■4-7 境界線の内と外
走っている俺の目には、すでにこちらへ向かって歩いてくる人影がはっきりと映っていた。
逃げも隠れもしない。むしろ、こちらが来ることを最初から分かっていて、待ち構えている歩き方だ。
冷え切った空気を裂いて肺に吸い込むたび、胸の奥がひりつく。
息が浅くなる。心拍が、思考の速度を追い越していく。
石畳を蹴る靴底の音が、自分でも驚くほどやけに大きく響いていた。
静かな朝の正門前では、その一音一音がやけに主張して、こちらの存在を周囲に叩きつけているみたいだった。
――相変わらず堪え性がない男だ。
自嘲気味にそう思う。
走らずにいられなかった。冷静に考えれば、歩いても結果は変わらない。それでも、こうして身体を動かしていないと、胸の内側で渦巻く敵意と苛立ちに押し潰されそうになる。
正門の高さは三メートルくらいだろうか。
黒く、重厚で、太い鋼の格子が幾何学的に組まれており、朝の薄光を鈍く跳ね返している。威圧感だけなら、ちょっとした城門並みだ。
近づくにつれて、鉄の匂いが鼻の奥に引っかかる。
雨に濡れたわけでもないのに、金属特有の冷たい匂い。
この門が、これまでどれだけの侵入者や敵意を拒んできたのか――そんな記憶まで染み込んでいるような匂いだった。
しかし近くで見ると、その隙間は思いのほど大きく、人一人が無理やり通れそうにも見える。
だが、そこは名門魔導学院だ。見た目に反して、きっと目に見えない措置が幾重にも施されているだろう。
肌に触れないはずの結界が、空気の密度だけを変えているような感覚。
わずかな耳鳴りに似た圧迫感が、頭の奥を締めつける。
――そうでなければ、この学院はとっくに破られている。
その分厚い門扉を境にして、俺は奴と再会した。
喪服のように黒々としたスーツを纏い、気安い雰囲気を漂わせた男。
闇夜の烏、その団長。
黒は黒でも、学院の門の無機質な黒とは違う。
布地が光を吸い込み、人の体温を帯びた黒だ。
その黒が、妙に生々しい。生き物の皮膚のように、微かに動いて見える。
「よお、元気そうじゃねーか……神楽坂って呼んだ方がいいのかぁ?」
軽い調子の声が、門越しに弾んで届く。
その軽さが、逆に不快だった。
人を値踏みしながら、冗談めかして距離を詰めてくる――獣が獲物の様子を確かめる時の、あの感じに似ている。
「何でも構わねーよ、十郎って呼んでもいいぜ」
団長は、腹の底から可笑しそうに声を漏らして笑った。
喉の奥で転がすような笑い方だ。
そこには一切の緊張がない。こちらがどれだけ警戒していようが、楽しんでいるのは向こうだけ。
「いいねぇ、いろんな顔を使い分けてるのか、ますます面白い。しかし下の者が必死に探してきた名前だ。今日は神楽坂でいかせてもらうぜぇ」
――勝手に決めるなよ。
だが、反論する気も起きない。どうせ、名前なんてただの記号だ。こいつにとっては。
「問題ないよ、団長」
それを聞いて、また笑いだす。
何がそんなにおかしいのやら。
門越しに聞くその笑い声が、妙に耳障りだった。金属を叩いたみたいに、いつまでも余韻が残る。
「時間が無いから単刀直入に言うぜ。何しに来たんだよ? そうやって校門前に張られちゃ、俺にしてみりゃ大迷惑だ」
本音だ。
学院の事情も、生徒の都合も、関係ない。
ただ、邪魔だと言っている。
「くくく、俺たちはただのチンピラだからよぉ。人探しなんてものはあんまり得意じゃねーんだ。ぶしつけにしてたら謝るぜぇ」
謝罪の言葉に、誠意は欠片もない。
むしろ、相手がどう反応するかを観察して楽しんでいる。
「俺に会いたかったんだよな?」
まどろっこしいのはやめる。
余計な言葉を重ねれば、相手のペースに引きずり込まれるだけだ。
――こいつは、そういう男だ。
「そうだ。お前に会いたかった」
「じゃあ、この状態で目的達成なわけだ」
「……ま、半分はな」
その言葉と同時に、団長は何かをこちらへポイっと放った。
――瞬間。
黒い門がバチリと火花を散らし、ソレは俺に届かず弾かれるように落ち、団長の足元へと戻っていった。
乾いた音。
空気を裂くような魔導力の反応が、肌を撫でていく。
結界が瞬間的に自己主張した感触に、背筋がぞくりとする。
「おうおう、さすがにしっかり仕事をするねぇ。魔導学院の正門殿は」
団長はぼやくように言いながら、落ちたものを拾い上げる。
動作はゆっくりで、焦りが一切ない。
今度はそれをこちらに向けて掲げた。
紫色に淡く輝く、小さな魔導石の光。
朝の光の中でもはっきり分かる、人工的で、不自然な輝度。
「あっ! お前、それ!」
喉の奥が、ひくりと鳴る。
「そう、アゾットナイフさ」
一度鞘から刃を抜き出し、きらりと光らせてこちらにくるりと回して見せた後、再び納刀する。
刃が空気を切る音が、やけに生々しい。
「言ったはずだ。俺と立ち合って、もし勝つようなことがあるならば、コイツをくれてやると」
俺は無意識に首筋を押さえていた。
あの時の感触が、まだ皮膚の裏に残っている。
冷たい金属。
血の気が引く、あの一瞬。
――忘れるわけがない。
「しかし参ったな。この状況じゃ、それすらも叶わないようだ」
残念そうに言いながら、その目はまったく笑っていない。
むしろ、次の一手を考えている目だ。
脳裏には、ディアナの不安げな顔がよぎる。
眉をわずかに寄せた表情。
――巻き込むわけにはいかない。
だが同時に、逃げ場がないことも、もう分かっていた。
敵意ははっきりしている。
それでも、どこかで覚悟してしまっている自分がいる。
こいつとは、いずれにせよ――
きちんと向き合うことになる、と。
「いや、別にじかに受け取る必要はないだろうよ」
俺の言葉を受けて、団長は肩をすくめるでもなく、ただ楽しげに口角を上げた。
その視線は俺ではなく、手の内でくるくると回されるアゾットナイフに向いている。
軽やかすぎる指先。
刃物を扱っているという緊張感が、微塵もない。
まるで銀貨か何かを弄んでいるみたいに、無造作で、無責任だ。
「そこに捨て置けばいい。で、アンタが消えた後に俺が回収すりゃいい話だ。違うか?」
――違わない。
理屈だけを切り取れば、確かに正しい。
だが、だからこそ腹が立つ。
こいつは最初から、俺がどう感じるかなんて考えていない。
ディアナのアゾットナイフが、再び地面に落ちる。
金属が石に触れる、鈍く乾いた音。
その音がやけに重く、胸の奥に沈んだ。
「なるほど、なるほど。間違っちゃあいないねぇ。このまま俺が帰れば、俺の目的は済むわけだ」
妙に引っかかる言い方だった。
「済む」という言葉の裏に、何かが隠れている。
だが相手は半分狂人だ。
今はアルコールも薬も抜けているようだが、それでも半分狂人。
整合性を求めるだけ、こちらが消耗する。
「わかった、わかった。じゃあ早めに消えてもらうぜ。そろそろガキンチョどもが、この門を通っていくからよ」
正直な言葉だった。
これ以上、この場にこいつを立たせておきたくない。
「――ああ、マルセラに来てからあんまり遊ぶ時間がなくってよぉ」
団長は唐突に、思い出話でも始めるみたいな調子で続ける。
「とはいえ、そんな中でもやっぱり俺好みのバーってのは欲しいよな? 丁度一軒あったんだ。そこでどうだ? まだ早いが、無理言って開けてもらおうぜぇ」
――やっぱり狂人だ。
ここまで話が噛み合わないと、逆に清々しい。
今までの会話が成立していたのかすら、怪しくなってきた。
どうする?
もうすぐタイムリミットだ。
このままじゃ、この門は開かない。
東門や西門から出させる手もある。
団長はここで足止めさせてはいる。
――その方が安全かもしれない。
だが、それは「先延ばし」にすぎない。
「おう、団長さん。今日この学院に来ているカラスは、アンタだけかい?」
腹の奥の苛立ちを押し殺して、問いを投げる。
ここで確認しておかなきゃならない。
俺の問いかけに、団長は人差し指を一本立てて答えた。
まるで講義でも始めるみたいに、楽しそうに。
「そこだ。正にそこなんだよ、神楽坂。勘の鈍いポンコツってわけじゃなさそうだ」
「いいんだよ、そういうの。質問に答えろよ、質問に」
「あーあーあーあー、なっちゃあいないねぇ」
団長はわざとらしく首を振る。
「立ち話でする話じゃないんだ、これは。店では俺が払う。行こうぜぇ、神楽坂」
――答える気はない。
それだけは、はっきりした。
「だいたいよぉ、ここで俺が消えたとしても、お前はいつまで今の避難生活を続けるつもりだ?」
その一言が、胸の奥を正確に突いてきた。
苛立ちが、一気に燃え上がる。
「な! な! な! 考えちゃあいなかったろ? ろ? ろ?」
うぜぇ……。
心底うぜぇ。
「そりゃあ、お前らカラスどもが消えてから――」
「消えるだって!? 消える!?」
団長は大げさに目を見開く。
「おいおい、一体何年計画を立ててるんだ? ここで博士号でも取るつもりかぁ?」
「つまんねぇ揚げ足取ってんじゃねぇよ」
吐き捨てるように言う。
「お前らが俺の脅威にならなくなったら出る。それこそ、お前の一声があれば今日にだって出ていくさ」
「……」
今度は黙るのかよ。
沈黙が、門の冷たさと一緒に染み込んでくる。
団長の視線が、俺を値踏みするみたいに動く。
「そりゃ、やれるけど、やれねぇな」
「だからよ、そういう謎かけは要らねえんだって」
「そうか、言い直そう」
団長は、妙に真面目な声で言った。
「それはやれねぇんだ」
――時間が、もうない。
それに……。
「団長さ。俺との勝負に負けたって自覚はある?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
腹は据わっている。
もう、逃げる段階は過ぎた。
「……なんだぁ、急に? 当然あるが、何か?」
「じゃあ、店選びしようって段になった時に、団長に選択権があるのはおかしいと思うんだわ、俺」
団長の、隠す気のない笑み。
捕食者が、獲物の出方を楽しんでいる顔だ。
だが、無視する。
「ここでは出来ない大層な話。それは俺が指定した店でやる。それが筋なんじゃねーの?」
一息置いて、言葉を重ねる。
「特にアンタは、約束してたアゾットナイフも返してない状況なんだぜ」
「なるほど。なるほどねぇ……大いに痛いところをつついてくるねぇ」
団長は足元のアゾットナイフを拾い上げた。
指先が、名残惜しそうに柄を撫でる。
「神楽坂の行きつけが、俺の趣味に合うといいもんだ」
――合わなくても、連れて行く。
それだけだ。
そうして俺は、行きつけのうどん屋へ向かうために、
一週間滞在したヒルデガルト魔導学院を後にした。
覚悟は、もう決まっていた。
この先で何が起きようと、
少なくとも――逃げる気は、なかった。




