表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀色に輝く世界へ惜別を  作者: ゴールデン・ドア
第三章 反社会的勢力の巣
13/28

■3-6 見えるものと見えないもの

「……!」


 空気が裂けたように感じた。

 音より先に、圧が来る。皮膚の表面がわずかに逆立ち、鼓膜の奥がきしむ。視界が歪んだわけでもないのに、世界の解像度だけが一段引き上げられた感覚。


 一歩目から、速度が違う。

 床を蹴る音が遅れて聞こえるほどの踏み込み。踏み出した脚の筋肉が一瞬で収縮し、重心が前へと滑る。その動きが、影となって視界の端を伸びる。

 ――来る。

 判断よりも早く、身体がそう理解していた。


 圧だけが先に届く。

 速い。ただ速いだけじゃない。修練を積んだ身のこなしだ。

 筋肉のつき方、肩の落とし方、骨盤の向き。体重移動に無駄がなく、加速と制動が同時に成立している。

 一歩踏みこんだ軌道だけで、“危険さ”が伝わってくる。


 ……いや、おかしい。

 なんで俺がそれを見切れる?


 そう考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

 理解しているのに、理解の経路が分からない。

 知識として学んだ覚えはない。観戦した記憶もない。それなのに、身体のどこかが「これは危ない」と断定している。

 頭の奥で、警鐘が鳴る。

 ――違う。これは知識じゃない。

 もっと、原始的で、もっと身体寄りの何かだ。


「って考えてる場合か!」


 内側の声が叫ぶ。

 距離を詰められたら終わる。直感が、喉元までせり上がってくる。

 相手の体温、汗の匂い、金属めいた気配が、距離を詰めるごとに濃くなる。視界の中心に団長が固定され、周囲の観衆が背景へと溶けていく。


 ただ真っ直ぐ下がったら捕まる。

 それも、理由は説明できない。ただ“分かる”。


 俺は重心を沈めて横へ跳んだ。

 踵ではなく、母趾球で床を捉える。靴底が石床を擦り、乾いた音が短く弾いた。

 視界が一瞬ぶれるが、すぐに収束する。首を固めず、顎を引く。


 自然と、若干の前傾姿勢になる。

 顎を引き、相手を睨みあげる。

 呼吸が浅い。だが乱れてはいない。

 喉が乾く感覚だけが、やけに鮮明だ。


 左拳を軽く突き出し、距離を測る。

 右拳は顎の隣。肘を絞り、肩を落とす。

 ――構えた、というより、気づいたらこの形になっていた。


「お……拳闘かぁ。殴り合い上等ってわけだ」


 団長の声は軽い。

 肩の力が抜け、腕はだらりと下がっている。だが、膝の角度、足の開き、重心の位置。どれもが「いつでも動ける」状態だ。

 笑みの奥に、獣のような光が宿っているのが分かる。


「感心しなくていいんだよ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 内心では心臓が耳元で鳴っているのに、喉を通る音だけは平坦だ。


 じり、じりと距離をとる。

 足を引くたび、床の微細な凹凸が足裏に伝わる。埃の匂いがわずかに舞い、鼻をかすめる。

 静かだ。

 観客のざわめきが消え、息を潜める気配だけが、圧となって背中に乗る。


 視界が狭まっていく。

 団長の肩、胸、腰、膝、足先。

 動き出しそうな箇所が、すべて“見える”。

 ――集中している。

 そう自覚した瞬間、世界の音量がさらに一段落ちた。


「退くなよ……来いよ……」

「アホか」

 短く吐き捨てる。

 視線は外さない。瞬きの回数すら減っているのが分かる。


「遊びじゃないぜぇ?」

「あ?」

 団長の目が細まる。

 刃物を思わせる視線が、俺の中心線をなぞる。胸骨から顎、額へと、値踏みするように。


「ほんの見極め……相互理解ってやつだよぉ!」


 団長が踏み込んだ。

 長い脚。その一歩が、深い。

 床が鳴る前に、風圧が胸を叩いた。空気が押し潰される感覚。


 ノーモーションの右ストレート。

 肩も腰もほとんど動かない。予備動作がない。

 狙いは真正面――正直、助かる。

 だが速い。鋭い。正確。


 拳が迫るにつれ、皮膚がひりつく。

 視界の中で、拳の輪郭だけが異様なほど鮮明になる。

 ――見える。

 思考が消え、次の瞬間に備えて、身体の奥が静かに軋んだ。


 俺は奥足を引いて、迫る拳をギリギリで避ける。

 完全にかわした、とは言えない。ほんの数センチ。皮膚を撫でるように、空振った拳が頬をかすめた。

 汗と革の匂いが一気に鼻を刺す。拳に込められていた熱量が、遅れて頬に残る。


 その一瞬。

 凶器と化していた相手の身体が、ほんの刹那だけ無防備になる。

 踏み込みすぎた重心。伸び切った右腕。肩がわずかに前へ流れる。


 ……見える。

 音が遠のく。

 歓声も、怒号も、観衆のざわめきも、一斉に水の底へ沈んだように薄くなる。

 時間が、薄く引き延ばされる。


 打ち戻しの直前。

 コンマ一秒の、俺だけの時間。


 相手の右腕に、左腕を被せる。

 腰をひねらず、肩も大きく使わない。

 肘を締め、体幹だけをわずかに回転させて――コンパクトな左フック。


「シュッ!」


 空気を切る、短い音。

 重くはない。だが、迷いが一切ない。

 狙いは完璧だった。


 拳の感触が、硬いものに吸い込まれる。

 側頭部に拳が刺さった瞬間、団長の首がわずかにしなる。

 重心が流れ、身体が横滑りするように倒れていく。


 鈍い音。

 床に伝わる振動が、足裏から膝、背骨を通って胸に響いた。


「ハハハハハッ! 驚いたぞ! 思ったよりずっとやれるな! それに……ずっと似ている!」


 ――笑っている。

 ヒザをついたままたまま、歯を見せて。

 愉快そうに。


 意識を飛ばすには至らない。

 だが、効いている。確実に。


 似ている。

 その言葉が耳に届いた瞬間だけ、団長の目が一瞬、俺から外れた。

 視線が、ここではない“どこか”を掴む。


 焦点の合わない視線。

 過去をなぞるような、遠い色。


 胸がざわつく。

 知らないはずの記憶が、知らない場所で揺れた気がした。

 俺じゃない誰か。俺の中に、いないはずの影。


「っと……座っている場合じゃねえなぁ……」


 団長が、ゆっくりと上体を起こす。

 片ヒザ状態で、掌で床を押す。

 関節が鳴り、息が低く吐き出される。


 その動き一つ一つが、やけに落ち着いている。

 ダメージを測り、身体の状態を確認している――そんな余裕が、はっきり見える。


 その間に、俺は必死で呼吸を整えた。

 吸って、吐く。

 空気を吸うたび、喉が焼ける。肺の奥が熱い。

 観衆の視線が、皮膚の上を這う感覚がして、無意識に肩が強張る。


「立ってー団長!」

「ここからだ! 団長はここから!」

「なんで殴り合うのよ! 二人ともどうしたの!?」


 ギャラリーの叫びが、容赦なく飛び込んでくる。

 高い声、低い声、笑い声、悲鳴。

 混ざり合って、耳を刺す。


 視線が多すぎる。

 期待と興奮と、無責任な好奇心。

 この円の中心に立たされている感覚が、じわじわと集中を削っていく。


 ざわめきが熱を帯びる。

 暴れ出す前に、早く決着をつけたい。

 理性のどこかが、そう警告している。


 団長はトントンと、その場で跳んでリズムを作っている。

 床を踏む軽い音。

 足首、膝、腰。全身を一度ほぐし、再起動するような動き。

 ――余裕の証。


 さて、どうす──


「ぐぶぉっ!」


 視界の外から、鉄球のような一撃。

 腹に叩き込まれたのは……拳? 肘?

 判断する前に、衝撃が内臓を揺さぶった。


 全神経が、痛みに集中する。

 肺の空気が一気に吐き出され、思考が吹き飛ぶ。

 胃の奥が持ち上がり、視界が一瞬白む。


「く……くくくっ!」


 うざったい笑い声。

 耳の奥で反響する。

 このまま、うずくまって寝てしまいたい衝動が、頭をもたげる。


 胃が裏返る。

 冷や汗が背中を流れる。

 だが――止まるな。


 歯を食いしばり、大振りの回し蹴りを繰り出す。

 腰を回し、遠心力に任せて距離を取るための一撃。

 風を切る脚。


 ……捉えられなかった。

 本当に、何も見えなかった。

 影すら掴めない。


 貰ってなお、何をされたか分からない。

 それが、何より恐ろしい。


 だが、分かったこともある。

 俺が考えれば考えるほど、身体はキレを失う。

 判断が遅れ、動きが重くなる。


 思考が、鎖になる。

 観衆の声、団長の言葉、意味を考える余裕――それ全部が、邪魔だ。


 考えるな。

 その逆だ。


 無心の時だけ、この身体は本当の力を出す。

 理由も理屈も、全部後回しにした瞬間だけ。


 癪な話だが――

 副長モドキになりきるしかない。


 魂を、いったん手放せ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ