第9話 嘉兵衛は、めげずに勘定方の仕事に励むも……
天文23年(1554年)6月中旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
この井伊谷に移ってから早1か月近くが経った。初めて取り組む勘定方の仕事にも慣れて、指導役の但馬守殿と共に毎日忙しく過ごしている。
「いや……慣れたどころの騒ぎではないでしょう。最近ほぼ毎日突撃してくるとわ姫様への対応を含めて、なぜ、たった1か月しか経っていないのに、そんなに次から次へと当家の問題点をさばき切れているので?」
こほん……但馬守殿はそのように大げさに隣で呟いているが、俺のやったことなど大したことではない。帳簿を見て無駄遣いを指摘して、従わなければわかって貰えるように『お・は・な・し』しただけだ。
とわ姫様だろうが重臣の方だろうがご隠居様だろうが、分け隔てなく平等に……。
「しかし……まったく、この城の収入がどれだけあるのか、ご存じないのか?特にあのじゃじゃ馬姫だ。ホント、何度説明してもわかってくれないのは……」
しかも、最近では誰かが入れ知恵したのか、家中の女子を集めた圧力団体を作って「横暴だ!」とまた文句を言ってほぼ毎日突っかかってくるし、まさかそのうち「米が食べられないのなら、金平糖を食べればいいじゃない」……などと言っていないだろうな?そんな事になったら、一揆が起きかねないぞ?
「まあ、この真っ赤な帳簿を見ればお気持ちはわかりますが、そう嫌わないでいただきたい。心根は非常にお優しい方ですよ?」
「どこがですか!しかも、丁寧に説明してもしなくても、結局最後は『勝負だ!』……と問答無用と木刀で殴りにかかってくるし、兎に角、頭が悪すぎる!某じゃなければ、大けがを……」
「しかし、怪我はしていないでしょう?姫様は何だかんだ申して、全てを受け止めてくれる貴殿の事が気に入っているのですよ」
「そうですか?」
「そうですよ。だから、あれは猫がじゃれていると思えばよいかと。それなら可愛いものでしょう?」
「……恋は盲目とも言いますが、但馬守殿。流石にあれを可愛い猫とは思えませんぞ……」
他人の恋路にとやかくケチをつけるつもりはないが、とわ姫様を動物に例えるならば、同じネコ科でも猫ではなく虎だろう。並の男ではきっと敵わないはずだ。
「それはそうと、但馬守殿」
「なにかな?」
「姫様が貴殿との縁談を承知しないのは、すでに婚約者の方がいるからだと聞きましたが……」
この情報は、藤吉郎が仕入れてきてくれた。気賀で何かとおいしい物を買ってきては、城内の下男下女たちにばら撒いて、その見返りに教えてもらったらしい。まあ、そのおかげでお城の家計簿をとやかく言う前にうちの家計簿が真っ赤になってしまったが……。
「何が言いたいので?」
「要は、勝ち目がどの程度あるのかという事ですよ。もちろん、低いからと言ってこの話から降りるつもりはありませんが、知っているのと知らないのでは、今後の策を練るのにも影響があるかと思いまして……」
……とはいうものの、本音を言えば好奇心だったりする。何しろ、失敗したとしても、善四郎様から承ったお役目は果たすことができるのだ。あ……だからといって、血が流れてもいいわけではないが……。
「そうだなぁ……実のところ、あまり自信がない」
「え……?」
「それに、父上はどうしてもこの井伊家を完全に牛耳りたいとお思いのようだが、俺はそこまでではなくてな……」
ただ、それでも親不孝はできないからと、自分からこの企てを降りるつもりはないと但馬守殿は言う。
「それなら……姫様のことは、本当は一緒になりたいと思う程、好きではないと?」
「それは……わからない」
「わからない?」
「幼い時から一緒にいるから、このまま一緒になれたらいいと思う一方で、それが本当に正しいことなのか。そういう貴殿だって、ひよ殿の事が好きかと訊かれたら答えられるのか?」
そうだな……俺の場合も命令だから娶りたいと言っているだけで、本当に好きかどうかなどわからない。何しろ、顔を合わせたのは姫様の圧力団体のメンバーにいるのを確認した時だけたし。
「あれ?」
「如何されたか?」
「そういえば、姫様の圧力団体に加わっていたという事は、もしかして俺って……ひよ殿に嫌わていたりしますかねぇ……」
「そうだな。その可能性は大だろうな……」
まずい!勘定方の仕事を立派にやって、それで評価を上げようとしていたのにこれでは逆効果だ。兎に角、対策を考えないと……。




