■3-5 カラスの巣の中心で
団長は立ち上がった。
椅子が軋む音ひとつ立てず、ふらつくでもなく、ゆらぐでもなく――まるで最初からその場に立っていたかのような自然さで、すっと重心を前に移す。
その動きには、余計な力みが一切なかった。酒宴の最中だというのに、酔いの気配すら感じさせない。腰から背骨、首筋にかけての線が一直線に伸び、視線はすでに進む先を捉えている。
――ああ、と俺は内心で息を詰める。
この男は、意識して場を支配しているわけじゃない。ただ“在る”だけで、周囲が勝手に整列してしまうタイプの人間だ。
俺は言葉を挟む間も見つけられないまま、ただその背中を追う。
広い背中。鎧も羽織もないのに、なぜか視界の中心から外れない存在感。
止めるべきだ、話を聞くべきだ、せめて理由を――そんな思考が頭の中を渦巻くのに、喉の奥が固まって声にならない。
(……なんだ、この感覚)
恐怖とも違う。信頼とも違う。もっと厄介で、抗いづらい何かだ。
結果、俺は黙ってついていくしかなかった。
団長がガラス扉を押して外へ出た瞬間、世界がひっくり返った。
――爆音。
地下フロアを満たしていた音の塊が、一気になだれ込んでくる。
重低音が腹の底を殴り、床を通して膝の裏まで震えが伝わった。団員の何人かが思わず足を踏み直し、杯を持った手が揺れて酒を零す。
魔導石による照明が過剰なまでに明滅し、赤や紫、白の光が視界を刺すように踊る。一瞬、目の焦点が合わなくなるほどの眩さ。
鼻を突くのは、濃い酒の匂いだ。
甘く、酸っぱく、喉の奥に貼りつくようなアルコールの蒸気。そこに混じる汗の匂い、鉄の気配、湿った石床の冷たい臭い。
無数の喉から吐き出される歓声と罵声が渦を巻き、耳の内側を直接掻き回してくる。
――耳が痛いほどの、夜の熱狂。
理性が削られ、感覚だけが剥き出しになる場所。
ここでは、声の大きさと拳の強さが、そのまま正義になる。
正直、嫌いな場所だぜ。
そう思う一方で、団長がこの空間をどう扱うのか、目を離せない自分がいる。
だが、そのすべてを――
団長は、たった手のひらひとつで制してみせた。
「――ちょっといいかぁ」
低く、間延びした調子。
しかし、不思議とよく通る声だった。怒鳴っているわけでも、威圧しているわけでもない。それなのに、その一言が空気の芯を正確に貫いた。
近くで怒鳴り合っていた団員が、言葉の途中で口を閉じる。踊っていた女が、足を止める。取っ組み合いの輪が、じわりと歪む。
そう言った瞬間、地下全体を巡っていた魔導石のエネルギーが、ぎしりと軋む。
まるで見えない何かに掴まれ、握り潰されるかのように、光が鈍った。
……え?
俺は思わず息を呑む。制御石はどこだ? 術式は? 魔導詠唱は?
――何もない。団長は、ただ立っているだけだ。
そして――光が、一斉に消えた。
音も、光も、動きも。
瞬きひとつの間に、派手だった世界が真空に落ちる。
鼓膜に残っていた轟音が嘘のように引き、代わりに自分の心臓の音がやけに大きく響いた。
暗闇の中で、誰かが喉を鳴らす音が聞こえた気がする。
残ったのは、中央区画の隅で不細工に取っ組み合っていた二人だけを照らす、取り残されたような薄明かり。
魔導石の余熱なのか、弱々しい白が彼らの拳と歯を照らしている。汗に濡れた皮膚が鈍く光り、荒い息だけが白く浮いた。
誰も、何が起こったのか理解できない。
殴り合っていた二人でさえ、拳を振り上げたまま、彫像のように静止していた。
周囲の団員たちは息を殺し、無意識に団長との距離を測っている。
――この場で、一番強いのが誰なのか。
理屈ではなく、本能で理解させられた瞬間だった。
荒い息遣いも、床を蹴る音も消え、
ただ沈黙だけが、底なしの井戸へ沈んでいく。
そこへ、団長の声が――すっと、刃物のように通った。
ざわめきに濁っていた空気を、一直線に切り裂く声。決して大きくはないのに、耳の奥に直接差し込まれるような鋭さがあった。
「悪いなぁ。今日の勝負は痛み分けってことで頼むぜぇ。これから俺がやりあう」
その言葉が意味を結ぶより先に、周囲の空気が限界まで張り詰める。
――次の瞬間。
溜め込まれていた空気が、爆発した。
「うおおおおおっ!」
沈黙していた連中のボルテージが一気に跳ね上がる。
まるで火薬庫に火花が落ちたみたいに、怒号と歓声が同時に噴き出し、地下の天井を揺らした。誰かが床を踏み鳴らし、誰かが拳を突き上げ、誰かが杯を放り投げる。
「団長マジかよ!」
「やっとか!」
「ぶち上げろーーッ!」
叫びは叫びを呼び、熱は熱を増幅させる。
酒と暴力と期待が混ざり合った、むせ返るような興奮。
足音が幾重にも重なり、団員たちがざわざわと中央へ集まりはじめる。
靴底が石床を擦る音、金属が触れ合う音、荒い笑い声。肩がぶつかり、背中を押され、無遠慮な手が視界を遮る。
円ができ、視線が集中し、期待と興奮が渦を巻く。
そのど真ん中へ――俺は、連れ出されるように歩かされた。
……静寂。
ほんの数秒。
さっきまでの騒音が嘘のように引き、代わりに生温い空気が肌に張り付いたように止まる。
汗の匂いと酒の残り香が、やけに濃く鼻に残った。
視線が集中する感覚だけが、針のように突き刺さる。
まるで図ったかのように、頭上で魔導石がひとつ、
パチン、と弾ける音を立てて点灯した。
白い光が、容赦なく俺の顔を照らす。
逃げ場のない照明。晒し上げるための光。
その瞬間――
「……っ!?」
「副長!?」
「副長じゃねぇか!」
「なんで団長と!?」
「まさか……決闘!?」
怒号とも歓声ともつかないどよめきが、一斉に走る。
驚きと困惑と、そして何より“面白がる熱”がない交ぜになり、視線が突き刺さるように集まった。
副長“モドキ”であって、本物じゃないんだが……
そんな言い訳が通じる雰囲気じゃない。
団長は、露骨に耳障りそうな顔をしかめる。
「うるせぇなぁ……」
たった、それだけ。
だが、その一言で、また空気が凍りついた。
さっきまで騒いでいた連中が、一斉に喉を詰まらせたみたいに黙る。
団長は顎をしゃくる。その仕草ひとつで、場の主導権が完全に握られたことが分かる。
……本当に、言葉ひとつで世界を止める男なんだな、コイツは。
「なんにも聞こえなくなる前に始めようぜ、副長モドキ」
軽口みたいな調子。
だが、その奥に含まれた“逃がさない”という確信が、背筋を冷やした。
俺は短く息を吐き、拳を握りしめた。
指先に力が集まる感触が、やけに現実味を帯びている。
皮膚の下で血が脈打ち、骨が軋むような錯覚。
……落ち着け。これは喧嘩だ。殺し合いじゃない。
そう言い聞かせるほど、鼓動は速くなる。
「構わない。……やるか」
声は思ったよりも落ち着いていた。
自分でも驚くくらいだ。
互いに左拳を突き出し、コツン、とぶつける。
その乾いた音が、地下全体の空気を震わせたように錯覚した。
観衆が一斉に息を吸い込むのが、分かる。
胸の奥がざわつく。
心臓が早鐘を打ち、頭の奥が妙に冴えている。
おかしい……。
この男は強いよ。
中央ギルドで見かける猛者とは次元が違う。
俺が勝てるような相手じゃあない。
それでも、俺の身体は迷いなく前へ出る構えを取っていた。
……おかしいな。
緊張で、頭のどこかが壊れちまったのか?
それとも――この場所、この熱、この視線が、俺を別の何かに作り替えようとしているのか。
それでも。
気づいたら前に出ていたこの拳に――
今は、頼るほかない。




