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銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第四章 名門魔導学院
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■4-4 10年ぶりの講義

「それと、うん。神楽坂君」


 分厚い眼鏡の老教授が、手元の名簿を指でなぞりながら俺の名前を呼ぶ。

 その瞬間、教室に満ちていた微かなざわめき――椅子の軋み、ノートをめくる音、羽ペンが紙を擦る音――が、嘘みたいに止んだ。空気が一段、張り詰める。


「はい」


 力無く返事をする。

 思った以上に声が通った気がして、内心で「うわ」と呻いた。天井が高い。壁が新しい。音がよく反響する。今の一言だけで、ここにいる全員に「場違いな転入生がいるぞ」と宣言したようなものだ。


 ……これ以上、俺が喋ることはないだろう。

 そう確信できる程度には、すでに気力が削がれていた。


 ヒルデガルト魔導学院の魔導構造の講義。

 場所は比較的新しい造りの中規模教室で、白い壁も木製の机も、まだ新材特有の匂いを残している。磨かれた床が光を反射し、窓際ではカーテンがわずかに揺れていた。


 詰めれば二百人ほど入れそうな広さだが、実際に座っている学生は五十人もいない。

 前から後ろまで、視線を走らせると、空席、空席、また空席。間引かれた歯みたいに、座席の隙間がやけに目立つ。スカスカだ。


 学生たちは思い思いに座っていて、後方では足を投げ出している者もいれば、隣の席に荷物を置いて陣取っている者もいる。誰かが身じろぎするたび、ぽつん、と音が浮いては消えた。


 前後左右に人の気配が薄い。

 講義というより、静かな自主勉強会に近い雰囲気だ。


 ……と思ったら。


 中央最前列にだけ、三人が固まって座っている。

 背筋を伸ばし、ノートを整え、板書が始まる前から姿勢が完成している。教授の一挙手一投足を逃すまいとする、あの感じ。


 いたいた。

 うちの大学にもよくいたタイプだ。学問に真摯に向き合う、いわゆる上澄みの学生。


 周囲の空席など気にも留めず、集中力を一点に絞っている。教授も教授で、そういう少数精鋭を基準に講義を進めるものだから、やる気のない側は開始十分で置いていかれる。


 ……この広さで、この人数、その上このテンポ。

 正直、逃げ場がない。サボっても目立つし、真面目にやっても目立つ。詰んでいる。


 そして問題は――。


 我が先輩にあたるシルヴィアが、その中央最前列に座っていることだ。

 留学生。フルートの名手。成績優秀。授業態度良好。全部盛り。目立つ条件をフルコンプするな子だ。。


 おかげで俺は、だだっ広い教室の後方で、ひっそり九十分をやり過ごすというプランを失った。

 一人ぼっちで気配を消す予定だったのに――え?


 シルヴィアが、教室の向こうからやけに大きな動作で手を振っている。

 肩から肘、肘から手首まで、全力だ。


「神楽坂! こっちこっち! そこじゃたぶん先生の声聞こえないよー!」


 ……なんという空気の読めなさ。

 この静けさで、それを言うか。


「はっ!」


 空気が変わったのが分かる。

 ノートを取っていた学生が顔を上げる。羽ペンが止まる。椅子に深く座っていた連中まで、視線だけをこちらに向ける。


 五十人弱とはいえ、教室にいるほぼ全員の視線が、ぴたりと俺に集まっている。

 視線の密度だけは、満員講義並みだ。逃げ場、ゼロ。


 ……あの子には後で長めの説教をしよう。

 覚悟しておけよ。笛隠すぞ。


 そう頭の中で怒鳴りながら、俺は観念して歩き出した。

 足音が、やけに大きく感じる。数歩進むごとに、注目度が上がっていく気がする。


 こうして中央最前列は、極めて窮屈な四人並びとなった。


「ん-、ちょっと狭いけど我慢してね。遅れた神楽坂が悪いんだから」


「いや、関係ないって。それより、よく見ろ。この部屋の机はどう見ても三人用に作られてるんだよ」


 長椅子の端に、俺は慎重に腰を下ろす。

 体重をかけすぎないよう、バランスを取る。背中も前の机に触れないように気をつける。……なんでこんな神経使って座らなきゃならないんだ。


 すると、反対側から控えめな声がした。


「あの、こっち詰めるからさ、もっと寄ってもらっていいよ」


 隣の学生が、申し訳なさそうに身体をずらしてくれている。


「いや、そこまで――」


「ありがとう、ほんとちょっとだけだから。ごめんね」


「あ、そこまで大したことじゃないから……」

 譲ってもらっているはずなのに、なぜか相手の方が恐縮している。

 広い教室だというのに、この席だけ異常に密度が高い。


 ……地獄か?


「どうもすみません、ありがとうございます」

 これが、俺なりに絞り出した精一杯の場の収め方だった。

 困惑と居心地の悪さを、丁寧語で包んで、なんとか耐えるしかない。


 講義は、本当に意味が分からなかった。

 難解なのか、実は基礎的なのか、その区別すらつかなかった。板書された魔導陣式や数式は、視覚的には追えている。文字も記号も、見覚えがあるものばかりだ。なのに、それらが頭の中で一切つながらない。

 黒板の前でチョークが走るたび、乾いた音が教室に響く。その音を合図に、最前列の学生たちは一斉に視線を上げ、ペンを動かし、時には小さく頷く。理解している者特有の、無駄のない反応だ。

 対して俺は、ノートの上にペン先を置いたまま、何を書けばいいのかすら分からずに固まっていた。書けないのではない。書くべきものが、見えないのだ。


 教授は最前列組に、遠慮なくバシバシ質問を投げてくる。

 名指しされるたび、学生たちは背筋を伸ばし、即座に口を開く。答えは簡潔で、しかも的確。その上で「では、この場合はどうなるのでしょうか」と逆に問いを返す者までいる。

 この静かな教室で、この一角だけが異様に活発だ。視線、呼吸、ペンの動き、すべてが連動している。

 当然、その円の中に座っている以上、俺にも順番は回ってくる。


「分かりません」


 それ以外の答えが、俺には用意できなかった。

 口にした瞬間、教室の空気が一瞬だけ、目に見えるほど固まる。最前列の誰かがペンを止め、後方の学生が椅子の背にもたれ直す気配が伝わってくる。

 気まずい。だがそれ以上に、指名された瞬間に教室中の視線を一身に集めるのが不快だった。

 空席だらけのせいで、視線の逃げ場がない。人の数は少ないのに、圧だけは満員講義並みだ。

 ――ああ、分かってる。俺がここにいるのが場違いだってことくらい。


 そんな中、ついに教授が業を煮やして言った。

「一体君は何でこの席に座っているのかね?」

 静かな声だった。怒鳴りつけるでもなく、淡々とした問いかけ。

 それが逆に、逃げ道のなさを際立たせる。周囲の学生たちが、視線を俺から黒板へ、あるいは机へと逸らす。気まずさを共有しないための、無言の配慮だ。

 真っ当な苦言ではある。

 ……だからこそ、余計に胸に刺さった。


 苛ついていた俺は、つい怒気を込めて言い返してしまった。

「分からないから、一番分かりやすそうな席に座っているのです」

 言い切った瞬間、しまったと思った。

 教室の空気が、今度ははっきりと冷える。最前列の学生の一人が、ちらりと俺を見てから、すぐに視線を落とした。教授は一拍置いてから、小さく息を吐く。


 ……ごめんなさい、先生。悪気はありません。


 そんな講義が、間を置かずに三コマ続いた。

 人の入れ替わりはほとんどなく、机を引く音、椅子の軋み、誰かの小さな咳――そういった些細な音だけが、時間の経過を知らせてくれる。

 空席の多さにも、最前列の張り詰めた空気にも、最後まで慣れなかった。

 本日最後の講義が終わり、教授が資料を抱えて静かに退室していく。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


「だめだ。……どうしようもなく疲れた」


 そう言って俺は、机の上に突っ伏した。

 額に冷たい木の感触が伝わる。視界が暗くなり、ようやく世界が静かになる。


「ええ? 神楽坂、何にもしてなかったじゃん!」


 頭の上から、元気な声が降ってくる。

 シルヴィアだ。声の調子だけで、どんな顔をしているのか想像がつく。


「いや、そうなんだけどさぁ……分かって。俺の心境」

 力無く理解を求める俺。

 何という無力感。何もしなかったんじゃない。何もできなかったんだ。


「いやーお疲れ様! 神楽坂君?」


 聞き覚えのない声に、俺はゆっくり顔を上げた。

 視界に入ったのは、見覚えのまるでない女学生の顔。講義中、どこに座っていたのかすら分からない。


「だめだよ、シルヴィアに合わそうとしちゃ。根性じゃどうしようもならないものがあるのよ」

 いつの間にか、もう一人増えている。

 彼女は肩をすくめながら、俺の惨状をどこか他人事のように眺めていた。


「そーそー。魔導構造は仕方なかったけど、なんで次も最前列に挑むのよ。うちの隣ならヨユーで寝れたよ?」

 これまた知らない顔である。

 気付けば、机の周りに人だかりができていた。さっきまでガラガラだった教室なのに、この一角だけ密度が高い。


「もう、みんな甘やかしちゃダメ! 寝てるくらいなら来ない方がよっぽどマシなんだから!」


 シルヴィアが腕を組んで言う。

 その様子を見て、他の学生たちが笑ったり、軽く肩を叩き合ったりする。


「でも俺を連れてきたのはシルヴィアじゃん?」

 俺は静かに抗議する。

「じゃん? じゃないの! 明日も連れていくからね!」


「……あー、明日は実験よね。神楽坂君、どのくらい魔導力使えるの?」

 ――分かりませんを連発した今日の午後。

 最後だけは、静かな教室とは正反対の、ワチャワチャした空間に放り込まれた。


 ああ、これはあれだ。知っているぞ、俺は。


 夕日はすでに落ちてしまい、校舎の外はだいぶ暗い。

 昼間とは違う静けさが、石畳と校舎の壁に染みついている。

 シルヴィアは女子寮なので、最後まで送れない。


「一応、言っとくけどな。今夜は家から出るなよ。演奏しに行くなよ」


 俺の顔が割れているんだ。

 シルヴィアだって、分かったもんじゃない。


「心配無用だよ。私だってそんなに生き急いでないもの。フルート吹きたくなったら、神楽坂のとこ行くよ」

「俺だって生き急いじゃいないっての!……じゃあな」

「うん、じゃあね。また明日」


 宿舎までの短い帰路。

 考えていたのは、シルヴィアのことではなかった。

 オザワのことだった。「小澤」だったか「小沢」だったか、もはや覚えていない。


 俺は家が嫌いなのと同じくらい、学校が嫌いだった。

 常に一人ぼっちだったからだ。好きになれと言われても、無理のある話だろう。

 オザワは小学五年生の時、出欠番号が近かったためよく話すことになり仲良くなった親友だ。勉強ができて、スポーツ万能で、女子人気も高かった。

 そんなオザワとつるんでいた二年間、俺は学校で一人ぼっちになることがなかった。

 「オザワと仲が良い俺」を、クラスメイトは評価したのだ。


 そして、オザワと別の中学校に進んだ俺は――やはり一人ぼっちだった。


 今日の最後にワチャついていた連中。

 あいつらも、きっと同じだ。

 見くびるな。俺はそこで浮かれはしない。


 ……オザワ、元気かなぁ。

 きっと、もう俺のことなんて覚えていないだろうけど。

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