■4-8 自称治安維持豚の現状
「うーむ、まさか今日こいつを使う日が来るとは」
綾瀬さんは屋台の隅に「本日貸し切り」と墨文字で書かれた垂れ幕を引っ掛けながら、眉間にしわを寄せた。
木製の屋台の枠が、力をかけるたびに小さく軋む。長年、夜風と雨と煙にさらされてきた木だ。軽く押しただけでも、内部に溜まった疲労が音になって漏れ出す。
乾いた木の音に、夕方の風に煽られた布がはためく音が重なり、日が落ちきる直前の空気を揺らした。
屋台の外気はまだほんのりと暖かさを残しているが、風の芯には夜の冷えが混じり始めている。その境目が、妙に落ち着かない。
「いや、そんなに長時間居るつもりはないからさ、たぶんいつもの時間には通常営業できるよ」
そう言いながら、俺はふと空を仰いだ。
西の空は、今日一番の赤をたたえた夕陽が沈みかけていて、その光が屋台の鍋や金属の器具に反射し、朱色の斑を作っている。鉄の縁が昼の熱をまだ抱えたまま鈍く光り、湯の匂いと出汁の香りが、空気に溶けていた。
――この風景だけを切り取れば、どこにでもある平和な夕方だ。
だが俺の背後には、どう考えても場違いな存在が立っている。
「……おい、どういうことだ」
背後から、敗北者が小さく吠えた。
声は低いが、どこか張りを欠いている。
威圧しようとしているのに、足場が定まらない。そんな響きだった。
「あー、はいはい出ました。言うと思ったよ。もっとオシャレなお店を期待したんだろ? 残念でした」
俺は肩をすくめる。
団長の背中から、苛立ちと困惑が入り混じった空気が立ち上っているのが分かる。怒り切れない、かといって納得もできない。その中途半端さが、いつもの不気味さとは別の意味で気持ち悪い。
「ちっ! そういうことを言いたいんじゃあ――」
言いかけたところで、団長は口を閉ざした。
唇を強く引き結び、喉の奥で言葉を噛み殺す。
沈黙が一瞬、屋台の前に落ちる。
……あー、よかった。
「公園の端で息している小汚い屋台」とか言い出されたら、綾瀬さんが本気で殴ってたかもしれん。
そうならなかっただけ、今日は少し運がいい。
「はいはーい。席出したから、お二人さんどーぞ」
店主の明るい声に押されるように、俺はのれんをくぐり、カウンター席に腰を下ろした。
木の椅子は年季が入っていて、座ると僅かに沈み、身体の重みを素直に受け止める。尻の下から、長年の使用で磨かれた木の感触が伝わってきた。
――が。
なぜか、団長が入ってこない。
振り返ってのれんを持ち上げてみると、さっきと同じ場所に突っ立ったまま、屋台の内側をじっと見つめている。
視線は泳ぎ、足の位置も定まらない。まるで異国の儀式でも前にしているかのようだ。
「なんで入んないの?」
「お前が入るところを注視していなかった」
「なんだそりゃ? 普通に入ってくりゃあいいんだよ」
「じゃあ……こうかよ?」
団長は俺が持ち上げていたのれんをくぐり、異様なまでに慎重な動作で着席した。
椅子の脚を確かめ、カウンターとの距離を測り、背後の空間を一瞬だけ振り返る。
その一連の動きは、完全に「警戒」だ。
……いや、何を警戒してるんだよ。
うどん屋だぞ、ここ。
「うん……そうだよ」
なんだこの男は。
地下で人を縫い止めていた時の、あの不気味な余裕はどこへ行った。
「じゃ、綾瀬さん、かき揚げうどん大盛。それとあったかいお茶で」
「はいよ。で、そっちのお兄さんは?」
「ふん、なるほど。メニューがない店というわけか。では、とりあえずウイスキーを貰おう――」
「ないよ!」
団長の渾身のオーダーは、間髪入れず綾瀬さんに叩き潰された。
「ウイスキーってあんた、うどんとの相性考えて頼みなさいよ」
「なんだ、どういうことだ……!」
「どうもこうも。それよりうどん屋に来たんだからうどん頼みなさいよ。うどん」
「うどんだな。わかった。少し時間をくれ……」
完全にカルチャーショックを受けている団長を見て、俺は小さく息を吐いた。
……ああ、ダメだ。放っておいたら、この男、永久に決められない。
「綾瀬さん、きつね普通盛り。でもって純米系をつけてやって」
「あーら、優しいことしてくれるじゃない。お兄さん、それでいいの?」
団長は一瞬だけ視線を泳がせ、それから黙って首を縦に振った。
その仕草が、拍子抜けするほど素直で、逆に胸の奥がざわつく。
……俺、何やってんだろうな。
敵の世話焼いて。
「はーい、じゃお酒だけ先に出すからちょっと待っていてね」
綾瀬さんは屋台の中をすっと移動していった。
鍋から立ち上る湯気が、外気と混じり合い、白く揺れる。出汁の香りが鼻腔を満たし、腹の奥を静かに刺激した。
「神楽坂、この店は……」
団長が何か言いかけた、その声は弱々しく、いつもの威圧感がない。
まるで知らない場所で、言葉を選びあぐねている子供みたいだ。
だが、それを遮るように、「はい、おまたせ」
湯呑とコップがカウンターに置かれた。陶器の底が木に触れる、乾いた音。
「じゃ、何だろな。別に特別な日でもないけどさ……今日もお疲れ様でしたってことで」
俺は自分の湯呑みを、団長が持っているコップに無理矢理カチンと合わせた。
乾いた音が小さく響き、夕暮れの空気に溶ける。
「乾杯」
「ん」
団長が酒を口に運ぶのを、俺は横目でじっと観察していた。
喉が動き、肩の力がほんの少し抜ける。
一口飲んだあと、こちらの視線に気づいたらしい。
「まぁ、普通と言った感じだな。クセが強くないのは助かる」
律儀に食レポしてくれた。
……そんなキャラだったか、お前。
「そりゃ良かった、きつねにも合うよ」
綾瀬さんが、カウンターに丼をふたつ下ろした。
湯気と一緒に、甘く煮含められた油揚げの香りが広がり、鼻先をくすぐる。
「ん、どーも。それじゃあいただきます」
俺の言葉に続いて、
「……いただきます」
団長が、少し遅れて小さく呟いた。
……うーん。
これは「貸し切り」の垂れ幕を出しておいて正解だったな。
構成員が見たら、価値観の崩壊で倒れかねない光景だ。
「ま、そろそろいいか」
団長は三杯目の日本酒が入ったコップの縁を、指で軽く叩いて切り出した。
乾いた音が、屋台の中に小さく残る。指先の動きはいつもの大仰さがなく、ほんの僅かだが、確かに緊張を帯びていた。酒で赤くなった顔色とは裏腹に、目だけが冴え返っている。
その瞬間、綾瀬さんの手がぴたりと止まった。
鍋の前に立ったまま、何も言わず、何も聞かない。ただ、こちらの様子を邪魔しない距離を保つ。火加減を調整する仕草も、必要最低限だ。
――この人、分かってるな。
ここから先は、口を出す場面じゃないと。
「何がいいんだよ?」
俺は、ほんのり顔を赤くした団長を見ながら返す。内心では、さっきまでの緩い空気が、ゆっくりと引き剥がされていくのを感じていた。
「本題だ、本題! あの門の前では出来なかった話だ!」
「ああ、夕食を挟んでたせいで、つい忘れちまった」
冗談めかして返したが、胸の奥では既に構えている。
――来る。
ここからは、笑って聞ける話じゃない。
「まぁ、たしかに旨くはあった。恐らくこの酒との相性がいい」
「だろうよ。そう考えてオーダーしたんだから」
「ん。そいつぁ助かる――じゃなくて」
「わーってるよ! 本題だろ? ぜひ話してくれよ。俺だって他人事じゃあないんだから」
その言葉を聞いた瞬間、団長の身体が、ほんの一瞬だけピクっと跳ねた。
肩が、わずかに強張る。
――あ。
今の、刺さったな。
「しかし、どこから話したらいいものか……」
団長は逡巡するように視線を落とし、再び日本酒を煽った。
コップが空になる。置かれたときの音が、やけに重く耳に残る。
綾瀬さんは、そのコップを無言で回収し、新しい酒を注ぐこともしない。
ただ、静かに手を引く。
話の続きを、邪魔しないために。
「俺の命令でお前を的にすることを止めさせる、これは出来ない。そう言ったことは覚えているか?」
「ああ、やれるけど、やれない。みたいな話だったな」
この話は、今後の俺の生活を左右する。
さっきまでの気楽さが嘘みたいに、背筋が自然と伸びた。
――危ねぇ。
団長の挙動がおかしくて、少し楽しんじまってた。
「俺が命令することは可能。そして一部のカラスどもの行動も抑えられる」
団長はトンと人差し指を何もないカウンターに打ち落とした。
「だが言うことを聞かないカラスもいるってことだ。これは俺に勝った神楽坂、お前の責任でもある」
「……つまりあれか? 俺に負けたことで、お前の統率力が揺らいで落ちたってこと。そうだな?」
言葉にした瞬間、その重さが返ってくる。
――やっちまったな。
軽口のつもりが、核心を突いていた。
「だいたいは合っている。だが現状はもう少し複雑だ」
団長は、いつもの芝居がかった調子を捨てた。
「今お前が言ったように、敗北した俺を見限る連中……まあ、反団長派とでもしておくかぁ」
「あん?いや、続けてくれ」
「そして今までと変わらないカラスたち、団長派ってところか。そしてもうひとつ。勝負に勝った副長についていこうとする連中、副長派だ」
「なっ!」
手にしていた湯呑を、危うく落としかけた。
陶器の熱が、指先にじんと伝わる。
――副長派?
俺が、中心?
「闇夜の烏は今、団長派、反団長派、副長派の三つに割れた」
「馬鹿言うな! そんな滅茶苦茶あるか!」
団長は懐から三枚の羊皮紙を取り出し、静かに俺の前へ押しやった。
一枚目。
モニカから見せられた、俺の人相書が描かれた求人票。
二枚目。
同じ顔だが、微妙に線が違う。
文面には「生死を問わない」。
震える手で、三枚目を取る。
これもまた別の人相書。
文面は「生け捕り」。
――冗談じゃねぇ。
笑えないどころか、悪意が丁寧に分業されている。
「いいかぁ。お前は三つの組織から狙われている状況にある」
団長の声が、淡々と続く。
「まず団長派、これはいつでもやめさせることができる」
少しの安堵。
「そして反団長派、奴らはお前の首を獲ることで箔をつけたい連中」
胃の奥が、きゅっと縮む。
「最後に副長派、お前を捕らえて、自分たちの長に仕立て上げようとしている連中だ」
足が、無意識に震えていた。
鼓動がやけに大きく、耳の奥で鳴る。
「加えて一番タチが悪いのは、俺のところ。団長派だなぁ」
団長は自嘲気味に鼻を鳴らす。
「他の派閥に行きたいけどためらっている奴、抜ける気はあるけどスパイ活動をしておこうという奴。この潜在的新興勢力……それをうちは多分に含んでしまっている」
呼吸が、少し苦しい。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
「これは俺ですら明確な状況は掴めない有様だ。まったく、日和った奴らばかりでイラつくぜぇ」
屋台の外では、夕陽がほとんど沈み、昼と夜の境目が静かに溶け合っていた。
綾瀬さんは、外を一瞬だけ見て、再び鍋に向き直る。
何も言わない。
だが、その背中が、場を守っている。
もうすぐ夜が来る。星が出るだろう。
きっと、やけに澄んだ夜空になる。
だが、その夜が来れば――。
「…………」
「まぁ、怖いわなぁ。小汚いゴロツキどもに三方向から固められてるんだから、そりゃ怯えたくもなる」
団長の声は、少しだけ柔らいだ。
「うちはいいぜぇ? お前を的から外したって。少しは――」
「なぁ、団長」
俺は、その言葉を遮った。
自分でも分からない。
あの時みたいに、身体が勝手に前へ出た。
怖い。
状況は最悪だ。
それなのに――。
「今日っていうか、これからか……三時間ほど、付き合ってもらえないか?」
口に出した瞬間、確信した。
俺はもう、逃げる側じゃない。
本当はおかしい。
俺は怯えるべきなのに。
胸の奥で、逸る気持ちが、小さく、だが確かに燃えていた。
理由は分からない。
けれど、もはや震えはない。
――行ける。
なぜだか、そんな感覚だけが、腹の底にどっしりと座っていた。




