■3-4 狂人との会話
案内された先は、ガラスの壁で切り分けられた別世界だった。
透明でありながら、向こう側を拒絶するような厚みを持った壁が、空間を無慈悲に分断している。ほんの数十歩前まで、鼓膜を殴るような爆音と、汗と酒と鉄の匂いが入り混じった熱気のフロアにいたはずなのに、その扉をくぐった瞬間、世界は唐突に切り替わった。
音が、落ちる。
いや、落ちるというより――吸い取られる。
分厚いガラスが外界の喧騒を完全に遮断し、残されたのは、低く抑え込まれた振動だけだ。それも直接耳に届くことはなく、床を伝って、かすかに足裏をくすぐる程度。耳が拍子抜けするほどの静寂の中で、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いている気がした。
――さっきまでのあの狂気は、夢だったのか?
空気はひんやりとしている。吸い込むたびに、肺の奥が冷やされ、頭の中の靄が一枚ずつ剥がれていく感覚があった。地下特有の湿気はなく、むしろ不自然なほど乾いている。
漂っているのは、磨き上げられた木材の匂いと、革製家具の落ち着いた香り。それに、完全には消しきれなかった甘ったるい煙草の残り香が、薄く混ざっている。
目に入る調度品の一つ一つが、場違いなほど高級だ。
重厚なソファは使い込まれていながらもへたりがなく、ガラス張りのテーブルは傷一つない。薄暗い照明に照らされて、縁が瑠璃色に淡く光っている。壁際には酒瓶が整然と並び、ラベルの金箔が、呼吸するみたいにほのかに瞬いていた。
――ここ、本当に同じ地下か?
――一あのフロアと、同じ建物だって言われて信じられるか?
上で飛び交っていたのは、粗悪な魔導石と安酒と、拳と怒号だ。小銭と暴力の匂いが支配する場所だった。
それに対して、この部屋はどうだ。金と権力と、静かな計算の匂いしかしない。あまりにも釣り合わない。むしろ、意図的に隔離されていると考えた方がしっくりくる。
部屋の中心。
まるで舞台の主役が用意されたスポットライトの下に座るように、長身の男が足を投げ出していた。玉座に座る王のように、ソファへぐでっと腰を沈めている。姿勢だけ見れば、だらしないにもほどがある。だが――
空間を支配しているのは、間違いなくこの男だった。
視線を向けた瞬間、空気の流れが、無意識のうちに彼を中心に回っているのが分かる。声を出さずとも、身動き一つしなくとも、「ここが中心だ」と理解させられる圧がある。
――ああ、なるほど。
――こいつが“団長”か。
「団長、ついにです!ついに副長が帰還しました!」
巨漢が、興奮を隠しきれない声で報告する。
その声は、この部屋では奇妙なほど浮いていた。反響することもなく、壁に跳ね返ることもなく、ただ空気に吸い込まれて消えていく。音が存在を主張できない――それ自体が、この部屋の異様さを際立たせている。
「もしかしたら自分には出過ぎた真似だったのかもしれません。問題があれば制裁は受ける覚悟であります!」
野太い声でそこまで一気に喋りきる。
……いや、覚悟決まりすぎだろ。話が飛躍しすぎだ。
巨漢は一拍置いて、「後は」と短く付け加えると、俺に深々と頭を下げた。その動きは、先ほどまでの暴走が嘘みたいにきっちりしている。
そして勢いよく踵を返し、部屋を出ていった。
最後まで、勘違いしたままだった。
重厚な扉が閉じる。
ごくりと、空気が音を立てた気がした。
ぴたり、と凪ぐ。完全な静寂。さっきまで確かに存在していた人の気配が、嘘みたいに消えている。
――おいおい。
――この沈黙、胃に悪いな。
俺は無意識に背筋を伸ばし、喉を鳴らした。
ガラス越しに、遠くの狂騒が視界の端で揺れている。音は聞こえないのに、そこに“地獄”があることだけは、はっきり分かる。
この部屋は、安全な場所じゃない。
むしろ――静かすぎて、何が起きてもおかしくない場所だ。
俺は、自分がどこに足を踏み入れてしまったのかを、ようやく実感し始めていた。
「あー……取り残された。参ったね」
思わず漏れた独り言が、やけに大きく響く。どうしろと言うのだ、この状況で。団長と呼ばれた男は、うつむいたまま、首だけをこちらへ向けた。長い髪が顔に影を落とし、表情は読み取れない。
「なんだ、意識はあるんだな。酔ってんのか?」
近づいて覗き込むと、団長の視線が俺の顔をとらえた。
――とらえた、はずだった。
だが、その焦点は微妙にずれている。こちらを見ているようで、実際には俺の背後か、あるいはもっと内側――現実とは別の何かを眺めている目だ。瞳孔は開ききり、奥が妙に濁っている。光を反射しているのに、そこに意思の輪郭がない。
「え? 酔ってるよ? 今だけじゃあねぇ、俺はいつでも酔っぱらっているよ? くくくっ」
喉の奥で鳴らすような笑い声。
その瞬間、アルコールと甘ったるい煙草の匂いが一気に鼻腔を刺した。量も質も、明らかに常軌を逸している。呼吸をするだけで、頭が軽くなる錯覚すら覚える。
――こいつ、どれだけ突っ込んでるんだ。
「あん? 何言ってんだお前」
言葉を選ぶ余裕が消え、素の声音が出る。
団長は、俺の反応を面白がるように首を傾げた。関節が外れたみたいに、妙に柔らかく、だらしない動きだ。
「えー……副長こそ何言ってんだよ。夢遊病か?」
副長。
まただ。この男も俺を副長だと思っている。
いや、思っているというより――そうでなければ辻褄が合わない世界を、勝手に組み上げているだけだ。
「夢見てんのはお前の方だ。目を覚ませよ、話はそれからだ」
俺はためらいなく手を伸ばし、団長の頬をぺちぺちと叩いた。軽い音のわりに、感触は妙に生々しい。
団長は一瞬きょとんとしたあと、下品に笑いながら身をよじる。革張りのソファがぎしりと軋み、その音がやけに大きく、はっきり耳に残った。
「あはは! やめろよー……はっ」
笑い声が、唐突に止まった。
団長と目が合う。
その一瞬、空気が張り詰めた。
酔っぱらいの緩んだ膜が、一枚剥がれ落ちたような感覚。瞳の奥に、鋭い何かがきらりと灯る。
「あ、違うな。副長じゃないのか」
――遅いよ。
その一言で、確信が胸の奥にすとんと落ちた。
こいつ、絶対に薬をやっている。
理屈じゃない。経験でもない。ただ、生き物としての本能が、そう告げている。アルコールだけでは説明がつかない。意識の跳躍の仕方が、人間のそれじゃない。
「大丈夫か、お前。どーいう惨状なのこれ? 酒か薬か両方か? 人格変わっちまうぞ」
「べつに飲まなくたって人格変わる人はいるけどねぇ、副長モドキ」
副長モドキ。
言い間違いでも冗談でもない。わざとだ。
正確に急所を外しながら、こちらの神経だけを逆撫でする呼び方。耳障りが、最悪に悪い。
「うるせぇよ」
反射的に吐き捨てる。
死んだんだよ、副長さんは。……たぶんな。
喉まで出かかった言葉を、力づくで飲み込む。今ここで言っても、混乱が深まるだけだ。
団長は、こちらの内心など気にも留めず、ゆるゆると体を起こした。長すぎる脚を組み替える。動作は酒に溺れた人間のそれなのに、不思議と無駄がない。バランスを崩さない位置を、身体が正確に知っている。
「それにしてもいきなりだな。一年ぶり? そのくらいは経ったよな?」
指に挟んだ煙草から、甘ったるい香りが立ちのぼる。紫がかった煙が、照明に溶けるように広がり、天井へ消えていった。
一年?
まだ副長とやらに話しかけてんのか。
「改めましてこんばんはー。闇夜の烏の団長でーす。なーんて」
自分で言って、自分で笑う。
だめだ。こいつは壊れている。
壊れているが――壊れたまま立っている。それが一番厄介だ。底が見えない。どこまでが演技で、どこからが本音なのか、判別がつかない。
「……頼み事があるんだよ」
埒があかない。俺は本題を切り出した。
この狂気に付き合っていたら、時間だけが溶けていく。
「えー? なにー? くくくっ」
団長は片肘をつき、だらしなく笑う。その笑い声の裏に、粘つくような別の感情が張り付いているのを、俺は感じ取っていた。
「お前の部下がアゾットナイフを盗んだだろ。返してもらうぜ」
「あー、あれね。紫色のやつ」
背中が、じわりと冷えた。
ディアナのナイフは紫色の魔導石製だ。この男が、それを即座に思い出すという事実が、嫌な重みを伴って胸に落ちる。
「……知ってたのか」
「多いんだよねぇ、俺に貢物持ってくるやつ。別に要らねえのに。要るものなら自分で獲ってくるっての」
笑いながら、煙を吐く。
その目は、獲物を語る肉食獣のそれだ。
「……要らないものでも、昨日の分なら覚えているぜぇ」
なら話は早い。
「返してもらおうか。俺は代理人だ」
「ふーん。副長ってほんと、馬鹿だよなあ」
「は?」
会話が噛み合わない。
いや、噛み合わせる気がない。
「俺の周りなんてうろついても何も得はないのに。さっさと農村に帰りゃよかったのにさ」
農村。
副長の出自か? それとも俺への当てつけか。
どちらにせよ、意味ありげに投げるだけ投げて、説明する気はない。
「知らねぇよそんなこと。……で、お前は何が言いてぇんだ」
団長は、不思議そうに俺を見た。
その視線は、人を見るというより、中身を透かして眺めているようだった。
「もっと周りに気を付けた方がいいんじゃない?」
「俺が? なんで――」
「あはは!」
俺の言葉を完全に無視して、団長は高らかに笑った。
煙草を灰皿にもみ消す。じゅっと短く焦げる音と、鼻を刺す匂い。
「なんか飲む?」
急に真顔。
だが、発言は相変わらず意味不明だ。
「飲まねぇよ。ナイフの話はまだ終わってない」
「ちぇっ。じゃあ……やるか」
その一言が、妙に引っかかった。
団長は席を立ち、なぜか俺から逃げるように、ヨロヨロとガラスの壁へと歩き出す。足取りは覚束ないが、倒れる気配は一切ない。
――やる?
――何をだ。
胸の奥に、不快なざわつきが広がる。
この男は、会話の主導権を常に半歩ずらした位置で握っている。
俺は、それに苛立ちながらも――目を離せずにいた。
「……なってねえなぁ」
俺は仕方なく後を追う。ガラス越しに見えるのは、地下フロアの中央ゾーンだった。男二人が取っ組み合いの喧嘩をしている。汗と怒号、野次が渦を巻く。ここには声は届かないが、口の動きや身振りから、煽り立てる熱狂がはっきりと伝わってくる。
「どうだい、あの酷さは。気持ちのぶつかり合いでしか生まれないものも、確かにある。だが、あそこまで質が落ちていたら駄目だ。何も生まれはしねぇ」
「何言ってやがる、おま――」
冷たい。
俺の首筋に、刃物が当てられていた。
団長の手に、いつの間にか紫のナイフ。魔導石特有の、淡い光がガラスに反射している。
「俺と勝負しようぜぇ。勝ったらコイツはお前の物だ。負けたらうちの副長になってもらおうか」
顔から、酔いも笑いも消えている。そこにいたのは、アル中の堕落者でも、薬物依存症の狂人でもない。闇夜の烏の団長だった。
背筋が冷える。理由は分からない。団長の眼差しに、一瞬だけ、見覚えを感じた。




