■4-3 魔導石の活用講座
モニカが去ってから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
扉の向こうに彼女の気配が完全に溶けてしまったあとも、俺は彼女を送り出した場所から一歩も動けずにいた。足の裏が床に縫い付けられたみたいで、体重のかかり方ひとつ変えられない。冷たい石床の感触が、靴底越しにじわじわと伝わってくる。
動かないのは身体だけで、思考は逆に空回りしていた。ぐるぐると同じところを擦り切れるまで回り続けて、摩擦熱だけが残る。
女子会の決定事項――それは「神楽坂をヒルデガルト魔導学院学生寮に、留学生として匿う」というものだった。
言葉にしてみても、現実味がない。耳に入った瞬間は流されるままに頷いたが、今になってようやく、その重さが遅れてのしかかってくる。理由は、昨夜この学校に転がり込んだ時と本質的には同じだ。ここが学校である以上、小汚いチンピラや厄介事が、そう簡単に踏み込める場所じゃない。
厚い石壁。結界の重なり。巡回する警備魔導具。廊下のどこかで、規則正しく刻まれる足音が、遠雷みたいに微かに響いている。ここが「守られている場所」であることを、音と空気そのものが主張していた。特に留学生棟は、各国から成績優秀者だけを集めている関係で、警備も人の目も異様に強い。学院内でありながら、なお「陸の孤島」などと呼ばれる隔絶空間だ。窓から差し込む光ですら、どこか選別されているような、澄んだ匂いがする。
……そんな場所に、俺みたいな胡散臭い人間が入り込めるのか?
当然の疑問だ。胸の奥に、鈍い不安が沈殿する。場違いな異物が、気づかないまま混ざり込もうとしている――そんな感覚が、喉の奥をざらつかせた。
だが、そこは綾瀬さんが上手く根回ししたらしい。具体的な手段は、モニカですら把握していなかった。半分は、シルヴィアという元からいる留学生の存在を軸に話を進めたらしいが――つまるところ、細部は全部ブラックボックス。要するに……謎なのである。
正直、気味が悪い。目に見えないところで歯車が噛み合い、勝手に運命が動かされている感覚。それに身を委ねるしかない自分が、ひどく心許ない。
そのまま立ち尽くし、嫌な方向へ思考を巡らせていると――胸の奥で、最悪の可能性ばかりを反芻していると、「失礼しまーす」場違いなほど軽い声が割り込んできた。
ほとんどノックと同時だった気がする。扉は軋む音ひとつ立てず、滑るように開く。閉ざされていた室内の空気が、外の廊下の匂いと一瞬だけ混ざり合った。
光が差し込む。
いや、正確には――明るさだ。
シルヴィアがひょい、と顔を出した。
片手には赤い革袋。使い込まれているはずなのに、妙に生き生きとした色を保っている。革の匂いと、かすかに混じる魔力特有の甘い香り。彼女が一歩踏み入れただけで、部屋の陰が一段階、薄くなった気がした。理屈じゃない。単純に、存在そのものが明るい。
……なんなんだ、この子は。
さっきまで、あんなに空気が重かったのに。
「講義帰りか?……お疲れ様」
自分でも驚くほど、低くて覇気のない声が出た。
声を出しただけで、喉の奥がひりつく。乾いているのに、唾を飲み込むのも億劫だ。身体のあちこちが、まだ昨日の延長線上にある。
「そりゃどーも。ね、モニカさんから聞いた?」
語尾が軽い。
軽すぎるくらいだ。まるで深刻な話題が存在しない世界の住人みたいに。
――それは、俺からも聞きたい。
何を、どこまで、どういう調子で説明されたんだ。
「神楽坂とかいう、得体の知れない男が、今日から名門魔導学院の一員になるって話なら聞いた」
わざとらしく、他人事みたいに言う。
自分を指す言葉なのに、どこか現実味がない。口に出した瞬間、余計に浮き彫りになる違和感。俺が? ここに?
「あはははは! なにそれ? なんでそんな自虐的なの?」
シルヴィアの笑い声が、ぱっと弾けた。
乾いた室内の空気を、軽く叩いて跳ね返るような音。反射的に、俺の口角も一瞬だけ動きかけた。条件反射みたいなものだ。
……が、すぐに引っ込める。
理由が理由だ。笑える立場じゃない。
「いいんだよ。ただの性格だ。名門の学校には悪いが、俺はしばらく鳴りを潜めさせてもらう」
目立たない。
目につかない。
今の俺に許されるのは、それくらいだ。
「へ? なんで? だめでしょ」
即答だった。
間も、迷いもない。しかも、深刻さはゼロ。天気の話を否定するみたいな軽さだ。
「え? 話違うの? モニカの説明と食い違ってた?」
ほんの一瞬だけ、嫌な予感がよぎる。
まさか、話が食い違ってるとか……いや、あのモニカがそんなことをするはずがない。
「いや、違ってないよ。うちの学院生になるんでしょ?」
「……そうだな」
否定できない。
できないが、肯定した実感もない。
「だったら講義受けないと。息潜めてちゃダメだよ。さっきの魔導歴史学、神楽坂欠課扱いだよ」
「え!?」
素で声が出た。
腹の底から、空気が引き抜かれる。胸の奥を、ぐっと掴まれたような感覚。話が、速すぎる。速すぎて、理解が追いつかない。
欠課?
もう?
俺、今ここに立ってるだけなんだが?
世界が、勝手に進んでいく。
俺だけが、床に足を縫い付けられたまま。
これが――風間転生研究所の監視官・綾瀬龍華の仕事なのか。
逃げ道を塞ぐように、日常を積み上げてくる。否応なしに「普通」を押し付けてくる。
「あははー、すごい顔! 私もモニカさんの前で、たぶん同じ顔してた!」
屈託がない。
自分の過去の狼狽すら、笑い話にしてしまう。その明るさが、眩しい。
そりゃする。
しないほうがどうかしている。
「ま、色々あるだろうけどさ。学院生の第一歩として、まずは学食行こ? ひとコマ空いてるから時間はあるよ、どう?」
学食。
腹が減っているのは、確かだ。
「いや……今の俺、口の中が傷だらけでさ。たぶん何も食えない。水飲むのもしんどい。団長のゴリ押しパンチ、ほんと腹立つ」
「そうね。ならば――はい!」
間髪入れず、シルヴィアが声を弾ませた。
待ってました、と言わんばかりに、赤い革袋を高く掲げる。きゅ、と革が鳴る。その仕草すら、どこか楽しげだ。
「……それは?」
嫌な予感より先に、呆れが出た。
この子、絶対に用意してきてる。
「さっきモニカさんから貰った魔導石だよ! ね、見て見て!」
無邪気な声。
まるで珍しい菓子でも見せるみたいに。
――本当に、この子は。
この状況で、どうしてそんなに明るくいられるんだ。
やたら楽しそうに、シルヴィアは赤い革袋の口紐を解いた。
指先の動きは軽く、しかし無駄がない。革が擦れる音を最小限に抑えるように、袋を少し傾ける。中身を「見せる」というより、「差し出す」動作だ。ぐい、と俺の目の前に持ってくる。
袋の中から、澄んだ魔力の光が溢れ出した。
淡い光が、部屋の白い壁に反射して揺れる。中には、ゴロゴロと魔導石が詰まっている。雑に放り込まれているようで、石同士がぶつからないよう、底には布が敷かれているのがちらりと見えた。
しかも――。
「……めちゃくちゃ高純度じゃねぇか!」
思わず声が裏返る。
一つを摘み上げると、指先にひやりとした感触が伝わった。滑らかで、角がない。内部では、まるで呼吸するみたいに、静かに魔力が脈打っている。
……これは、見間違えようがない。
露店レベルで転がっている石じゃない。下手すりゃ、研究所で管理されていてもおかしくない代物だ。
「あの半端な魔導石売りが、どうしてこんな石を……」
疑問が、そのまま口をついて出る。
「ふふ」
シルヴィアは楽しそうに肩をすくめた。
指で袋の縁をくるりとなぞりながら、軽い調子で言う。
「半端モノはね、昨日の夜にカラスの巣へほとんどバラ撒いたんだって。だから、まともなのしか残ってないらしいよ」
「……なるほど」
いや、なるほどじゃねぇ。
意味が分からないにも程がある。
「ますます意味不明だな、あの偽メイド」
「ね?」
同意を求めるように小さく頷きながら、シルヴィアは袋の中を覗き込み、石を一つ一つ確かめるように指で転がした。その中から、赤い魔導石を一つ選び取る。
「それで、これ」
つまみ上げ、にこっと笑う。
赤い石の内部で、光が温度を持ったみたいに揺れた。炎というほど激しくはないが、確かに“熱”を感じさせる色だ。
「はい、質問。この魔導石の効力は?」
急に教師みたいな口調になる。
「……分からん」
即答した。
正直だ。知らないものは知らない。
「口内の痛みを消し去る石、とか?」
自分でも苦しい答えだと思う。
「ハズレ!」
シルヴィアはパン、と軽く手を叩いた。
「そんな都合のいい石ないから。中等部の子でも分かる問題だよ?」
明るく煽られる。
地味に刺さる。
「……出来の悪い後輩ですまん」
俺は、これから始まる講義で、理解不能な魔法式を前に固まっている未来を、やけに鮮明に想像してしまった。黒板の前で立ち尽くす俺。周囲の視線。――やめろ、今は考えるな。
「これは魔導力増幅系」
シルヴィアは、石を指先でくるりと回しながら説明する。
「貯蔵系と並んで人気だけど、なかなか手に入らないシロモノなの」
「……はい」
返事が雑になる。
「お、気のない返事」
わざとらしく身を乗り出してくる。
「つ・ま・り!」
間を置いて、ぱっと表情を明るくする。
「これがあれば、回復系が苦手な私でも、今の神楽坂を全快にできるってわけ!」
「……それ、マジで言ってる?」
嫌な予感と、淡い期待が同時に湧く。
「当っ然!」
即答だった。
「さ、背中出して!」
「え? 背中?」
理解が追いつかない。
「背中はそこまで酷くは――」
「増幅器っていっても、技術が上がるわけじゃないからね」
遮るように、しかし丁寧に説明が入る。
「口の中だけ狙うのは無理。それより、面積のある背中の方が安定するの。はい、これも覚えて」
……なるほど。
理屈は分かる。分かるが。
「……分かりました、先輩。上、脱げばいいですか」
「うん――って」
シャツを脱いだ瞬間、シルヴィアの声が少しだけ詰まった。
「うわぁ……アザすごいね」
空気に触れた背中が、ひやりとする。
鏡がなくても分かる。自分でも引くレベルだ。半分は、ブルーノに担がれている時に、壁だの床だのに打ちつけたものだ。
……もちろん感謝はしているぜ。ブルーノ。
ピタリ。
背中に、シルヴィアの温かい手の平が触れる。
驚くほど柔らかいが、置き方は慎重だ。指先が、アザを避けるようにわずかに位置を調整する。
コツン。
次に、魔導石の冷たさ。
「じゃ、失礼しまーす」
軽い声とは裏腹に、集中しているのが伝わってくる。
次の瞬間――
血流が、一気に加速した。
熱い。
痛い。
――いや、また熱い。
全身の内側から火を灯されたみたいで、意識が一瞬、白く弾ける。魔力が、背中から四肢へ、頭の先まで一気に駆け巡るのが分かる。
これは……すげぇ。
「はい、終了! どう?」
振り返ると、期待と不安が入り混じった顔。
「……今の俺、どう見える?」
質問で返す。
「えっと……」
シルヴィアは俺の顔をじっと観察する。
「元気になった、はず」
自信なさげな言い方が、逆に可笑しい。
「元気も元気だ」
俺は拳を握る。
「……超元気!」
思わず、豪快にマッスルポーズを決めた。
筋肉がきしむ感覚すら、心地いい。
口の中も全快。舌が軽い。滑舌も完璧だ。




