第85話 嘉兵衛は、立身出世のために……
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
本多弥八郎が我が家臣の列に加わり、石見守殿が遠江に帰ってから数日後、俺は雪斎様から呼び出しを受けた。
「松下大蔵少輔にございます」
「入れ」
但し、駆けつけた臨済寺に呼ばれたのは俺だけではなかったようだ。入室を許可した声は朝比奈備中守様の物であり、障子を開けて中に入るとそこには次郎三郎の姿もあった。
「兄貴……」
そして、今にも泣きそうな声で縋って来る次郎三郎の様子から、こってりと叱られたのだろうなと推察できたが、一方で俺は確認できた。雪斎様が御健在であることを。
「お元気そうですね」
「ふん!だから夏風邪じゃと申したであろうが」
もっとも、それが本当なのか、それとも演技なのかはわからない。しかし、現時点においては、そのお知恵を拝借する事は出来そうなので、俺は打ち合わせの席に着いた。議題はもちろん、三河の後始末についてだ。
「背後に尾張の織田がいる以上、可及的速やかに乱を鎮めなければならぬ。儂が元気な体であれば、すぐにでも兵を率いて三河に向かうのだが、生憎そこまでの体力は回復していない」
だから、討伐軍の指揮は備中守様が執ると雪斎様は仰せになられた。それ自体は妥当な人選だと思ったが……
「大蔵、そなたは本当にそれで良いと思うか?」
自分で仰せになられておきながら、雪斎様はいきなり俺に訊ねてきたのだ。全くもって意味が分からない。脇に座る次郎三郎に視線を向けるも同様に首をかしげているのが見て取れた。
「どうした?答えられぬのか、大蔵よ」
いや……意味がないはずがない。本当にそれで良いか……俺はもう一度頭の中を整理し直すことにした。
反乱軍の討伐だけを考えたら、今川家の安泰を優先的に考えるのであれば、備中守様が指揮を執られることに問題があるように思えないが、それはこの態度からすれば、きっと不正解なのだろう。だが、誰にとっての不正解なのか……。
「雪斎様」
「それで、結論はいかに?」
「反乱軍の討伐は、この松下大蔵にお任せいただきたく……」
そもそもの話、俺がこの臨済寺に来て、雪斎様から教えを授かろうとしていたのは、自分では気づいていないこの時代にそぐわない『お人好しな性格』を治すことだ。ならば、ここでみすみす手柄を他人に譲るなどあり得ない話であり、結論が出た以上はそう答えるしかなかった。
すると、この答えはどうやら正解だったようで、雪斎様はその先のお話を続けられた。
「もちろん、大蔵が討伐軍の指揮を執る事にはいくつかの問題がある。その一つは身分だ。馬廻衆指南役補佐という地位では、総大将のお役目は望んでも与えられることはないであろう。そこでだが……」
雪斎様は、総大将に次郎三郎をお屋形様に推挙するつもりだと言った。
「え?お、俺が……ですか!?」
「そうだ、次郎三郎。そもそもの話、反乱を起きたのはそなたの口が軽かった事が原因であろう?責任は取らねばな」
拒絶すれば、此度の不始末の責任を取って松平家は改易、次郎三郎は切腹と……雪斎様の言葉を捕捉するように備中守様から言われては、もう逃げ道などどこにもない。
次郎三郎はがっくりと項垂れて、言われたままに総大将の任を引き受けると言わざるを得なかった。
「そして、大蔵よ」
「はっ」
「そなたは、そんな次郎三郎を参謀として支えて、見事反乱を鎮めて見せよ」
成し遂げたならば、その手柄をもって俺を今川家の重臣に推挙すると言われては、がぜんやる気がみなぎってもきた。ただ……
「では、両名とも。お屋形様の許可が出次第、速やかに出陣故、準備を怠るなよ?」
……などと一方的に言われて、俺は思い出した。結婚式まであと3か月を切っていた事を。
「あの……婚礼を挙げてから出陣というわけには?」
「あのな、その理由で敵は反乱を延期してくれるのか?」
「そうですよね……」
はぁ……きっとおとわに叱られるだろうなと、その無情な回答にため息が零れたのだった……。




