第89話 次郎三郎は、出陣に際してあれこれ悩む
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国今川館 松平元信
明日はいよいよ出陣ということで、俺は兄貴と共にお屋形様の下へ挨拶に赴いている。
「よいか、次郎三郎。此度のいくさは、三河の者たちに今川の武威を示す良き機会である!」
今川の武威か……。
口にするわけにはいかないけれども、その武威を示すことが果たして我が松平家にとって吉かそれとも凶なのか。此度の反乱を討伐すれば、お屋形様の下での立場は上がるだろうが……。
「武運を祈っているぞ!」
「ははっ!」
しかし、目の前に太刀が餞別として運ばれて、俺はそんな迷いに蓋をした。いずれにしても、今川家の武威が衰えていない現状では、受け取って戦場に赴く以外の選択はないのだ。やるしかない。
「松下大蔵少輔」
「はっ!」
「そなたからの申し出を認めて、此度のいくさでは余の馬廻衆のうち、四番隊と五番隊を特例によって貸し出すことにする。次郎三郎を支えて武功を挙げよ!」
「ははぁ!ありがたき幸せに存じます」
馬廻衆など連れて、一体どうするつもりなのか。兄貴は、「だって、求人募集をかけても人が集まらないんだから、連中を連れて行くしかないだろ」……などと言っていたが、どうも胡散臭い。
ああ、モヤモヤするな。雪斎様に相談しようと思ったら門前払いだったし、俺はどうしたら……。
「次郎三郎?次郎三郎……どうした。お屋形様もご重臣方もすでに退席されたぞ。帰らないのか?」
「え……?」
あ……ホントだ。周りを見渡すと、兄貴以外は誰も居ない。どうやら、考え事をしている間に終わっていたようだ。
「しかし、よくもまあ、あの状況で寝られるよな。お屋形様が『そのまま寝させてやれ』と笑われておられたから事なきを得たが……次は気を付けた方が良いぞ」
場合によってはこれだからなと、兄貴は首筋をかき切る仕草を見せたが、全くもってその通りだと思う。これで三度目だし、次は気を付けなければ……と。
「そうだ。後で言おうと思っていたのだが……次郎三郎の配下に居る服部党を貸してもらえぬか?」
「服部党を……ですか?」
兄貴は、「対価はもちろん支払う」と言ってくれたが、それよりも気になるのはなぜ服部党が今回の反乱討伐に必要なのかについてだ。先程の馬廻衆の件も含めて、そろそろ説明が欲しいと、俺は答えの代わりに兄貴に言った。
「いやあ、しかしだな……」
「どうしてそのように、何も某に教えてくれないのですか!某はこの討伐軍の総大将なのですよ?おかしいではありませぬか!!」
「まあ、気持ちはわかるが……そなたには外部に漏らした前科があるだろ?迂闊に話すなと雪斎様からも言われてはな……」
雪斎様にそう言われている兄貴の立場もわからないわけではないが、流石にこれは悔しい。つまり、俺は信用が置けない男というわけだ。だから、つい……目から涙がこぼれた。
「おいおい、泣くなよ」
「だって……だって……」
「ああ、わかった!教えればいいんだろ!だからもう泣くなよ!!」
……本当に兄貴はお人好しだ。涙を見せたくらいで動揺して、こんなにあっさりと口止めされていた情報を漏らすようでは、きっと未来で致命的な大やけどを負いそうで心配だ。
「それじゃあ、説明するぞ。だけど、絶対に誰にも漏らすなよ?策というものは、秘匿されてこそ効果があるのだから」
それなら兄貴も言うなよと思わないでもないが……ただ、だからこそ俺はそんな兄貴が好きだ。あ……衆道という意味ではなくて、人としてという意味だけど、大やけどを負いそうならそれを防ぐ盾にはなりたいと思っている。
「それで、服部党には噂を流してもらおうと思っているのだ」
「噂ですか?」
だけど、思考を切り替え何の噂なのかと思っていると兄貴は言った。それは、11月にもお屋形様が直々に1万余の大軍を率いて三河に入るという噂を……と。
「なるほど。つまり、その噂を流して敵の切り崩しを図るのですね?」
確かにそのような噂が耳に入れば、全員とは言わないが、幾人かは矛を収めてくれるかもしれない。当然、反乱討伐は楽になるわけで……その目の付け所の良さに、「流石は兄貴だ」と俺は称えた。
しかし、兄貴は「そんな単純な話ではない」と首を左右に振られた。
「実はな、ここだけの話だが……お屋形様がお見えになるのは真の話なのだ」
「え……?」
「ただ……そうなれば、三河で反乱を起こした連中はどうなる?おそらく、漏れなく……これだろ?」
再び兄貴は、首筋をかき切る仕草を見せて、だからこそ穏便に事を収めるためにこの情報を内々に伝えるのだと言った。今川家が天下を取るためには、三河で血を流している余裕はないとして……。




