第86話 嘉兵衛は、おとわを甘い物で宥めるも……
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
「……まあ、そういう事情で、婚儀は延期となった」
「はひぃ?」
目の前には、これでもかという程に甘い物を並べてから切り出した本題。おとわは饅頭をモグモグしながら、俺の言葉に驚いた顔をした。
「んん……じょ、冗談よね?次郎三郎が反乱の鎮圧で三河に行くのは理解したけど……なんで嘉兵衛が行かないとダメなのよ。関係ないじゃない」
「参謀として次郎三郎を支えて、実績を示せという事だ。やり遂げたら、重臣に加えると言われた……」
駿府から率いていく兵は3千。雪斎様からのお話では、遠江や東三河で3千の兵が合流するから、最終的に合計6千の兵をもって反乱軍を討伐することになるらしい。
「ふ〜ん、つまり……わたしより、仕事の方が大事なんだ。そうですか、ああそうですか。あんたの気持ちはよく分かったわ!」
「おとわ……そんなに怒るなよ。ほ、ほら、このお汁粉もおいしいぞ……」
「ホント、おいしいわね……って、甘い物で誤魔化そうとしないでよ!」
そう言いながらも、箸を止めずに汁粉をすするおとわに思わず吹き出しそうになるが、そこはグッと我慢をして俺は話を続けた。なるべく早く片付けて戻ってくるから、少しの間待ってほしいと。
「少しってどれくらい?3日、それとも3日半?」
「いや……流石にもうちょっと……」
行ってみないとわからない所はあるが、吉良三郎を旗頭に現時点でも幾人かの国人領主たちが反乱に加わると見られているのだ。もしかしたら、あちらこちらに飛び火して泥沼化、長期化といった未来になる可能性もある。
だから、不用意な約束はできないと思って、さてどうしたものかと考えていると逆におとわの方が切り出してきた。「それなら、わたしも行くわ」と。
「えぇ……と、意味が分からないんだけど?」
「そう?比較的簡単な話だと思うけど……」
「どこが?」
「だって、婚儀って二人の共同作業よね?だから、早く実現するために協力する。そして、この場合は……わたしが戦場に立って、嘉兵衛の手足となって反乱軍をやっつける。まあ、そういうことよ!」
まあ、そういうことよって、どういうことなのよと思わないわけでもないが、一度にこうと決めたおとわに、止め立てする俺の言葉はもう届かない。
挙句の果てに、戦場では男装して「井伊次郎直虎」と名乗ると言い出した……。
「それなら、嘉兵衛も安心でしょ?」
「いや、全然安心じゃないだが……」
そもそもの話 今のおとわは関口家の養女だ。井伊谷に居た頃なら、今の話のような勝手はできるかもしれないが、流石にその立場を考えたら難しいと思う。下手をしたら、「もう面倒は見られない」と縁を切られる可能性だってあり得る。
だから、何とか思い止まってもらおうと、あれこれ考えて説得しようとした……その時だった。この重い話の最中でも止まることがなかったおとわの箸が止まったのだ。しかも、気分でも悪くなったのか、今にも吐きそうな顔をしている。
「大丈夫か?」
「ごめん……ちょっと、厠に……」
厠に……ってことは、おそらく吐くほどに気持ちが悪いという事だろう。俺はあかねに付き添いを頼むと、藤吉郎を呼んですぐに医者を手配するように頼んだ。
「だから言ったではないですか。ご機嫌を取らなければならないとはいえ、流石にこれはやり過ぎだと……」
「わかっている。確かに藤吉郎の言うとおりだな……」
空いた皿やお椀の数を目算しながら、俺もそこは素直に反省した。しかも、結局宥めることは適わなかったのだから、一体何をしているんだという気持ちにもなるわけで……。
「まあ、今はとにかく医者ですね。すぐに呼んでまいりましょう」
「ああ、頼む」
ただ、反省は後でよい。遠くから聞こえる虎の断末魔のような、苦しそうな声に苦笑いを浮かべて、俺は改めて藤吉郎に告げたのだった。




