■3-8 勝者の結末
静かなざわめきが、ぐつぐつと煮立つ鍋の底みたいに、フロアの隅々まで広がっていった。
音量そのものは低い。誰も大声を出していない。それなのに、空気の密度だけが異様に増していく。喉の奥で息を殺す気配。肩をすくめ、半歩だけ位置をずらす動き。湿った石床を踏み直すたびに、靴底が擦れる短い音が、やけに大きく感じられる。
視線が痛い。
無数の目が、俺と倒れた団長を結ぶ線をなぞり、その周囲をぐるぐると回っている。値踏み、戸惑い、怒り、期待――混ざり合った感情が、見えない糸になって空気を引っかいているみたいだった。
地下特有の湿った空気が、嫌な熱を帯びて肌にまとわりつく。
汗と鉄、それに長く閉じ込められた人間の体臭が混じり合った匂い。鼻から吸い込むたび、肺の奥まで生温い。呼吸を整えたいのに、深く吸うほど気分が悪くなる。
「団長が……負けた?」
「嘘だろ……」
「さすがは副長ってところか」
「馬鹿言え! そういう問題じゃねーよ!」
声はどれも抑えられている。だが、芯が荒れている。
言葉の内容より先に、感情のささくれが空気を削っているのが分かる。誰かが腕を組み、誰かが拳を握り、誰かが一歩前に出かけて、隣の人間に止められる。
一触即発。
鍋の蓋が浮きかけている状態だ。中で泡が暴れているのに、かろうじて重さだけが均衡を保っている。
最悪だ。
今はまだ、「副長」という肩書きと、「決闘」という形式が、連中の衝動を押さえ込んでいる。理屈じゃない。幻想だ。それでも、幻想は刃物より鋭い抑止力になる。
だが、一人でも踏み出した瞬間、この均衡はあっさり崩れる。誰かが殴りかかり、誰かが止め、誰かが血を流し、あとは雪崩だ。
理屈も秩序も、全部吹き飛ぶ。血と暴力でしか会話できない連中だってことを、俺は知っている。
この場に漂う熱と臭いが、すでにそれを証明していた。
その時だった。
人垣を割って、小柄な構成員がひとり、俺の方へ歩いてきた。
周囲の団員たちが、無意識に道を空ける。ぶつかるのを避けるというより、触れたくないものを避ける動きだ。
黒いフードを目深にかぶり、顔は影に沈んでいる。歩幅は小さいが、迷いがない。
ざわめきが、ほんの一瞬だけ、間を失う。
空気が、息を止めたみたいに張りつめる。
片手には、抜き身の長剣。
刃はよく研がれていて、地下の魔導石の灯りを鈍く反射し、冷たい光を返していた。金属特有の匂いが、鼻にかすかに刺さる。
何人かが息を呑むのが、はっきり分かった。
おいおいおい、それはないだろ。
心の中で、思わず頭を抱える。
ここで剣を抜く――その判断が、どれだけ最悪か分かってないのか。こいつを止めたところで、血の気の多い連中に火を点けるだけだ。
理屈も秩序も、全部吹き飛ぶ。勝った負けたなんて話じゃなくなる。ただの殺し合いだ。
フードの小柄な構成員は、すっと剣を振り上げた。
刃が空気を切る、低く乾いた音。
……でも俺は、動かなかった。
向けられた殺気が、やけに薄かったからだ。皮膚を刺す圧がない。背筋が凍る感じもない。
威嚇でも、怒りでもない。
これは――別の何かだ。判断を迫るために、意図的に抑えられた緊張。
振り下ろされた刃が叩きつけられたのは――倒れている団長の首元、そのすぐ横の床だった。
団長にギロチンをかけたような構図で、長剣がフロアに深く突き刺さる。
石床に響いた金属音が、地下全体を震わせた。
鈍く、重く、腹の底まで響く音。
余韻が天井を叩き、壁を伝い、遅れて耳に戻ってくる。
周囲の団員たちが、一斉に足を止める。
一歩踏み出せば、団長の首が落ちる。
剣一本で、場を縫い止めている。いや――空気そのものが、縫い止められているみたいだった。
フードの人物が、大きく息を吸い込んだ。
布の内側で、肺が膨らむ気配。
「アンタたち! 今の決闘に泥を塗ってるって自覚、ある!?」
女の声だ。
鋭く、よく通る。怒鳴っているのに、妙に冷静な響きがある。
というか、これは……。
俺の胸の奥で、嫌な予感と、かすかな安堵が同時に芽生えた。
「まあ、分からなくもないわ」
フードの下で、ふーっと長い溜め息をつく。
吐き出された息は、熱を含んだまま夜気に溶けることもなく、その場に垂れ込めた空気をさらに重くした。周囲の団員たちが、微妙に身じろぎする。足の位置を変える音、腕を組み替える布擦れの音。誰もが反応しているのに、誰も動けない。
「組織の長がやられちゃったんだもんねえ。これじゃ団長スゲー、そしてその団員の俺もスゲー、っていうくだらない自己肯定も出来なくなっちゃうものね」
あからさまな挑発。
言葉の一つ一つが、意図的に棘を立てて投げつけられている。地下の空気が、目に見えないざらつきを帯びる。湿った熱が、砂を噛んだみたいに喉に引っかかる。
団員たちの間を走る小さなざわめき。肯定でも否定でもない、ただの感情の擦過音。
――来るな。
俺は内心でそう思った。
こういう時に、必ず「分かりやすい馬鹿」が出てくる。空気も読めず、状況も理解できず、感情だけで突っ走るやつだ。頼むから、今は出てくるな。
案の定、釣れた。
「てめえ、いきなり出てきてベラベラと……!」
血の気の多い男が、ズンズンと前に出てくる。
肩を怒らせ、拳を握り、周囲を押しのけるように距離を詰める。その動きにつられて、何人かが一歩下がり、何人かが逆に半歩前に出る。連鎖反応だ。
――ああ、最悪だ。
瞬間、世界は闇に塗りつぶされた。
光源になっていた魔導石の明かりが、全部、一気に落ちたのだ。
視界が潰れる。黒が押し寄せる。上下も距離も分からなくなる。
さっきまで輪郭を持っていた人影が、全部ただの塊になる。視覚という拠り所を奪われた地下は、一転して「音」だけの世界になった。
「な、なんだ急に!」
「何も見えねーぞ!」
「ちょっ、どこ触ってんのよ!」
「知らねーよ! 押されてんだよ!」
「魔導石を動かせ! 早く!」
「無理だろあんなの、俺扱えねーって!」
「火だ、火でいい! 誰か火つけろ!」
「は? お前がやれよ!」
「なんだとコラ!」
怒号が、恐怖が、苛立ちが、暗闇の中で衝突する。
足音が走り、誰かが転び、誰かがぶつかる。音が壁にぶつかり、割れて、何倍にもなって戻ってくる。地下の天井が、それを全部反響させていた。
闇夜の烏たちは、見事に混乱している。
視界を失った群れは、方向も上下も失い、ただ騒音と本能だけで暴れている。
……で、俺も混乱していた。
どうやら確保されたらしい。
誰かにがっちり抱えられ、持ち上げられ、次の瞬間には天地が逆転した。今はたぶん、肩に担がれている。
腹が硬い肩骨に押しつけられ、肺が圧迫される。息が詰まる。視界は暗闇のまま、ぐらぐらと揺れ続けている。
「ちょ、ちょっと乱暴すぎない?」
声を出した途端、身体がきしんだ。
いてぇ。普通に、全身がいてぇ。
しかも、ガンガン何かにぶつかっている。壁、柱、人――たぶん全部だ。石と布と肉がぶつかる鈍い衝撃が、断続的に伝わってくる。
地下特有の閉塞感が、頭を締め付ける。
空気が足りない。暗闇が、目の奥まで染み込んでくる。
やば……意識飛びそうなんだけど
ごちゃごちゃした怒号と足音の渦を抜けた、その瞬間だった。
風の匂いが、はっきりと変わった。
湿気と熱と血の匂いが、一気に引いていく。代わりに、冷たく乾いた夜気が肺に流れ込む。
闇を抜けた先は、月明かりに照らされた地下への入り口だった。
さっきまでの喧騒が、嘘みたいに遠い。
夜気は冷たく、音が少ない。遠くの街の気配すら、布越しに聞こえる程度だ。
静寂が、耳に痛いほど澄んでいる。
「首尾はどう?」
聞き覚えのある声が、落ち着いて響いた。
「上出来です」
俺を担いでいたやつが答える。
このやさ男――ブルーノだ。独特な声のトーン。
「では、とりあえず使えるだけの魔導石をばら撒きますわ」
続いたのは、妙に場違いな口調。
モニカだ。暗闇の中でも、きっちり仕事してやがるのが目に浮かぶ。
「じゃ、急いで撤退よ」
先頭でそう言って、黒フードをぱさりと外したのは、やはり綾瀬さんだった。
いつものうどん屋の店主じゃない。転生研究所所属・監視官の顔つき。
月明かりが、その横顔だけを静かに照らしている。
その背中を見た瞬間、胸の奥で張りつめていた何かが、ようやくほどけた。
……助けに来たのか。そうか。
闇夜の烏の巣から引きずり出された俺は、ぐらぐら揺れる視界の中で、地下の騒音が完全に遠ざかっていくのを感じていた。
まだ身体は痛いし、頭も重い。だが――意識だけは、どうにか静かな地上につなぎ止めることができていた。




