■3-6 見えるものと見えないもの
「……!」
空気が裂けたように感じた。
音より先に、圧が来る。皮膚の表面がわずかに逆立ち、鼓膜の奥がきしむ。視界が歪んだわけでもないのに、世界の解像度だけが一段引き上げられた感覚。
一歩目から、速度が違う。
床を蹴る音が遅れて聞こえるほどの踏み込み。踏み出した脚の筋肉が一瞬で収縮し、重心が前へと滑る。その動きが、影となって視界の端を伸びる。
――来る。
判断よりも早く、身体がそう理解していた。
圧だけが先に届く。
速い。ただ速いだけじゃない。修練を積んだ身のこなしだ。
筋肉のつき方、肩の落とし方、骨盤の向き。体重移動に無駄がなく、加速と制動が同時に成立している。
一歩踏みこんだ軌道だけで、“危険さ”が伝わってくる。
……いや、おかしい。
なんで俺がそれを見切れる?
そう考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
理解しているのに、理解の経路が分からない。
知識として学んだ覚えはない。観戦した記憶もない。それなのに、身体のどこかが「これは危ない」と断定している。
頭の奥で、警鐘が鳴る。
――違う。これは知識じゃない。
もっと、原始的で、もっと身体寄りの何かだ。
「って考えてる場合か!」
内側の声が叫ぶ。
距離を詰められたら終わる。直感が、喉元までせり上がってくる。
相手の体温、汗の匂い、金属めいた気配が、距離を詰めるごとに濃くなる。視界の中心に団長が固定され、周囲の観衆が背景へと溶けていく。
ただ真っ直ぐ下がったら捕まる。
それも、理由は説明できない。ただ“分かる”。
俺は重心を沈めて横へ跳んだ。
踵ではなく、母趾球で床を捉える。靴底が石床を擦り、乾いた音が短く弾いた。
視界が一瞬ぶれるが、すぐに収束する。首を固めず、顎を引く。
自然と、若干の前傾姿勢になる。
顎を引き、相手を睨みあげる。
呼吸が浅い。だが乱れてはいない。
喉が乾く感覚だけが、やけに鮮明だ。
左拳を軽く突き出し、距離を測る。
右拳は顎の隣。肘を絞り、肩を落とす。
――構えた、というより、気づいたらこの形になっていた。
「お……拳闘かぁ。殴り合い上等ってわけだ」
団長の声は軽い。
肩の力が抜け、腕はだらりと下がっている。だが、膝の角度、足の開き、重心の位置。どれもが「いつでも動ける」状態だ。
笑みの奥に、獣のような光が宿っているのが分かる。
「感心しなくていいんだよ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
内心では心臓が耳元で鳴っているのに、喉を通る音だけは平坦だ。
じり、じりと距離をとる。
足を引くたび、床の微細な凹凸が足裏に伝わる。埃の匂いがわずかに舞い、鼻をかすめる。
静かだ。
観客のざわめきが消え、息を潜める気配だけが、圧となって背中に乗る。
視界が狭まっていく。
団長の肩、胸、腰、膝、足先。
動き出しそうな箇所が、すべて“見える”。
――集中している。
そう自覚した瞬間、世界の音量がさらに一段落ちた。
「退くなよ……来いよ……」
「アホか」
短く吐き捨てる。
視線は外さない。瞬きの回数すら減っているのが分かる。
「遊びじゃないぜぇ?」
「あ?」
団長の目が細まる。
刃物を思わせる視線が、俺の中心線をなぞる。胸骨から顎、額へと、値踏みするように。
「ほんの見極め……相互理解ってやつだよぉ!」
団長が踏み込んだ。
長い脚。その一歩が、深い。
床が鳴る前に、風圧が胸を叩いた。空気が押し潰される感覚。
ノーモーションの右ストレート。
肩も腰もほとんど動かない。予備動作がない。
狙いは真正面――正直、助かる。
だが速い。鋭い。正確。
拳が迫るにつれ、皮膚がひりつく。
視界の中で、拳の輪郭だけが異様なほど鮮明になる。
――見える。
思考が消え、次の瞬間に備えて、身体の奥が静かに軋んだ。
俺は奥足を引いて、迫る拳をギリギリで避ける。
完全にかわした、とは言えない。ほんの数センチ。皮膚を撫でるように、空振った拳が頬をかすめた。
汗と革の匂いが一気に鼻を刺す。拳に込められていた熱量が、遅れて頬に残る。
その一瞬。
凶器と化していた相手の身体が、ほんの刹那だけ無防備になる。
踏み込みすぎた重心。伸び切った右腕。肩がわずかに前へ流れる。
……見える。
音が遠のく。
歓声も、怒号も、観衆のざわめきも、一斉に水の底へ沈んだように薄くなる。
時間が、薄く引き延ばされる。
打ち戻しの直前。
コンマ一秒の、俺だけの時間。
相手の右腕に、左腕を被せる。
腰をひねらず、肩も大きく使わない。
肘を締め、体幹だけをわずかに回転させて――コンパクトな左フック。
「シュッ!」
空気を切る、短い音。
重くはない。だが、迷いが一切ない。
狙いは完璧だった。
拳の感触が、硬いものに吸い込まれる。
側頭部に拳が刺さった瞬間、団長の首がわずかにしなる。
重心が流れ、身体が横滑りするように倒れていく。
鈍い音。
床に伝わる振動が、足裏から膝、背骨を通って胸に響いた。
「ハハハハハッ! 驚いたぞ! 思ったよりずっとやれるな! それに……ずっと似ている!」
――笑っている。
ヒザをついたままたまま、歯を見せて。
愉快そうに。
意識を飛ばすには至らない。
だが、効いている。確実に。
似ている。
その言葉が耳に届いた瞬間だけ、団長の目が一瞬、俺から外れた。
視線が、ここではない“どこか”を掴む。
焦点の合わない視線。
過去をなぞるような、遠い色。
胸がざわつく。
知らないはずの記憶が、知らない場所で揺れた気がした。
俺じゃない誰か。俺の中に、いないはずの影。
「っと……座っている場合じゃねえなぁ……」
団長が、ゆっくりと上体を起こす。
片ヒザ状態で、掌で床を押す。
関節が鳴り、息が低く吐き出される。
その動き一つ一つが、やけに落ち着いている。
ダメージを測り、身体の状態を確認している――そんな余裕が、はっきり見える。
その間に、俺は必死で呼吸を整えた。
吸って、吐く。
空気を吸うたび、喉が焼ける。肺の奥が熱い。
観衆の視線が、皮膚の上を這う感覚がして、無意識に肩が強張る。
「立ってー団長!」
「ここからだ! 団長はここから!」
「なんで殴り合うのよ! 二人ともどうしたの!?」
ギャラリーの叫びが、容赦なく飛び込んでくる。
高い声、低い声、笑い声、悲鳴。
混ざり合って、耳を刺す。
視線が多すぎる。
期待と興奮と、無責任な好奇心。
この円の中心に立たされている感覚が、じわじわと集中を削っていく。
ざわめきが熱を帯びる。
暴れ出す前に、早く決着をつけたい。
理性のどこかが、そう警告している。
団長はトントンと、その場で跳んでリズムを作っている。
床を踏む軽い音。
足首、膝、腰。全身を一度ほぐし、再起動するような動き。
――余裕の証。
さて、どうす──
「ぐぶぉっ!」
視界の外から、鉄球のような一撃。
腹に叩き込まれたのは……拳? 肘?
判断する前に、衝撃が内臓を揺さぶった。
全神経が、痛みに集中する。
肺の空気が一気に吐き出され、思考が吹き飛ぶ。
胃の奥が持ち上がり、視界が一瞬白む。
「く……くくくっ!」
うざったい笑い声。
耳の奥で反響する。
このまま、うずくまって寝てしまいたい衝動が、頭をもたげる。
胃が裏返る。
冷や汗が背中を流れる。
だが――止まるな。
歯を食いしばり、大振りの回し蹴りを繰り出す。
腰を回し、遠心力に任せて距離を取るための一撃。
風を切る脚。
……捉えられなかった。
本当に、何も見えなかった。
影すら掴めない。
貰ってなお、何をされたか分からない。
それが、何より恐ろしい。
だが、分かったこともある。
俺が考えれば考えるほど、身体はキレを失う。
判断が遅れ、動きが重くなる。
思考が、鎖になる。
観衆の声、団長の言葉、意味を考える余裕――それ全部が、邪魔だ。
考えるな。
その逆だ。
無心の時だけ、この身体は本当の力を出す。
理由も理屈も、全部後回しにした瞬間だけ。
癪な話だが――
副長モドキになりきるしかない。
魂を、いったん手放せ!




