■4-1 みすぼらしい人生の断片
貧相な服を着た男の子が、部屋の真ん中に突っ立っていた。
中途半端に光沢のあるフローリングの中央。逃げ道のない場所だ。サイズの合っていないシャツは肩口がずり落ち、裾は腹のあたりで不格好に波打っている。洗濯を繰り返したせいで色は褪せ、布地は薄くなり、身体の線だけを頼りなくなぞっている。
床に落ちる影だけが、やけに濃い。シーリングライトの白い光に照らされ、実体よりも存在を主張するように、男の子の足元に張り付いていた。
腕はだらりと下がり、指先には力が入っていない。握るものも、掴むものもない。視線は床に縫い付けられたままだ。逃げ場がないと分かっている人間特有の、身体をできるだけ小さく見せようとする、縮こまった立ち方だった。
――あれは、俺だ。
はっきりと分かった。
疑いようがない。年齢も、体格も、みすぼらしさも、何より「そこに立たされている理由が自分でも分からない」という空気まで、すべてが一致している。
記憶の中の俺は、今よりも小さく、弱く、そして何も持っていない。
目の前には中年の男が立っている。
背はそれほど高くない。だが、足を肩幅に開き、腕を腰に当てるその立ち方だけで、部屋の主導権は完全に彼のものだった。
声だけが無駄に大きい。天井に跳ね返り、壁にぶつかり、逃げ場を失った音が俺に降り注ぐ。内容よりも先に、音量そのものが空気を圧迫する。
そっちは親父だった。
俺はずっとオドオドしている。
視線を上げることもできず、反論する言葉も浮かばない。言い返すわけでも、泣き出すわけでもない。涙すら出ない。ただ、嵐が過ぎ去るのを待つだけの木偶だ。
怒鳴られている理由を理解しようともしていないし、理解できたとしても、どうせ何も変わらないと知っている。
その場に立っている意味すら、自分でも分からない。罰として立たされているのか、見せしめなのか、それともただの八つ当たりなのか。考えるだけ無駄だった。
情けない。
親父は何かを怒鳴っている。
成績だとか、態度だとか、将来だとか、そんな単語が断片的に耳に入ってくる。だが、文として繋がらない。意味を持たない音の塊だ。
とりあえず中身はない。
こういうリビングでの説教――という名の八つ当たりは、珍しくもなかった。夕食前、テレビの音をかき消すように始まる、いつもの光景。
親父の声が大きくなるたび、テレビの音量が負ける。バラエティ番組の笑い声が、怒鳴り声に踏み潰されていく。
グチグチうるせぇなぁ。
心の中でそう吐き捨てても、口は開かない。
どうせ無駄だと、もう分かっていた。ここで何を言っても、怒鳴り声が倍になって返ってくるだけだ。沈黙が、唯一の防御手段だった。
視線をずらすと、ソファに妹がいた。
年の離れた妹は、こちらには一切興味を示さず、テレビ画面を見つめている。
足をぶらぶらさせ、クッションを抱え、番組に合わせて小さく笑う。兄貴が地獄に落ちていようが、怒鳴り声の的になっていようが、彼女の世界には存在しない。
彼女にとって俺は、背景だ。家具と同じ。少し邪魔で、でも基本的には無視できるもの。
画面には、今となっては懐かしい、当時流行っていたバラエティ番組が映っている。
芸人が落とし穴に落ちる。
派手な効果音。
スタジオが沸く。
テロップが踊り、観客の笑い声がスピーカーから溢れる。
俺も、そっちにいたかった。
番組がCMに入った瞬間、妹がソファから立ち上がった。
スリッパの底が床を擦る音を立てて、こっちにズンズンとやってくる。歩幅は小さいのに、迷いがない。
俺の横を通り過ぎ、親父の正面に立つ。
「うるさい! テレビが聞こえないでしょ!」
痛烈な一喝。
それは俺に向けられた言葉じゃないのに、胸に突き刺さった。
妹は、守られている。守られているからこそ、言える言葉だ。
そんな発言の権利は当然、俺が持ち得るものではなかった。
親父は一瞬だけ言葉に詰まり、こちらを一瞥してから、捨て台詞を吐いた。
よく覚えていないが、「反省しておけ」とか、「少しは考えろ」とか、そんな類の言葉だ。
そして、そのままリビングを出ていった。
ドアの閉まる音だけが、不快なまでに大きく響いた。怒鳴り声よりも、ずっと。
……ああ。なんだ、この時か。
妙に冷静に、そう思った。
俺は妹に感謝することもなかった。助かった、という実感もなかった。
ただ、自分の存在の軽さに、愕然としていた。
落とし穴に落っこちる芸人のリアクション。
それを邪魔する存在としての俺。
どちらが優先されるか。
答えは、あまりにもはっきりしていた。
もっと言えば、薄々気づいてはいた。
自分が、家族の中でどんな位置にいるのか。
ただ、こうして形になって突きつけられると、思った以上に動揺したんだ。
怒鳴られたことよりも、救われたことよりも、「どうでもいい存在だった」という事実のほうが、ずっと深く、胸の奥に沈んでいった。
――なんで。
胸の奥で、その言葉だけが残響した。
夢から覚めたはずなのに、感情だけが置き去りにされたみたいに、じんわりと熱を持っている。理由の分からないざらつきが、まだ心臓の裏にへばりついて離れない。
「なんでこんな日に限って、こんな夢を見る?」
昼前の、ぼんやりと明るい時間帯。
俺はゆっくりと目を開けながら、そう呟いた。
天井の白さは均一で、輪郭がはっきりしている。夢の中の曖昧な輪郭とは違う。窓の外から差し込む光も、確かな重みと温度を持って、まぶたの裏を押してくる。現実だ、と否応なく理解させられる。
「なんでって言われても。まあ、昨日はいろいろあったからね」
返ってきたのは、女の子の声だった。
くぐもっていない。歪んでもいない。
耳に届いた瞬間、これは夢じゃないと分かる、はっきりした現実の音。
「だれええええ!? ……いったぁ……たたたたた!」
反射的に上体を起こそうとした瞬間、全身に激痛が走った。
筋肉が、骨が、内臓が、いっせいに悲鳴を上げる。
息が詰まり、視界が一瞬白く弾ける。眠気も、夢の余韻も、一気に吹き飛んだ。
殴り合い。
闇夜の烏。
団長。
副長モドキ。
断片的な記憶が、痛覚と一緒に流れ込んでくる。夢じゃなかった。全部、現実だ。
「あーあー、動かない動かない」
女の子の声は、慌てるでもなく、けれど確かに心配している調子だった。叱るというより、放っておけない、という響きだ。
夢の中で浴び続けた怒鳴り声とは正反対の、柔らかさ。
「私も遠くから見てたわよ、あの殴り合い。あんなことやって一晩寝たら、そりゃ身体バリバリになるって。顔も腫れて、正直ヤバいよー」
軽く言うが、言葉の端々に本気で案じている気配が滲んでいる。
俺の状態を誤魔化そうとも、美化しようともしていない。ただ、そのままを受け取っている。
「…………シルヴィア」
「うん? なに?」
やはり、シルヴィアだった。
一度、橋の下で演奏を聴いただけの仲。
それ以上でも、それ以下でもないはずの関係。
なのに、どうしてここにいる。
「なんで、俺を助けに来たんだ? 危ない仕事じゃねぇか」
自分でも分かるくらい、声に棘が混じった。
責めたいわけじゃない。
ただ、理解できなかった。理解できないことが、怖かった。
「んー……ブルーノに頼み込まれたってのもあるけどね」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「私の演奏、聴きに来てくれたでしょ。だから。ファンには甘いの、私」
へへへ、と照れたように笑う。
照れを隠そうともしない、屈託のない笑い方。
損得も、打算も、責任の重さも、そこには見当たらない。
……そんな理由で?
俺なんかを?
その理屈は、俺にはどうしても理解できなかった。
誰かが誰かを助けるには、もっと大きな理由が必要だと、俺は思っていたし、思っている。価値とか、義務とか、対価とか。
「気に入ったから」なんて、あまりにも無防備で、純粋すぎる。
「ね、また新曲ができたのよ。一曲どうかしら?」
彼女は楽しそうに言う。
こちらの戸惑いも、内心のざわつきも、まるで気にしていない。
「快気祝い……って感じじゃないか。生還祝い? 勝利の一曲? まあ、そんな感じで!」
俺の返事も待たず、シルヴィアは演奏の準備を始めた。
フルートを取り出す手つきが、驚くほど自然で、迷いがない。
まるで呼吸の延長みたいに、音楽がそこにある。
「おいおい、お前さ……」
「え? なぁに?」
その屈託のなさに、言葉が喉で引っかかった。
「危ない」とか、「無謀だ」とか、そういう理屈は、この人には届かない気がした。
いや、届かないんじゃない。最初から、そんな尺度で世界を見ていない。
「……快気祝いにしてくれ。もう全快だ。たった今な、全部治ったんだよ」
半分は冗談で、半分は本音だった。
身体はボロボロでも、心のどこかが、さっきから確かに軽い。
シルヴィアはくすっと笑った。
「そりゃ、良いことね……。では、快気祝いに、ひとつ」
そう言って、イシス地方独自のフルートに口をつける。
息を吸う、その一瞬の間すら、無駄がない。
殺風景な部屋に、澄んだ音色が広がった。
柔らかく、遠くまで伸びる音。
昼の光に溶けるような旋律だ。壁に反射しても、濁らない。誰かを殴るための力とは正反対の、触れるだけで壊れそうな優しさ。
ああ、心地いい。
……でも。
もったいねぇよ。
俺なんかのためにもったいねぇ。
もっとちゃんとした場所で、ちゃんとした人間のために鳴るべきだ。
せっかくの新曲だろ?俺なんかには……。
気づけば、俺は涙を流していた。
勝手に、頬を伝っていく。
夢の名残か、現実の重さか、自分でも分からない。
一体なんだっていうんだ。
本当に……どうして、あんな夢を見たんだろう?




