■3-9 熱狂の夜の終わり
「……ここは?」
声に出した瞬間、自分でもはっきりわかるほど、その音は擦り切れていた。喉の奥で引っかかり、空気を無理やり削って外へ押し出したような感触が残る。これが自分の声だったか、と他人事のように思う。
視界の上方に、薄い天井の模様が浮かんでいた。規則正しいはずの線が、まるで水を張った皿の底を覗き込んでいるみたいに歪んでいる。白と灰色の境界は曖昧で、呼吸に合わせてゆっくりと揺れた。吸って、吐いて。そのたびに、世界がわずかに伸び縮みする。焦点を合わせようと意識するほど、像はほどけ、まばたきをすると一度ばらけてから、遅れて組み直された。
頬の奥――皮膚や筋肉ではなく、骨のさらに内側を直接叩かれているような鈍い痛みが、遅れてじわじわと広がってくる。眠りの底から意識を引きずり上げるための、執拗で逃げ場のない痛覚だ。
舌の裏に残る鉄の味。乾ききった喉。呼吸をするたび、胸の奥がかすかに軋む感触があって、深く吸い込むのを本能的にためらってしまう。
――生きてはいる、らしい。
そんな結論に至るまでにも、やけに時間がかかった。
深夜なのだろう。耳を澄ませても物音はほとんどない。人の気配はおろか、遠くの配管が熱を冷ますときの微かな鳴りすら聞こえない。静けさだけが重さを持ち、空気の層となって身体の上にのしかかっていた。音がないという事実そのものが、疲れ切った意識には負担になる。
「目覚めたのね。良かったわ」
その静寂を壊さないように、声はすぐそばで落とされた。近すぎず、しかし確かに届く距離。柔らかく、落ち着いていて、必要以上に感情を含まない――聞き慣れた綾瀬さんの声だ。
鼓膜を撫でるように染み込み、胸の奥で張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩む。理由はわからない。ただ、この声なら状況を取り違えたりはしない、という根拠のない安心感があった。
「目覚めたっていうか……意識が飛び飛びで……あ、ちょ、いてててて」
身体を起こそうとした瞬間、全身が一斉に抗議を始めた。筋肉というより、身体の芯そのものが悲鳴を上げる。無数の鈍器で同時に殴られたような衝撃が走り、喉から思わず声がこぼれた。
視界が一瞬、白く弾ける。何かを掴もうとして、何も掴めない。自分が今どこにいて、何をしようとしたのか、その順序さえ曖昧になる。
「横になってなさい。かなり痛めてるみたいよ。骨には異常がなかったようだけど」
淡々とした忠告。その声音に焦りや慌てはない。だが、だからこそ逆に、軽い怪我ではないのだと悟らされる。
――骨に異常はない。
その言葉を、安心材料として受け取るだけの余裕すら、今の俺にはなかった。
「はぁ。それはけっこうなことで」
軽口を叩いたつもりだった。だが、声にはまるで力が入らず、冗談として成立していないのが自分でもわかる。
俺は首だけを慎重に動かし、視界の端から端までをなぞるように、ゆっくりと周囲を見回した。急ぐと、また痛みが跳ね返ってくるのが目に見えている。
「ここはヒルデガルト魔導学院の留学生支援棟よ。治外法権ってほどじゃないけど、あんなチンピラが入ってくることはまずないわ」
「はー。綾瀬さん、そんなところも守備範囲なんですね。感服」
皮肉混じりに言うと、喉の奥の引っかかりが、ほんの少しだけ和らいだ。言葉を交わせる程度には、意識が戻ってきているらしい。
「いえ、私にそんな力はないわ。シルヴィアさんのご厚意よ」
「……シルヴィア!? あの橋の下のフルートの!?」
思わず声が跳ねた。頭の奥で、あの日の音色が一瞬だけ蘇る。冷えた空気の中で、やけに澄んでいた旋律。
――あれが、ここにつながるのか。
記憶と現実が、まだうまく噛み合わない。
「そう。彼女はイシス地方からの留学生なの。今日、初めて知ったけれど」
情報量だけが、やけに多い。頭の中に断片が次々と放り込まれ、整理されないまま浮遊する。
思考は粘度を増し、スプーンでかき回しても形を成さないスープのようだ。理解しようとすると、すぐに疲労が先に立つ。
「じゃあ……さっき地下の灯りを全部消したのは」
「ええ。シルヴィアさんの魔導力。留学生に選ばれるだけの能力はあるみたいね」
「そっかぁ……」
間の抜けた返事しか出てこない。
喉を通って外へ出た音が、本当に自分の意思を伴っていたのかどうかも怪しい。考えがまとまらないというより、考えるための筋力そのものが萎えている感覚だった。
身体は横になったままなのに、頭の中だけが遠くへ流されていく。ベッドに固定された肉体から、意識だけがゆっくりと剥がれていくような、頼りない浮遊感。
考えなければならないことは山ほどあるはずなのに、そのどれにも手を伸ばす気力がない。ただ、こうして生き延びて、誰かの声を聞いている――その事実だけが、重く、そして妙に現実味を帯びて胸に残っていた。重たい錘のように、胸骨の裏に沈んで動かない。
「何よその気の抜けた返事は。感謝しなさい。あなたを心配して飛び出していったモニカ。ネットワーク目当てで呼び出されたブルーノ。そこで白羽の矢が立ったシルヴィアさん」
綾瀬の声はいつも通りの調子を装っている。だが、言葉の端々が、微妙に噛み合っていない。
彼女は椅子に腰掛けたまま、指先で自分の袖口を何度も整えていた。意味のない動作だ。皺を伸ばすでもなく、ただ布を撫でて、また離す。その繰り返し。視線も、俺ではなく、どこか壁の一点に固定されている。
「そして敵陣に中央突破してきた綾瀬さん」
軽く言ったつもりだった。だが、綾瀬の肩が、わずかに跳ねたのが視界の端に入る。
「私はいいのよ。仕事をしたまで」
切り落とすような返答。
声の高さも、抑揚も、普段と変わらないはずなのに、そこには妙な硬さがあった。金属を薄く叩いたような、反響のない音。
それでも、その無機質さが、夜の静けさと溶け合い、俺の疲弊した神経には不思議と心地よく感じられた。感情を預けすぎなくていい。踏み込まれすぎない。その距離感だけが、今はありがたい。
「喋れるなら、一体何をどうしてあそこまでやらかしたのか聞かせてくれる?……まあ今日じゃなくてもいいけれど」
「寝たままでいいなら話せますよ。まあ、なんというか……不幸な偶然が重なったというか……」
天井を見つめたまま、俺は順を追って話し始めた。
声だけが、この無音の部屋に落ちていく。感情を込める余裕はなく、出来事を並べるだけの報告書みたいな口調になる。
アゾットナイフを追うためにモニカの店で魔導力を使ったこと。追跡したが入室を断られたこと。たまたま居合わせた構成員に副長と勘違いされたこと。団長室での、歯車が合わない会話。そして、急転直下でアゾットナイフを賭け、殴り合いになったこと。
話しているうちに、自分でも思う。
――なんで、こんなに他人事なんだ。
殴られたのも、倒れたのも、意識を失ったのも、全部俺なのに。感情だけが、話についてきていない。
静寂の中、俺の話だけが淡々と積み重なっていく。音が吸われていくような感覚。夜そのものが、証言を記録しているみたいだった。
綾瀬さんは途中から、頷くのをやめていた。代わりに、指先が膝の上で絡まり、ほどけ、また絡まる。その動きが、次第に早くなっていく。
「あ! そういやアゾットナイフもらい忘れた! あの野郎……!」
怒りが湧きかけた、その瞬間――綾瀬さんの反応がない。
さっきと同じ場所に座っているのに、表情だけが違う。目は開いている。だが焦点がどこにも合っていない。
口元がわずかに動いているが、空気に溶けてしまうほど小さく、声として形を結ばない。喉が、言葉を拒んでいるみたいだった。
「ちょっ……どうしたんですか、あや――」
「ごめんなさい!!」
突然、深く頭を下げた。
勢いがありすぎて、椅子がかすかに鳴る。空気が揺れ、衣擦れの音だけがやけに大きく響いた。
「完全に研究所のミス……いいえ、私のミスだわ。闇夜の烏がマルセラに拠点を移す可能性はあった……まさかドナーの知人とぶつかるなんて……管理部の判断は十分だった、完全に私が……!」
言葉が溢れ、止まらない。
声は震え、語尾が定まらず、息継ぎの位置さえ乱れている。理性が外れ、感情だけが先走っているのが、はっきりわかった。
――ああ、これはまずい。
この人は今、俺じゃなくて、自分自身を責めるためにここに立っている。
「綾瀬さん!!」
「はっ……はい。なに? なぁに?」
顔を上げた綾瀬の目は、明らかに潤んでいた。焦点が定まらず、俺を見ているようで、見ていない。
俺は天井を見たまま、視線を合わせずに言った。
「いい感じで意識が薄くなってきたよ……今日のところはこのまま眠っちまうよ?」
本音だった。半分は。
もう半分は、逃げだ。
「え、ええ。そうね……時間を取らせてしまって、ごめんなさい」
返事はしなかった。寝たふりだ。
無に身を委ねていないと、今の悪い流れは断ち切れない気がした。誰かの後悔や責任を、これ以上この身体に乗せる余裕はない。
「それじゃあ……おやすみ。また明日会いましょう」
足音を殺し、綾瀬は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる気配すら、夜に溶ける。残されたのは、消毒薬の匂いと、微かな空気の揺れだけだった。
「綾瀬さん、パニッくってたなぁ……」
天井に、ひとりごとを投げる。
だが俺も、大して変わらない。頭の奥では、整理されない単語と情景が渦を巻いている。
副長のこと。
団長との決闘。
俺の魂。俺の身体。
闇夜の烏。
モニカ。ブルーノ。シルヴィア。綾瀬さん。
研究所。転生。
深い闇が、すべてを包み込んでいる。
痛みの続く長い夜なのに、どれひとつとして、考えはまとまらなかった。




