■3-3 入場の攻防
確信があった。ディアナに反応した魔導石製のナイフ。あれは、この地下にある。
理屈や理由は後付けでいい。因果関係なんてものは、あとからいくらでも整えられる。今この瞬間に必要なのは、感覚に従うことと、仕事を終わらせる覚悟だけだ。俺は軽く気持ちを切り替え、地下への入り口を潜っていった。
背中側でまだ生きている地上の喧騒は、階段を三段ほど降りたところで急激に薄れていく。人の声も、遠くの笑いも、街灯のざわめきも、まるで蓋をされたみたいに遮断された。代わりに押し寄せてくるのは、夜風の残り香すら届かない、ねっとりと肌に絡みつく湿気だった。古い石と土が混じったような、生き物の気配を感じさせない匂いが鼻孔にまとわりつく。
階段はおそろしく急で、踏みしめるたびに靴底の摩擦音がやけに大きく響く。音は壁に跳ね返り、増幅され、自分の存在をやたらと主張してくる。
それにしても狭い。横幅は片手すら満足に伸ばせないほどで、無意識に肩をすぼめて進むことになる。肩が壁に擦れるたび、ザラリと石の粉が舞い、衣服にまとわりついた。自然洞窟を模したつもりなのかもしれないが、どう見てもただの手入れ不足だ。演出というには雑で、放置というには意図が透けて見える。
「……やれやれ、また怪しさ満点だな」
独り言は湿った空気に吸われ、喉の奥で溶けるように消えた。階段をぐねりと折れた踊り場で一度立ち止まり、肺に溜まった湿気を軽く咳払いで追い出す。
踊り場の先には、さらに数段だけ下る短い階段があった。その下、薄闇の奥で“それ”が静かに待ち構えていた。重たげな黒い扉だ。まるで地下室全体の質量を一手に支えているかのような存在感で、そこだけ空気の密度が違う。近づくほど、圧が増す。
扉のすぐ隣では、小さな丸テーブルに片肘をつくような姿勢で、黒い着流しを纏った男が突っ立っていた。
――いや、「立っている」というより、「そこに配置されている」と言ったほうが正しい。
背中は壁からほんの数センチ浮かせ、逃げ道を塞ぐように立つ位置取り。体重は右脚に預け、左の雪駄の踵をわずかに浮かせて、いつでも動ける余白を残している。指先は帯の上にだらしなく乗せられているが、力は抜けていない。人を止める役を何度もやってきた人間の、それだ。
黒い着流しに黒い帯、黒い雪駄。
生地の違いで辛うじて判別できるだけの黒、黒、黒。
黒以外の選択肢を、人生のどこかでまとめて捨ててきたかのような徹底ぶりだ。たぶんこいつ、靴下の色を選ぶときですら「無難だから」じゃなく「当然だから」で黒を取るタイプだろ。
「…………」
黒着流しの兄さんは、どうやら遠慮という概念を持ち合わせていないらしい。
視線が、ゆっくりと俺の額から顎先まで滑り落ち、今度は靴先から膝、腰へと這い上がってくる。値踏みと挑発を混ぜ込んだ、あまりにも露骨な視線だ。
――なんだこいつ。
――入れる気がないなら、さっさと言えよ。
一秒、二秒。
無言の時間が伸びるたび、神経の表面を紙やすりで削られていくような感覚があった。ここで引いたら、完全に負けだ。意味もなく睨み合う時間が、俺の苛立ちだけを育てていく。
さすがに耐えきれず、俺のほうが先に口を開いた。
「すみません。あの、入りたいんすけど。いくら?」
閉ざされた扉の方向を顎で指しつつ、尻ポケットから財布を半分抜きかけた、その瞬間──
黒着流しは、ほんのわずかに顎を引き、鼻で笑った。
「悪いね。今日はちょっと……」
語尾を濁しながら、肩をすくめる。だがその動きは芝居がかっていて、実際には一切申し訳なさがない。
言葉に説明が足りないのは、まず間違いなく故意だ。
「察しろ」「引き返せ」「それ以上踏み込むな」。全部を無言で押しつけるための、あえての不足。
うっかり健全なお客様が入り込むのを防ぐため、当店では入場時に挑発行為を実施しております──そんな歪んだポリシーすら感じてしまう。
――腹立つ。
――だが、ここで引くのはもっと腹立つ。
俺は怯まず、淡々と尋ねた。
「ちょっとって……なに?」
「会員様御限定」
黒着流しは、今度は即答だった。
「会員じゃないと入れないってこと?」
「正解」
ああもう、殴りたい。いや、殴ったら完全に俺が悪者だ。
俺は後頭部をがしがし掻いた。髪が乱れるのも構わない。ここで体裁を気にする意味はない。
「え、じゃあ入会費っていくら?」
「は? いやいやいや、金は取ってないよ」
黒着流しは、初めて少しだけ声量を上げた。呆れたように首を振り、帯の位置を指で直す。
「そーいうことじゃなくてさ。うちの団体の人間じゃないとダメなのよ」
団体、ね。
言葉にした途端、急に胡散臭さが倍増する。
黒着流しは、俺をしつこいシミでも見るような眼差しを向けてきた。眉がわずかに吊り上がり、口元が歪む。
「っていうか、そろそろ飽きたよって感じだからさあ……」
語尾を伸ばし、軽く手を振る。完全に「ここまで」の仕草だ。
――くそ。完全に門前払いじゃねえか。
しかし俺は食いさがった。
「分かった、一分で済むから。本当に。悪いけど一分だけ入れてくんない」
自分でも分かる。相当みっともない。
だが、それでもここまで来て引き下がるのは、苛立ちの行き場がない。
「無理」
あまりにも温かい声色で、あまりにも冷たい単語を吐く。
そのギャップが、さらに腹を立てさせる。反射的に深いため息が漏れた。
「そんじゃさ、中にいる人間を呼び出してほし──」
「無理」
眉ひとつ動かさず即答。
目が死んでいる。いや、違う。最初から何も映していないだけだ。完全にシャッターが降りていた。
「うそ。どうしても駄目なの?」
「あのさあ……無理だっつってんじゃん」
黒着流しは、ここで初めて一歩踏み出した。距離を詰める、威圧の動作。
「お兄さん、そろそろ潮時でしょ?」
ああ、これはアレだ。
この先は理屈じゃない。裏路地でボコられる、の世界観に移行する合図の声色だ。
――くそ。
――完全に負けだが、これ以上やったら洒落にならん。
俺は両手を上げる形で降参した。
「はぁー。んっだよ、まったくもぉ」
可愛らしい捨て台詞を残し、急角度の階段を四つん這い気味で上がる。背中に突き刺さる視線が消えるまで、やけに長く感じた。
地上へ戻ると、夜空がやけに広く感じられた。
さっきまでの閉塞感が嘘みたいだ。
「まあ、これは仕方ないかぁ」
両腕を伸ばし、でっかいあくびをする。
――仕方ない。仕方ない、が……やっぱムカつく。
さて、このあとどうするか。
仕事探しに戻る……いや、正直戻りたくはないが、選択肢もない。苛立ちだけを連れて、俺は夜の通りへ歩き出した。
地下の入り口を背にした、その瞬間だった。
背後の階段から、どん、どん、どんと、空気そのものを踏み潰すような足音が響く。石段が悲鳴を上げ、低い振動が靴底から脛骨へ伝わってくる。それに重なる、場違いなほど陽気な鼻歌。音程は外れ、テンポは妙に軽い。
――嫌な予感しかしねえ。
振り返るより先に、視界の端に影が流れ込んだ。
いかついスキンヘッド。でっぷりした巨体。首と肩と胴の境目が曖昧で、まるで肉の塊がそのまま人の形を取ったみたいだ。季節外れの真っ黒い甚平は、動くたびに布が悲鳴を上げ、腹のあたりで限界まで引き伸ばされている。そして――破壊力抜群の笑顔。歯茎が見えるほどの満面。
見覚えがないような……うん、ない。
俺の人生のどのフォルダを漁っても、こいつのデータは存在しない。
「お?」
目が合った瞬間、そのハゲ面が雷に打たれたように引きつった。
笑顔が固まり、次の瞬間、感情が一気に反転する。
「ああああぁあ! ふ、ふくちょうぅう!?」
絶叫。
声量がでかすぎて、地下通路の壁が反響を返す。
巨体は急ブレーキをかけたみたいに止まり、両足を揃えて直立不動。完全にフリーズだ。
――は?
――副長? 誰が?
「……え、誰?」
正直な疑問を投げると、巨漢は我に返ったようにばたばたと手を振った。
「あ、いえいえ失礼しました! ほら、これを!」
黒い甚平の胸元をぐいっと引っ張る。布が軋み、縫い目が悲鳴を上げる。その奥から、なにやら紋章らしき刺繍が現れた。烏の羽を模した意匠に、歪んだ月。
「あー、ここにいる連中ね。みんな揃って……」
俺の曖昧な相槌を待たず、巨漢は一歩踏み出し、胸を張る。
「はい! このマルセラで闇夜の烏、団長補佐をやってるもんです! 副長は覚えていないと思いますが、いつも貴方様の雄姿は見ておりました!」
息継ぎなし。
勢いだけで殴りかかってくる自己紹介。
え、闇夜の烏?
団長補佐?
副長?
誰が? 俺が?
思考が渋滞している間にも、そいつは勝手にテンションを上げていく。
「いや、ホント、夢みたいですわ! 副長がウチに戻ってくるだなんて! 明日から一年雨でも構わないくらいです!」
いや、戻らねーよ。
心の中で即答する。
「わけわかんねーな。だいたい俺は入れねーみたいだし。黒い服着てまた来るよ」
適当に軽口を叩き、話を切るつもりで背を向けた、その瞬間だった。
俺の腕に、鉄みたいな指が絡みつく。
「……下で止められたのですか?」
声が低い。
さっきまでの浮かれた調子は消え、体温が一気に下がったみたいだ。
「まぁ、そうだけど……」
「一緒に来てください」
選択肢はなかった。
巨漢は俺の返事を待たず、踵を返す。そのまま階段を疾走した。
どん、どん、どん――
一段一段が爆撃みたいな音を立てる。俺の腕は引きずられ、視界が上下に揺さぶられる。
――ちょ、待て、速ぇよ! 体格差考えろ!
地下へ、地下へ。
さっきまで俺を追い返した世界へ、強制送還だ。
そして――たった今、俺を追い返した黒着流しの兄さんが、そこにいた。
「おい……おまえ殺されんぞ」
「え? なにが?」
巨漢は答えず、さっきとは比べものにならない迫力で、黒着流しの襟首をつかんだ。
布が持ち上がり、つま先が床から浮く。
「この人はな、団長の右腕なんだよ!」
音が消えた。
黒着流しの顔から血の気が引き、一瞬で燃え尽きた灰みたいに白くなる。
次の瞬間、重力に従うように土下座。勢い余って、額が石床にカチンと乾いた音を立てた。
「す、すみません! 失礼いたしました!」
――いや、なんでこうなるんだ。
俺、何もしてないよな?
「いいよ立てって。やめてって。おい、コレやめさせろ!」
必死に声を張り上げる。
その声が、ようやく巨漢の熱狂を貫いた。
「しゃあねえな……このことは団長には黙っていてやる」
巨漢はそう言いながら、黒い扉に肩をぶつける。
ごんという鈍音とともに、扉が軋み、闇が裂けた。
異臭を含んだ熱気が、爆発したように吹きつけてくる。
酒、汗、焦げた油、金属臭。
内臓を震わせるほどの低音。脳を直接殴るようなハイテンポのビート。
緑色に光る魔導石がそこかしこで輝き、歪んだ魔力を吐き出している。音が、光が、匂いが、秩序なくぶつかり合っていた。
地下ホールは、完全に狂っている。
巨漢が何か叫んだが、聞こえるはずがない。
俺はとりあえずうなずき、奴の背中を追った。
左右にずらりと並ぶ粗悪な魔導石。
黒い服をまとった若者たちが、季節も無視した薄着で乱舞している。酒を振り回し、肩をぶつけ、笑い、叫ぶ。汗とアルコールが空気を重くし、呼吸するだけで肺が焼けるようだ。
照明代わりの青い魔導石が断続的に明滅し、影が不規則に揺れる。人の影か、狂気の残像か、その境目すら曖昧になる。
――ああ、なるほど。
――ここは、普通じゃない。
ここは、闇夜の烏の巣だ。
その中心へ向かって、俺は抗いようもなく吸い込まれていった。




