第93話 将監は、裏切りを決意して踊らされる
天文24年(1555年)9月中旬 三河国寺部城 酒井忠尚
吉良様が今川勢との決戦に臨まれるということで、この寺部城にお見えになられた。率いられている兵は200弱と多くはなかったが、城内の士気は上がった。何しろ吉良家は、守護ではないが、足利将軍家の御一門として今川家に対抗できる名門だからだ。
「方々、今川何するものぞ!!」
「そうよ!我ら三河の衆の力を今こそ思い知らせようぞ!!」
「三河は三河の物!よそ者を追い出せ!!」
ゆえに、こうした声は自然と耳に入る。しかし、現実にはどうだろう。目下の敵は6千を超えていて、さらに11月には駿府より義元公自らが1万余の兵を率いてくるという。
そして、ここには3千の兵が集まっているが……3千しか集まらなかったというべきか。要するにその時点で、勝ち目はないと儂は思う。共に立つと言っていた連中の多くがここに姿を見せていないし……。
「……というわけで、弥八郎。儂はさっさと降参しようと思うが如何に?」
弥八郎は、儂の配下では1番の知恵者だ。この寺部城に反乱軍の力を結集して、駿府から援軍が来る前に決戦をと、策も考えてくれたし……だから、この期に及んでも頼りにする。
「そうですな……」
すると、弥八郎はそんな儂に怒りを見せず、また止めようともせずに、新たなる道を示してくれた。降参するために何を手土産にすればよいのかを。それは、戦場での寝返りだった……。
「具体的には何をすればよい?」
「明日の軍議で、早急なる岡崎侵攻を進言くださいませ」
「侵攻?兵力の面で劣るというのにか?」
常識的に考えて、兵力の面で半分しかいない我らが野戦に挑むのは無謀というより他はない。それゆえに、提案しても反対されるのではないかと弥八郎に言うが……「じゃあ、この城に籠っていれば、勝ち目はあるのですか?」と言い返されてしまった。
「いいですか。11月になれば、今川義元公が1万余の兵を率いてくるのですぞ。今より一層勝ち目が無くなると思いませぬか?」
「むむ……確かにその通りだな」
「吉良様が入城された事により、城内の士気は高まっております。その点を主張なされば、最終的に認められるかと存じます」
そして、先陣などは鈴木や奥平らに譲って、我ら酒井勢は後方に待機し……頃合いを見計らって裏切り、そやつらの首を手土産に今川勢に降参するというのが弥八郎の策だった。
「上手くいくかの?」
「上手くいかなければ、殿はお仕舞いにございます」
「冷たいのう……」
ただ、言っている事は間違っていない。裏切りに失敗したら言うに及ばす、これは不可能と裏切りを止めてもこのままだと今川の大軍にすり潰される未来しか思い浮かばないわけで、儂は弥八郎の策を採用することにした。
「ただ……気になる事がある」
「何でしょう?」
「そなたの策が成就して、手土産を持参して今川軍に降伏したとしよう。果たして許されるかな……」
いや、仮に今回は許されたとしても、それが我が家を保つ保証となり得るのか。反乱が治まり、落ち着いたところで言いがかりをつけられて処断されたり、あるいは冷や飯を食わされる可能性だって考えられるわけで……。
「確かにその懸念はございますな」
「だろう?」
「では、裏切るのを止めますか?三河者の意地を見せたと、後世の歴史家の評価は得られるかもしれませぬが……」
いやいや、後世の歴史家の評価などはどうでもよい。死んで花実は咲かぬのだから、儂は生きたい。家族や家臣たちの命や生活を守りたい。だから、儂は首を左右に振った。つまり……裏切りは続行と。
「とにかく、できることをやりましょう。後日の懸念は、今日を乗り切って初めて考える事ができるわけで」
まあ、そういう事で儂は弥八郎の言われる通りに、翌日の軍議で決戦を主張した。ちなみに、総大将であるはずの吉良様は出陣なさらず、この城に留まるという。何でも、東条城からこちらに来る途中に雨に打たれたらしく、夏風邪をひかれたとかで……。
「なんともまあ、頼りになる総大将殿だな……」
内心、仮病ではないかと疑いながらもその事は口にせず、鈴木を先陣に奥平や菅沼の後に続いて儂も手勢を率いて出陣した。




