第88話 左近は、己がいる場所が化け物の住処である事を知る
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国駿府 島清興
藤吉郎殿から「話がある」と呼び出されて、その場でおとわ様がご懐妊されたと聞いて、思わずため息が出そうになった。なぜ、そんなことになる?婚礼の前に手を出すとは何を考えているのだとか……殿の行状に呆れて。
「しかし、どうするのです?これから三河に出陣なのでは……」
旗頭の吉良三郎を討つだけで反乱が鎮まるのであれば、あるいはお腹が大きくなる前に戻って来て婚儀を行う事も可能かもしれないが、直に三河へ赴いて情勢を鑑みるにそれは難しいと俺は思う。そして、それは藤吉郎殿も同意見の様で……
「ああ、それについてはこの後、弥八郎殿を交えて策がないか皆で相談する事になった。もちろん、左近にも加わってもらいたいが……」
そう前置きした上で、どうしようもなかった場合の策を俺に示した。関口家との関係上、産まれた子はおとわ様の子とするわけにはいかないので、その子はあかね殿の子とすると。
「あかね殿ならば、おとわ様も信頼しているし、安心であろう。左近もそう思わぬか?」
「お、お待ちを!それではあかね殿は……」
「無論、殿の側室となる。殿の子を産んだことになるのだから、やむを得まい」
藤吉郎殿は悲しみをこらえるかのように、少し空を見上げながらそう告げられたが……俺の心は大いに乱れた。どうして、なぜ殿の失態なのに、あかね殿が犠牲にならなければならないのかと。
だから、思わず口にした。「それは本当にあかね殿じゃなければダメなのか」と。
「どうした、左近。そのように取り乱して……」
「あ、いや……それではあかね殿があまりにも不憫ではないかと思いまして。それに要は側室が産んだ子という事にするだけならば、別に他の女に頼んでも良いのではないかと思いまして……」
そうだ。名目的な側室なのだから、別に誰でもいいではないか!
しかし、藤吉郎殿は首を左右に振った。この話は秘中の話にしなければならないから、信頼できる者に頼まなければ……として。
「左近……儂もつらいのだ。あかね殿は儂の妻に迎えるつもりだったのだからな」
藤吉郎殿にその気があったことは、俺ももちろん知っている。ただ、あかね殿はというと、実家から藤吉郎殿の気を引くように言われたけど……と、悩んでいた事も俺は知っている。前に二人で浜に遊びに行ったときにそう打ち明けられたのだ。
だから、その目の奥にある本心に気づいてしまった。藤吉郎殿は……自分の手に入らないと判断して、このような事を言い出したのだと。おそらく、俺にあかね殿を渡すくらいなら……と。
「藤吉郎殿……」
「まあ……話はそれだけだ。弥八郎が帰ってきたら、そなたも殿のお部屋へ参るのだぞ?」
ふざけるなと言いたかったが、同時に気づいた。背中が汗でびっしょり濡れていることに。どうやら、あの狂気に……飲み込まれていたようだと。
「あ、はは……」
独りになり、乾いた笑みを浮かべていることを自覚しながら、俺は懐からお守りを取り出した。これは、遠江の石見守様の下へ急に向かう話になった時にあかね殿から貰ったものだが……「どうかご無事で」と目を潤ませて渡してくれたあかね殿の顔が不意に思い浮かんだ。
「だが……どうすればよい?」
もちろん、その問いかけに誰も答えてはくれるはずもなく、答えは自分で導き出さなければならない事を改めて自覚して……俺は決意した。あかね殿と駆け落ちしようと。
「左様ですなぁ……」
しかし、誰も答えてくれるはずがないと思っていたところに返ってきた声を確認して、俺はその主を確認した。そこにいたのは……本多弥八郎殿であった。
「まあ、盗み聞きは悪いとは思っておりますが、事情はわかりました。しかし、左近殿。そのように思い詰めなくても、要は短期間で反乱を討伐すればよいのでしょう?」
「それは……そうだが……」
「ならば、何も問題はございませぬ。万事、この弥八郎にお任せを」
不敵な笑みを浮かべた弥八郎殿がポンポンと俺の肩を叩いて、それから殿の部屋に向かう。だから、俺もその後ろをついて行くが……何なのだろうと俺は思う。
藤吉郎殿といい、この弥八郎殿といい……この家は化け物の住処かなのかと。




