■4-2 偽メイドが運んできた空気
二度寝から目が覚めた。
さっきよりは多少ましだが、やはり身体は痛い。寝返りを打とうと、ほんのわずかに体重を動かしただけで、肩、腰、背中――あちこちが一斉に文句を言ってきた。筋肉の奥に溜まった鈍痛が、遅れて、しかし確実に広がってくる。皮膚の下で、無数の小さな針が静かに主張しているような感覚だ。
だからといって、同じ姿勢で横になり続けるのも良くない気がした。このまま動かずにいたら、身体の輪郭がベッドに溶けて、そのまま固まってしまう。そんな根拠のない不安が胸をかすめる。
気合いを入れて、ゆっくりと上体を起こす。シーツが擦れる音が、やけに大きく耳に残った。関節が軋んだ。骨が鳴った――いや、鳴った気がしただけかもしれない。一瞬、視界が白くなった。血が引いたような感覚と、遅れてくる息苦しさ。だが、呼吸を意識的に整えると、それは潮が引くように収まっていった。それでも、ベッドから降りることはできた。床に足裏が触れた瞬間、冷たさがじんわりと伝わり、「立っている」という事実だけが、妙に確かなものとして身体に残った。
部屋を見渡す。見慣れない天井。淡い色の壁。隅に雑多に置かれた荷物。どれもが一歩引いた距離で存在していて、まだ完全には「自分の居場所」として馴染んでいない。鼻をくすぐるのは、木材と古い紙が混ざったような匂いだ。シルヴィアの姿はない。窓の外はまだ明るく、日差しの角度からして昼下がりといったところだろう。白い光が床に斜めの線を描いている。講義か、それとも演奏の練習か。あいつは忙しそうだ。
そう考えると、妙に現実感が戻ってくる。少なくとも、ここは安全な場所だ。誰かの日常が、俺の外側でちゃんと回っている。
コンコン、とドアが二度叩かれる。
規則正しい音だった。間隔は正確で、強すぎず弱すぎず、感情の混じらない打音。相手がドアの向こうで姿勢を正し、距離と力加減をきっちり計算したうえで叩いているのが、音だけで分かる。
この部屋を訪ねてくる人間は多くない。その中で、こんなノックをする心当たりは一人しかなかった。
「ふぁい。開いてますよ」
返事をした瞬間、頬から顎にかけて鈍い痛みが走った。
声を出しただけだ。口を開き、息を吐き、喉を震わせただけ。それだけの動作で、身体は即座に抗議の信号を返してくる。じん、と遅れて広がる痛覚が、俺が思っている以上に消耗していることを突きつけてきた。
顔面には、まともにもらっていない。少なくとも記憶にはない。
だが、ガードの上から力で壊していきやがった、あの野郎の拳は、確実に骨の奥まで響いていたらしい。打撃ってやつは、受けた瞬間よりも、後からこうして効いてくる。
ああ、もう喧嘩なんか二度としない。
そう誓うには――少し遅すぎた気もするが。
「失礼します。神楽坂さん」
ドアが静かに開き、入室してきたのはモニカだった。
今日も抜かりはない。ヴィクトリアンメイドの装いは完璧で、スカートには一切の乱れがなく、エプロンの紐の位置も寸分違わず整えられている。歩幅は小さく、床を踏む音はほとんどしない。靴底が床に触れる瞬間さえ、意図的に消されているかのようだ。
背筋はまっすぐ。顎の角度も、視線の高さも、どこかで定められた規範に従っている。
その動きはあまりにも丁寧で、逆に現実味が薄い。
露店で魔導石を売っている姿を、そのまま切り取って持ってきた――そんな表現すら生温く感じる。
彼女が一歩、部屋の中に入っただけで、空気が変わった。
乱れていた湿度が整い、埃が重力を思い出したように床へ沈み、部屋の輪郭がくっきりと浮かび上がる。そんな錯覚を覚える。俺の生活感丸出しの部屋が、一瞬だけ「きちんとした空間」を装った。
「おはよ、モニカ。昨日は助かった」
言葉を選ぶ余裕もない、素直すぎる挨拶だった。
本当なら、もっと気の利いた言い方の一つも思いつきたいところだが、今は喋るだけで精一杯だ。
「まあ……喋りづらそうですわね。これは長居をしない方が良さそうですわ」
モニカは俺の顔を見るなり、そう判断した。
視線は一瞬で、腫れの具合、顎の動き、声の震えを拾っている。診察というほど露骨ではないが、観察としては十分すぎる精度だ。
そして彼女は、音を立てずに一歩距離を保つ。椅子にも触れない。荷物も置かない。滞在時間を最初から短く設定している動きだ。
その察しの良さに、俺は「ああ」とだけ返した。
本当は、もっと言いたいことがある。
感謝も、詫びも、昨日の一件についての釈明も、胸の中には確かに言葉が渦巻いている。だが、それを一つひとつ口にするための体力が、今の俺には足りない。
今は、それだけで精一杯だ。
すまない。
……だが、今日のお前は、昨日より一歩メイドに近づいているぞ。
そんなくだらないことを考える余裕が、まだ残っているあたり、俺は思ったほど重症じゃないのかもしれない。
「しかし、こんな時間でも活動していたんだな。モニカは完全に夜行性だと思っていたよ」
軽口のつもりだった。
喋る負担を減らすために、なるべく短く、なるべく軽く。
「ふふ。ありがとうございます。さきほど全く同じことを綾瀬さんにも言われましたわ。昨夜が昨夜でしたから、さすがに今日くらいは例外ですの」
小さく笑いながらも、モニカの姿勢は崩れない。
首を傾げる角度すら、控えめで、品がある。笑顔も、必要以上に広がらない。まるで「ここまで」という線が、彼女自身の中に明確に引かれているかのようだ。
「……綾瀬さんに会ったんだ。あの人も無事?」
「ええ、元気でしたわ。ただ昼の仕事が立て込んでいるそうで、今日はここには来られないとのことでした」
――昼の仕事。
その言葉が出た瞬間、会話の温度が一段、確実に下がった。
俺の胸の奥で、「研究所」という単語がちらつく。
だが、口には出さなかった。
ここで踏み込む話題じゃない。少なくとも、俺から切り出すべきものじゃない。
モニカは俺の顔をじっと見てくる。
探るようでもあり、試すようでもある視線。何か知っているなら吐け、と言いたげな目だ。
悪いな。
俺にも分からないことだらけだ。
綾瀬さんの仕事も、この世界での立ち位置も、そして――俺自身が、どこまで関わっていい話なのかも。
俺が黙り込んだのを確認すると、モニカは小さく息を整えた。
それは、ため息ではない。呼吸を一度リセットする、儀式みたいな動きだった。そして、静かに話題を切り替える。
「綾瀬さんと、先ほど少しだけ女子会を開きましたの」
「……女子会?」
「ええ。そこで決まったことを、本日神楽坂さんにお伝えしに参りました」
そう言って、モニカはすっと胸元のポケットに手を入れた。
その動きは、あまりにも滑らかで、無駄がない。布を引っかける音すら立てず、指先が一直線に目的の場所へ向かう。
その瞬間、空気が変わった。
軽口も、日常も、ここで一線を引かれたように遠のく。
モニカの所作は、最初から最後まで極端なほど丁寧だったが、今の動きだけは質が違う。
これは「準備」だ。
冗談や世間話の延長ではない、と、身体が先に理解していた。
嫌な予感が、背骨をなぞるように、ゆっくりと這い上がってくる。
ああ――これはきっと、俺の回復を待ってはくれない話だ。
「では早速ですが、こちらをご覧くださいませ」
そう前置きしてから、モニカは一歩だけ距離を詰めた。
近づき方が、あまりにも静かだ。足音も、衣擦れもない。まるで「これから大切な物を差し出します」と、空気ごと整えてから動いているような所作だった。場違いなほど丁寧で、慎重で、落ち着いている。その落ち着きが、かえって胸の奥をざわつかせる。
差し出されたのは、きれいに畳まれた一枚の羊皮紙だった。
新品ではない。端は少し毛羽立ち、紙肌も均一じゃない。質は良くないと、触れなくても分かる。ざらついた感触が、指先越しにもはっきり想像できた。
だが――見覚えがある。
嫌というほど、だ。
「……求人票?」
喉がひくりと鳴った。
自分でも分かるくらい、声が乾いている。
「ええ、その通りですわ」
モニカは即答した。
そこに含みはない。声の高さも、速度も、いつもと変わらない。まるで紅茶の種類でも説明するかのような、落ち着き払った口調だ。
「じゃ、失礼」
俺は羊皮紙を受け取った。
指先が、ほんの一瞬だけ躊躇ったのが自分でも分かる。それでも、拒む理由は見つからなかった。拒んだところで、話が消えるわけじゃない。むしろ――拒めない話題だから、こうして丁寧に差し出されている。
広げる。
やはり求人票だ。
上半分に人相書き。
下半分に短い文言。
『生け捕り / 報酬は要相談』
文字が、やけに重い。
黒インクの一文字一文字が、紙の上ではなく、直接視界に焼き付いてくる。視線を逸らしても、残像みたいに残り続ける。生け捕り、という単語だけが、異様に太く見えた。
「……なんだこれ? こんな怪しい仕事、誰も手を出さないだろ。要相談ってなんだよ。舐めてんのか」
「神楽坂さん、代表連絡先を読み落としていますわ」
モニカは眉一つ動かさない。
非難も、慰めもない。ただ事実だけを指摘する。
「ああ……」
俺は言われるまま、視線を下に滑らせた。
指で文字をなぞるようにして、連絡先を追う。
「マルセラ二番街裏三ノ二地下……いや、どこだよ」
「昨日、皆さんと向かった場所ですわ。さすがに“闇夜の烏”とは書いてありませんが」
淡々とした補足。
それだけで、十分すぎた。
その瞬間、指から力が抜けた。
自分の意思とは無関係に、羊皮紙がするりと滑り落ちる。
床に落ちる、乾いた音。
やけに大きく響いた。部屋が静かだからじゃない。俺の耳が、音に過敏になっている。
床に落ちた人相書きと、俺の視線が合った。
――ああ。
やっぱり、逃げられなかった。
「……モニカ」
自分でも驚くほど、声が低かった。
喉の奥で、何かを噛み殺している。
「なんでございましょう?」
モニカは変わらない。
姿勢を崩さず、距離も詰めず、ただ応じる。その落ち着きが、今はひどく恐ろしい。
「俺って、こんな顔してんの?」
冗談の形をした質問だった。
だが、答えは冗談で済まないと、最初から分かっている。
モニカは床に落ちた羊皮紙を拾い上げた。
動きは相変わらず丁寧で、慎重だ。紙の端を傷めないように指を添え、ゆっくりと持ち上げる。そして、俺の顔と人相書きを見比べる。
距離は近い。
だが、さっきまでの柔らかさは、そこにはなかった。
視線が――切り替わっている。
個人を見る目から、対象を評価する目へ。仕事の目だ。
少し首を傾げ、真剣な顔で答える。
「私は、まったく似ていないと思いますわ――ただ」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「……ただ?」
嫌な予感が、喉元までせり上がってくる。
「相手は強い敵意を抱いている状態です。そして神楽坂さんは実に危険な状況にある……と判断しますわ」
淡々と。
本当に、淡々と告げられた。




