■3-7 敗者の言葉
苦痛に抗い、俺はオーソドックススタイルへと身体を立て直す。
左足を半歩前に出し、踵の位置をほんのわずか内側へ。膝を緩め、腰を落とす。
肋の奥に残る鈍痛が、呼吸のたびに内側から軋んだ。肺を膨らませるたび、鋭くはないが確実な違和感が走る。折れてはいない。たぶん。だが、確実に効いている。
汗が目に入り、視界の端が滲む。
それでも、焦点は合う。
床の感触が、靴底越しに確かに伝わってくる。ざらついた石の感触、微かな湿り気。ここに立っている、という実感だけは失われていない。
相手の距離に合わせないために、当てる気のないジャブを打つ。
肩だけを使い、肘を伸ばしきらず、手首のスナップも殺す。
空気を突く拳が、乾いた音を立てた。
軽い。
軽すぎる。
これは牽制だ。
相手のためじゃない。自分に言い聞かせるための。
「どーした? また来れるか? 来れるよなぁ」
団長の声はやけに通る。
地下の喧騒も、団員の叫びも、なぜかその声だけが輪郭を保って耳に届く。
金属質で、耳の奥に引っかかる。
構えは両手をぶらりと下げたノーガード。
肩の力が抜け、胸が開き、顎がわずかに前へ出ている。
よほどカウンターに自信が無いと、ああはならない。
あー、怖い怖い。
笑えない冗談が喉の奥で引っかかる。
背中を一筋、冷たいものが走った。
団長の姿勢は基本的には待ち。
だが、その目だけは違う。
攻め、攻め、攻め、攻め――攻撃色しかない。
獲物を見る目だ。
俺の重心、呼吸、瞬きの間隔。
瞬き一つの間に、距離と角度を測られているのが、肌でわかる。
「もっと遊ぼうぜぇ! 副長モドキ!」
奇声をあげて飛び込んでくる。
声はうっとおしいが、喋らせているほうが、何となく有利に働きそうだ。
呼吸が乱れる。
判断が遅れる。
俺は前拳を伸ばし、いつでも本命のストレートを打てるように構えた。
肘の位置、拳の高さ、肩の角度。
来るなら来い。
というより、来てください。
そういう構えだ。
団長は両腕をぶら下げたまま、俺のエリアに踏み込んでくる。
足音がしない。
床を踏んでいるはずなのに、音が消えている。
距離が、近い。
近すぎる。
汗と鉄と、獣じみた体臭が混じった匂いが鼻を突く。
視界の端で、団長の肩がわずかに沈む。
呼吸のリズムが変わる。
俺の顔面に、顔を寄せる。
問題ない。
警戒すべきは、アッパーだけ。
俺は小さくバックステップをして、攻撃圏外へ出る。
踵が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
その時――
団長の姿が、視界から消えた。
一瞬の空白。
まばたき一つ分の“抜け”。
次の瞬間、地面が近い。
視界の下から、黒い影が跳ね上がる。
身体をぐんと低くして、接近してきた。
速さについていけなかったわけじゃない。
見失ったわけでもない。
慌てる必要はない。
……ない、はずだ。
だが、団長の動きは予想外だった。
飛び膝蹴り。
しかも、二段飛び膝という奇襲。
踏み切り、空中で軸足を切り替え、もう一度跳ねる。
ヒットしたのは俺の額。
鈍く、硬い衝撃。
視界が白く弾け、脳が揺さぶられる。
音が一瞬、完全に消えた。
効かされた。
確実に。
だが、アゴに入っていたら――
意識を飛ばされていただろう。
流れの中の、たまたまに感謝するしかない。
「オイ! オイ! オイ! オラッ!」
声と同時に、拳が飛ぶ。
ブンブンと、空気を切り裂く音が連続する。
大振りのフック、からの大振りのフック。
肩が回り、腰がついてくる。
床を踏み鳴らす振動が、足首から膝へ、骨を伝って響く。
フルパワーで、気持ちよく振り回してきやがる。
――耐える時間だ。
俺は団長の大振りをブロッキングで、受け続ける。
前腕を立て、肘を締め、とにかく脳を守る。
腕に衝撃が叩きつけられるたび、骨が悲鳴を上げる。
じん、と痺れが走り、感覚が鈍る。
痛いじゃねぇかよ、馬鹿野郎。
本能で振り回している割に、パンチはキレる。
一発も、もらえない。
だが、パンチに集中してくれているのはありがたい。
膝蹴りに注意しつつ、頭で弧をえがきパンチの下をくぐり抜ける。
首と腰を連動させ、視界を低く、横へ。
視界が揺れ、団長の腹、胸、顎が流れるように通り過ぎる。
呼吸音が、自分の耳を満たす。
観衆の声は、もう聞こえない。
足音も、歓声も、酒の匂いも――遠い。
ここには、俺と団長しかいない。
拳と、呼吸と、わずかな動きだけが存在する。
世界が、二人分にまで削ぎ落とされていく。
よし、いける。
確信は声にならず、ただ呼吸の奥で静かに沈殿した。
なおも振り回してくる渾身のフック。その軌道が、もう読める。肩の沈み、腰の捻り、踏み込みの癖。全部が、少しずつ遅れて見える。俺は半歩だけ位置をずらし、拳が通り過ぎる空間を残したまま、床を滑るように動いた。
どうだい。空振りは、疲れるだろ?
相手の重心が一瞬だけ浮いたのを見逃さず、スタミナ切れと踏んでローキックを飛ばす。
――が。
構わず振り抜かれた大振りのフックが、鼻先をかすめた。
皮膚を撫でる風圧。熱を帯びた空気が一気に押し寄せ、鼻の奥がツンと痛む。ほんの数センチ。だが、その「ほんの」が命取りになる距離だ。
誤算。完全に、合わせてきやがった。
「マジかお前? あぶねーだろ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど軽かった。心拍は高いままなのに、頭だけが妙に冷えている。
「どーしたぁ? もう泣き言かぁ!? 副長モドキ!」
団長の口角が歪む。嘲りではない。楽しんでいる顔だ。
団長は雑な前蹴りで空間を作る。足の甲が空を切り、俺は反射的に上体を引いた。次の瞬間、飛び込みの――たぶん左アッパー。拳は顎を掠めない。だが、その勢いに飲まれて、俺の重心が後ろへ流れる。
これは、いけない。
後傾にされたところへ、右ストレート。無駄がない。流れるような連携。
ああ、これか。
たぶん、このコンビネーションが得意なんだろう。洗練されてやがる。
「あっぶね……!」
叫びは遅れてついてきた。
だが、身体の反応は真逆だった。全身のバネが、圧縮されたコイルのように一気に縮む。床に触れた掌。伝わる冷たさ。滑りかけた靴底。
恐怖も、焦りもない。
あるのは、「隙ができた」という冷徹な計算だけだ。脳裏で数字と軌道が、高速で書き換えられていく。
再び構える俺と、同時に身体を沈める団長。
また来る。
大好きなコンビネーションを、もう一度――だろ?
何度も、見た光景なんだよ。理由は分からない。でも、知っている。
思考するより早く、右腕が走った。
団長が左拳を突きあげようとする、そのコンマ一秒の未来へ向かって。
俺の拳が、吸い込まれていく。
「グシャッ」
鈍い音。
拳に伝わる、骨の硬さ。
ドンピシャのカウンター。
俺が打ったんじゃない。
この身体が、勝手に処理した。
そして――それでも倒れない、ヤバい奴。
「オラァ!」
団長は崩れるように、俺へ身体を預けてきた。腕が胴に回され、がっちりとクラッチされる。胸郭が潰され、肺が圧迫される。息が、詰まる。
ちょっと、あり得ないパワーだ。
視界が持ち上がり、足裏が床から離れる。身体が浮く。
これはまずい。どう――
「こんな時こそ考えない。こんなときこそ!」
声が、自分の耳に直接叩きつけられる。
考えるな。
考えるな。
考え……。
俺はクラッチされたまま、身体を反転させる。団長に背中を見せる、最悪の選択。だが、他にやり様がない。背筋に冷たいものが走る。
後頭部に、見えない打撃をもらったら終わりだ。
その絶体絶命の瞬間を、皮一枚で潜り抜ける。
肩を抜き、腰を切り、絡んだ腕を外す。
俺は団長から転がるように抜け出し、距離を取った。
振り返る。
苛立ちに満ちた表情が、そこにあった。
「そんな温いことはしねぇ! もっとえげつない動きのはずだぜぇ! 副長はよぉ!」
団長が、沈む。
来いよ。
今度こそ、仕留めてやるよ!
「ぐっ……!」
苦悶の声は、俺。
沈んだ団長は、そのままボディストレートを叩き込んできていた。
内臓が跳ねる。胃の中の空気が、一気に吐き出される。視界が揺れ、足元が一瞬消える。
話が違うじゃねぇか。
「フッ!」
無理やり息を吐き、後ろ回し蹴りを放つ。
当たらないことは、百も承知だ。
とにかく、今は距離が必要だ。
何とか倒れずにいるが、分かる。
長期戦は、不利。
なら――俺から、仕留めにいくしかない。
やってみるか。
やれんのか?
――不思議と、出来る気がする。
俺は痛めた身体を思い切り沈めて、団長へ飛び込んだ。
右アッパー。
当たっている。だが、捉えてはいない。それでいい。
後ろへ流れた重心。その瞬間に、左ストレート。
団長が、まともに顔面で受ける。
身体が後方へ吹っ飛び、床に叩きつけられた。
驚いたかい?
見直したか?
俺にだって、出来るんだぜ。
「はあっ、はあっ……!」
団長に、意識はあった。
それどころか、立ち上がってくる。
とてつもないタフネス。
だが、俺はそれを待っていた。
立つだけで必死の団長の肩を掴む。指先に伝わる、体温と震え。
抵抗は、ない。
俺は相手を抑えつけたまま、ボディに一撃叩き込んだ。
「うっ!」
団長は、ヒザをついた。
もう立てない。
俺の拳には、その感触があった。
フロアの野次が、渦巻く。
「副長やれぇ!」
「団長折れたぞ!」
「巻き返せぇ!!」
その声は、俺に「殺せ」と強要している。
そして恐ろしいことに、俺の右足も、それに呼応して震えていた。
蹴り上げれば、終わる。
首の骨をへし折る感触。
命が消える瞬間の、手応え。
それらが、甘美な誘惑として、足の筋肉を収縮させる。
「ここで俺が小石を弾くみたいに蹴り上げたら、お前死ぬぞ」
「そうだろうなぁ……だがいいのかぁ?」
「あん?」
「もっと晒けだせよぉ。俺が見届けてやるぜぇ。……その価値がある」
価値?
見失ってるぜ。
そこに、価値はない。
俺は――
俺の魂は、そんな価値観じゃない。
「アホか、死んだら見れねーんだよっ!」
ギチリ!
筋肉と腱が悲鳴を上げる。振り上げた脚が、空中で凍りつく。
団長の顎に、ピタリと触れて止まった。
一瞬の、静寂。
制御できた。
俺はまだ――俺だ。
「……甘いねぇ。だからお前は副長モドキなんだ」
「それで結構」
俺は、微動だにせず答える。
「…………俺の負け。終わりだ」
団長は、前のめりに倒れた。




