸の奥がざらつく、不快な音だ。
周囲のざわめきが、一瞬だけ弱まった気がした。気のせいじゃない。街が、無意識に耳を澄ましている。
『俺はそこで団長をやっている者だ』
その一言で、空気が変わる。
冗談めいた口調なのに、言葉そのものが釘のように打ち込まれる。逃げ場が、少しずつ削られていく感覚。
そこへ俺が声を飛ばす。
『団長、前置きはそのへんで』
声を出した瞬間、喉がわずかに引き攣るのが分かった。
俺の声もまた、夜空に反響した。石畳を伝って、見知らぬ誰かの耳に届いているのだと思うと、背中がむず痒くなる。
――まずい。思ったよりも、緊張している。
自分の声が街に流れるのは、やっぱり少し恥ずかしい。いや、それ以上に、下手なことを言えば取り返しがつかないという実感が、腹の底で重くのしかかっている。
『まあ、急かすなよ、兄弟。さて、これからマイシカ橋の奥にある廃屋に仕事をしに行く。行くって言っても、もう着いているんだがなぁ。ここだ』
団長は振り返りざま、親指で背後を示した。
その動きに合わせて、夜空の映像が切り替わる。
夜空には、寂れた廃屋の姿が映し出された。
壁はひび割れ、雨水の通り道が黒く筋を引いている。屋根はところどころ崩れ、夜風に煽られて瓦がかすかに鳴った。
放置されてからもう何年も経っているのだろう。湿った木と腐食した金属の匂いが、映像越しにも伝わってくる気がする。
壁面には無数のツタが、建物を締め上げるように絡みついていた。
生き物の執念じみた緑だ。
だが二階の窓からは、今まさに明かりが漏れている。黄色い光が、闇の中で不自然に脈打っていた。
――やっぱり、いる。
背筋がぞくりとする。逃げ場はない。向こうも、そのつもりだ。
『ここに巣くう馬鹿どもが街の脅威にならないように、今から掃除しに行く。じゃあとっとと済ませようか』
団長はそう言うと、ためらいなく門扉に手をかけた。
古い鉄製の門が、ギイィと錆びた音を立てながら開く。
指先の力は強すぎず、だが確実だ。音を立てることすら、計算の内だと言わんばかりの手つき。
金属が悲鳴を上げるその音が、夜に妙に生々しい。
『おい、団長。あまりやり過ぎるなよ』
自分でも、声が少し硬いのが分かる。
制止の言葉というより、確認だ。お互いが、どこまで行くつもりなのか。
『分かってるって。だがよ……』
団長は歩みを止め、ゆっくりと振り返る。
視線が、真っ直ぐこちらを射抜いた。逃げ場のない、一直線の目だ。
団長は映像を観る者を睨みつけた。
『コレを見ているゴロツキども。逃げるんじゃねーぞ。逃げたやつには手加減するつもりはねぇ』
その声には、冗談も芝居もない。
脅しですらない。ただの事実の宣告だ。
直後、団長は鍵の掛かっていないドアを勢いよく開け放ち、廃屋の中へと踏み込んでいった。
乾いた衝撃音が、腹の底に響く。
一歩目から迷いがない。躊躇という概念を、最初から持ち合わせていない足取りだ。
俺もそれを追う。
身体が勝手に動く。頭で考える前に、足が前に出ている。
――落ち着け。今は、周囲を見ろ。呼吸を忘れるな。
ちらりと夜空を見上げると、そこには俺自身の後ろ姿が映っていた。
肩の動き、足運びの癖まで、はっきりと。
映像は二人の動きを逃さず追い続ける。玄関、二階へ続く階段、そして明かりの点いていた部屋。
団長はそのドアに、躊躇なく強烈な前蹴りを叩き込んだ。
踏み込みは深く、体重移動は完璧だ。
バキン、という乾いた音とともに、ドアは部屋の中へ吸い込まれるように吹き飛んだ。
木屑が舞い、埃の匂いが一気に立ち込める。
『な、何なんだ一体!?』
スクリーンはその声の主を映し出す。
俺の喉が、無意識に鳴った。
――始まった。ここから先は、引き返せない。
『やっぱりここからでも十分空は見えるな』
団長の声は、どこまでも落ち着いていた。
その落ち着きが、逆に怖い。
心拍数が上がるのを、必死に抑えながら、俺は一歩、前に出た。
団長は、映像に自分たちのいる部屋が映っているのをゆっくりと確認した。
自分の立ち位置、背後、室内の死角――すべてを一瞬で把握している視線だ。敵ではなく、場そのものを見ている。
『何だって、さっき言ったとおりだ。掃除しに来たんだよぉ。しかし五人かぁ。ここに馬鹿どもは全員いないってわけだ』
夜空には、部屋全体がぐるりと映された。
机の配置、割れた床板、壁に残る古い染みまで、逃げ場のなさを誇示するように晒されている。
団長は一歩も動いていないのに、画面越しには完全に支配者の構図が出来上がっていた。
『……お前か。とりあえずのところ、ここではお前がトップか』
団長に指をさされた長髪の男が、クローズアップされる。
脂ぎった髪、落ち着きなく動く瞳。虚勢と恐怖が、どちらも隠しきれていない。
『だったら何だって言うんだ!?ああ!?』
吠える長髪。声量だけはあるが、腹の底から出ていない。
――ああ、駄目だね。もう勝負は決まっている。
そう思った瞬間、部屋の隅にいた小男が角材を振り上げ、団長に襲い掛かってきた。
俺は反射的に動いた。
考えるより先に、身体が前に出る。角材が振り下ろされる前に胴タックルを決め、そのまま壁面まで叩き込む。
衝撃が骨に伝わり、壁の冷たさが背中越しに伝わる。
――軽いんだよ。
力任せに見えて、相手の体勢は完全に奪えている。
壁を枕にした小男の顔面を掴み、ガツンと後頭部を打ちつけてやった。鈍い音。
小男はそのまま力なく崩れ落ち、失神した。
『余計なお世話だったかい?団長?』
夜空には、俺の顔がアップで映っていた。
自分でも驚くほど冷えた目をしている。
……いや、違う。冷えたんじゃない。切り替わっただけだ。
『いや、問題ない。あと四人いる』
即答だった。
礼も評価もない。ただの事実確認。
それが、逆に団長の余裕を際立たせる。
残ったゴロツキどもは、怯んだまま完全に動きを止めていた。
空気が重く、息遣いだけがやけに大きい。
――ここにいる全員が、もう分かっている。
勝てない、と。
『そうか。じゃあ俺は他に潜んでいる奴がいないか確認してくる。ついでに、ここから逃げ出す奴も俺が始末しておく』
淡々とした口調。
「逃げる」という選択肢すら、相手に与えない言い回しだ。
『わりぃな、兄弟。つまらねぇ仕事ばっかさせちまって』
俺と団長は左拳をコツンと合わせ、俺は退室した。
拳に残る、確かな温度。
――この男は、本当に強い。
力だけじゃない。判断の速さ、割り切り、責任の取り方。
だから、ついて行く人間がいる。
廊下に出た俺は、夜空に映し出されている映像が見やすい位置を探して移動する。
床板が軋む音がやけに大きく感じられる。
静かな廃屋の中で、自分の存在だけが浮き上がる感覚だ。
早々に、ここだと決めたにもかかわらず、構図はすでに一対三になっていた。
……ああ、もう一人減ったのか。
もはや結果は見えている。
団長の踏み込み。
まずこれに反応できていない。
間合いに入る速度が、根本的に違う。不意に距離を詰められたゴロツキの一人は、なす術もなく顎でアッパーを受け止め、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
骨に伝わる衝撃が、画面越しに想像できる。
その背後を狙ったゴロツキその二もまた、次の瞬間には宙を舞っていた。
芸術的なタイミングで放たれた後ろ回し蹴りだ。
力任せではない。読み切った上での一撃。
「大人と子供だな」
そう漏らさずにはいられない。
技量も、覚悟も、立っている次元が違う。
残ったのは、この場のトップと鑑定された長髪の男だけだった。
『ふ、ふざけやがって……!』
長髪は怒りに任せて突っ込んでくる。
――馬鹿丸出しだ。
団長は何の苦もなく左ボディを叩き込む。急所を外さず、だが殺さない。
『うう……』
情けない声を上げ、うずくまる長髪に、団長は渾身のサイドキックを放った。
長髪は部屋にあったテーブルの上へ叩きつけられる。
木が悲鳴を上げ、埃が舞う。
終わりだ。
誰の目にも、それは明らかだった。
俺は最初の部屋へと戻りに行く。
入室すると、団長は仰向けに倒れた長髪に馬乗りになり、拳を落としていた。
当然、手加減はしている。
本気なら、とっくに意識は残っていない。
『こっちは終わったよ、団長』
拳をピタリと止める団長。
切り替えが、異常なほど早い。
『そうかぁ。じゃあこっちも締めくくりに入るぜぇ』
団長はテーブルから降りた。
長髪はピクリとも動かない。
『俺の声が聞こえるかぁ?聞こえないならよぉ、気つけにもう一撃入れる』
『あ!ああ、聞こえている』
長髪は、か細い声で答えた。
完全に主導権を奪われた人間の声だ。
『お前ら……俺の兄弟、あそこにいる男にちょっかい出そうとしてるよな?くだらねー人相書を出してまでよぉ……返事は、「はい」か「いいえ」だ』
『はい……』
ふーっと息を吐いた団長は、顔が触れそうなほど近づいて吠えた。
距離そのものが、圧力になる。
『よく聞け!この雑魚野郎!二度とあいつに!あいつの仲間に近寄るな!近づいたら殺すぞ!!テメーだけじゃねぇ!テメーの代わりに誰かが動いてもテメーを消す!あいつらが怪我したり、いつもの活動場所を変えなきゃならねーようなことになっても、真っ先にテメーを潰す!聞こえたか!?ああ!?』
これは脅しじゃない。
宣言だ。おっかねぇなあ。
『だ、団長、もう……』
『聞こえたかって聞いてんだよぉ!!』
『はい……二度と近づきません。勘弁してください』
長髪は完全に折れた。
視線は焦点を失い、肩は小刻みに震えている。
――ここまでやって、初めて「生き延びる道」を与える。
それが団長の流儀だ。
さて、次は俺の番だ。
スタスタと画角に入り込み、中央を陣取る。
……正直、少しだけ緊張する。
だが、ここで引くわけにはいかない。
窓越しにそれを確認し、映像を観ている一部の馬鹿共に指をさした。
『副長派とか名乗ってる連中、お前らも一緒だ。連絡しておけ。この映像を観ていない奴がいたら、きっちり伝えろ。それが行き届かず、アホな下っ端が俺たちに害をなすようなら……さっきのような地獄を見せる。明日の朝、ギルドに人相書が残っているようなことがあっても同じだ。一切、許しはしねぇ!とっとと終わらせろ、この茶番を!』
言い終えて数秒。
沈黙が、夜を張り詰めさせる。
再び一閃の光が走り、何事もなかったかのように、夜空は星々の輝くいつものマルセラへと戻っていった。
ざわめきが戻り、静寂が現実を引き戻す。
しかし、この晩を境に、闇夜の烏の内部勢力は大きく動いた。
反団長派は自己修復不能の致命的なダメージを負い、
副長派は存在の大義名分を失い、
団長は失っていた統率力を、完全に取り戻した。




